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世界中の歴史を見渡しても、最も有名な少女の一人、アンネ・フランク。
あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話しできそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。
13歳の誕生日に、そう記された日記。
アンネ・フランクとは一体どんな少女だったのでしょうか。
今回はあまりにも有名な「アンネの日記」に残された言葉から、彼女の素顔に迫ります。
- アンネ・フランクとは
- アンネ・フランクの生きた時代は激動の時代だった
- アンネ・フランクはユダヤ人の裕福な家庭に生まれた
- アンネたちユダヤ人とはどのような人たちなのか
- 隠れ家生活のスタートは慌ただしいものだった?
- 隠れ家はアンネを含め8人が同居した
- アンネの日記では悪口が爆発していた?
- アンネたちの隠れ家での生活
- アンネたち隠れ家のみんながしたいこと
- アンネの関心事と夢は「書くこと」だった
- アンネとピーターの恋
- アンネの日記のユーモアたっぷりの書きっぷり
- アンネの日記の最後 “矛盾のかたまり”
- アンネは密告によって連行されたのか?
- 「アンネの日記」関係人物のその後
- アンネ・フランクとオードリー・ヘプバーンの共通点とは?
- アンネの名言・格言 3選
- アンネがわたしたちに残したもの
- アンネ・フランクゆかりの地
- アンネ・フランクのブックガイド 11選
アンネ・フランクとは
アンネ・フランク( Anne Frank)1929年6月12日、 ドイツのフランクフルトで裕福なドイツ系ユダヤ人家庭の次女に生まれました。
1933年、ナチスドイツからの迫害を逃れ、一家はオランダのアムステルダムに移住。
1942年7月、 姉マルゴーの召喚を機に一家は隠れ家生活がはじまります。
1944年8月4日、密告により連行されたアンネはアウシュヴィッツ、ついでベルゲン・ベルゼンに送られ、そこでチフスのため15年の生涯を終えます。
亡くなった時期は、1945年2月末から3月はじめと推定されています。
隠れ家で2年間に渡って書きつづけられた日記は、永遠の青春の記録として、70年以上経ったいまも世界中の人びとの胸をうち続けています。
アンネ・フランクの生きた時代は激動の時代だった
アンネ・フランクが生まれた1929年6月は、のちにBlack Thursday(暗黒の木曜日)と呼ばれるようになる世界恐慌が起きる4か月と少し前でした。
そして連合国軍がベルリン宣言でドイツ中央政府の消滅を発表した3か月前に命を落としています。
アンネ15年と9か月というあまりにも短い生涯は、世界が強烈に揺れ動いた時代でした。
1929年にはじまった世界恐慌により、アメリカでは1933年には人口の約25%(4人に1人)が失業者となります。
その後、世界中に広がった世界恐慌の影響を最も強く受けたのがドイツでした。
ドイツは第一次世界大戦の多額の賠償金をフランスに支払わねばならず、アメリカの資金援助により経済復興する構造になっていたため、アメリカ経済が混乱することは致命的な出来事でした。
そんな中、ドイツではヒトラーが首相に任命され、独裁政治を開始するに至ります。
アンネ・フランクはユダヤ人の裕福な家庭に生まれた
アンネ・フランクの父はユダヤ系ドイツ人のオットー・ハインリヒ・フランク。
母は同じくユダヤ系ドイツ人のエーディト・フランク。
父オットーの父は銀行家であり、母エーディトはアーヘンの有名な資産家の娘でした。
アンネは次女であり、3歳年上に姉のマルゴット・フランクがいました。
フランク一家は中産階級(上流階級と労働者階級の間で第三次産業従事者から教員、中小産業資産家まで幅広い人々)のユダヤ人一家でしたが、宗教的にはユダヤ教にも他の宗教にも熱心な家庭ではありませんでした。
画像 Pixabay
また、フランク一家は、一般的なドイツ家庭よりも経済水準は高く、よく旅行やショッピングに出かけていました。
そんな中、世界恐慌の影響で、家業である銀行業は不況から立ち直れず、業績が悪化していました。そして、ヒトラーが首相に任命され、フランク一家の住むフランクフルトでも反ユダヤ主義デモが頻繁にみられるようになりました。
アンネたちユダヤ人とはどのような人たちなのか
アンネフランクの一家はユダヤ人ですが、そもそもユダヤ人とはどのような人たちのことを指すのでしょうか。
ブリタニカ国際大百科事典によると、
ユダヤ教を信仰する人々。ヘブライ人とも呼ばれる。広義では、世界各地に離散した旧約聖書のヘブライ人を継承するパレスチナに起源を持つ人々の子孫や、ユダヤ教に改宗した者も含める。
大辞林によると
ユダヤ教を信仰する人々。古代ではパレスチナに居住していたイスラエル人の子孫がこれにあたる。早くから世界各地に離散。キリスト教徒による社会的差別を受けた。
ここから分かることは、ユダヤ人とは、ユダヤ教を信仰している人々のことで、具体的な人種や国家を指すものではないということです。
また、ユダヤ人は歴史的に迫害を受けてきた人々です。
その中でも最大の迫害が600万人の命を奪ったナチスによるユダヤ人迫害と言えるでしょう。
アンネ・フランクもその中の一人です。
隠れ家生活のスタートは慌ただしいものだった?
「隠れ家へ」という題名で始まる1942年7月8日水曜日の日記の書き出しです。
日曜日の朝からいままでに、何年もたってしまったような気がします。いろんなことが起こって、まるで世界中がひっくりかえったみたい。
気が動転しているのがよく分かります。それもそのはずです。
日曜の朝に、ナチス親衛隊から、姉のマルゴーに呼び出し状が来たのです。
この呼び出し状が意味するものは、強制収容所や牢獄に行くということでした。
マルゴット・フランク(1942/5) Fair use, Link
その日のうちに、アンネとマルゴーは大切な身の回りの物を通学カバンに詰め込んでいます。
そして、あくる朝7時半には家を出発しています。
実は、もう何か月も前から隠れ家への移動の準備は進められていました。
1942年7月16日に身を隠す予定でしたが、マルゴーへの呼び出し状によって、それよりも10日早まる移動となりました。
また、アンネがこの計画を聞かされたのは、隠れ家へ移動している最中だった言うことです。
隠れ家はアンネを含め8人が同居した
隠れ家では、8人の人たちが生活を共にしていました。
まずは、先にも紹介したフランク一家です。
- アンネの父であるオットー・ハインリヒ・フランク(日記の中では「ピム」)
- アンネの母であるエーディト・フランク
- アンネの姉であるマルゴット・フランク(日記の中では「マルゴー」)
- そして、アンネ・フランク
会社が入っている通りに面した家(左)と隠れ家がある「後ろの家」(右)の模型
次に、ファン・ペルス一家です。
- ヘルマン・ファン・ペルス(日記の中では「ファン・ダーンのおじさん」)
- アウグステ・ファン・ペルス(日記の中では「ファン・ダーンのおばさん」)
- ピーター・ファン・ペルス(日記の中では「ピーター」)
最後は、途中から隠れ家生活に加わることになる
- フリッツ・プフェファー(歯科医。日記の中では「デュッセルさん」)
この8人で、約2年間の隠れ家生活を共に過ごすことになります。
アンネの日記では悪口が爆発していた?
クラスメイトについて
まだ、隠れ家生活が始まる前にスタートした日記には、クラスメイトの紹介をしている場面の一コマでは、あるクラスメイトのことをこのように書いています。
J・Rについては、まるまる何章分書いたって、まだ書き足りません。なにしろ自惚れ屋で、陰口好きで、意地悪で、威張り屋で、陰険で、偽善家。・・・
また、他にも
ロブ・コーヘンも、やっぱりわたしにお熱ですけど、この子にはわたしももううんざりです。偽善的で、嘘つきで、愚痴っぽくて、イカれていて、おまけに退屈。…
などなど、こんな様子でクラスメイトの紹介は進んでいきます。
隠れ家での同居人について
隠れ家生活がはじまってからは、同居人のファン・ダーン一家(おじさん、おばさん、ピーターの三人)とデュッセルさんの4人についても辛辣に記されています。
おばさんに対しては、特に激しく、
なんてばかで、滑稽で、くだらない人なのかしら。
すごくでしゃばりで、わがままで、こすからくて、打算的で、欲深だということ、これは隠れもない事実です。
などと記されています。
しかし、これもあくまで隠居生活の前半です。心の成長や葛藤の中で、おばさんを
とびきり働き者で、きれい好きですから。それに、陽気であることも間違いありません。
と、いい面を記している場面もあります。
家族について
幼少期のアンネのメモリアルプレート。
左がマルゴット(マルゴー)。中央は当時の友達。右がアンネ。
また、アンネは母についても、思春期の少女としてはごく自然な批判的な目を向けています。
ママの無遠慮な批判や、わたしにはちっともおかしくないへたくそな冗談、そういったものが積み重なって、ママの愛情に感動する心をわたしから奪ってきたんです。
姉のマルゴーについては、他の同居人たちに比べるとそれほど記述は多くありませんが、快活なアンネとは正反対の性格だったようです。
父については、唯一の理解者であるとアンネは考えていたようですが、それでも思春期の少女の胸の内をすべて明かすことはできなかったようです。
アンネたちの隠れ家での生活
アンネは隠れ家での生活が始まってすぐ、こう記しています。
隠れ家への移動は、肌着を二枚に着て、パンツを三枚重ねてはいたうえにワンピースを着て、スカートとジャケットを重ね、サマーコートを羽織り、ストッキング二足と編み上げのブーツをはき、毛糸の帽子とエリマキと・・・。
この日記の日付が7月8日。つまり真夏です。
真夏の暑い中に厚着での移動と、大変なスタートだったのです。
また、お風呂はどうしていたのかというと、トイレでたらいを使って行水するというかたちだったようです。
隠れ家のあったプリンセン運河通り267-275番地。1950年撮影
そして、食べ物に関してはもちろん満足なものではありませんでした。
1か月間同じものを食べ続けたり、腐りかけているものも食べることが日常的にあったようです。
他にも、トイレットペーパーがいちごの領収書だったり、日記を書くにも夜には明かりなんてありませんでした。
アンネたち隠れ家のみんながしたいこと
戦争が終わって、外に出られる日が来たら何をしたいか、みんなで話した記述があります。
マルゴーとおじさんは、熱いお湯の湯船につかりたい。おばさんは、クリームケーキ食べに行きたい。デュッセルさんは、隠れ家生活に入るために仕方なく別れた妻に会いに行きたい。ママは、おいしいコーヒーを飲みたい。パパは、支援してくれている友人のお見舞いに行きたい。ピーターは街を歩き映画を観たい。
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そしてアンネは、
家を持つこと、自由に行動できること、学校に行きたい。サイクリングをする、ダンスをする、口笛を吹く、世間を見る、青春を味わう、自由を満喫する。
ユダヤ人とかユダヤ人ではないとかにかかわらず、わたしがたんに一人の少女であり、はしゃいだり、笑ったりすることを心の底から欲している。
アンネの関心事と夢は「書くこと」だった
関心事
好きなことは、
- 書くこと
- 王室の系図調べ
- 歴史
- ギリシア・ローマ神話
- 映画スター・家族写真集め、熱烈な本好き、読書好き、美術史、詩人・画家の伝記。
- (のちに音楽家も入る予定。)
嫌いなことは、
- 代数
- 幾何
- 計数
夢
アンネは
将来、文章を書いて身を立てたいこと。かりに作家にならないまでも、他の職業を持つかたわら、ものを書くことも続けてゆきたい。
と、自分の夢を記しています。
また、日記の最後の方では、ジャーナリストになって、作家になりたいと夢を語っています。
アンネとピーターの恋
1944年4月16日の日記には、このように綴られています。
きのうの日付(1944.4.15)を覚えておいてください。わたしの一生の、とても重要な日ですから。もちろん、どんな女の子にとっても、はじめてキスされた日と言えば、記念すべき日でしょう?
キスの相手は、ピーターです。アンネ14歳、ピーター17歳でした。
愛と平和のシンボルとなっているアンネのバラ
(神戸市須磨区 須磨離宮公園)
大人にはわかってもらえない自分の心の慰めをアンネは求めていました。
外に出て友達と普通に話すことが出来たのであればその相手は女友達だったのかもしれません。
しかし、ピーターといろいろなことを話すようになり、お互いに信じあえるようになり、それが恋に発展したのは自然なことではないでしょうか。
アンネの日記のユーモアたっぷりの書きっぷり
アンネの日記
アンネ・フランク・ツェントルム(ベルリン)展示
隠れ家生活で、大人たちと何度もぶつかり合ったアンネはこのように教訓を書いています。
理性を働かせて、服従することを学び、口を慎むことを学び、ひとの手助けをすることを学び、お行儀よくすることを学び、意地を張らないことを学び、それから
・・・まだあったけど、忘れました。いまから頭を使いすぎると、もともとそうたくさんない脳みそが、ますますすりへってしまいそう。
それではこの戦争が終わるころには、頭がからっぽになっちゃいますもんね。
また、隠れ家生活について茶目っ気たっぷりに、
すごく変わった貸別荘で休暇をすごしているみたい。
と表現する場面もありました。さすがは夢が作家だけはあります。
アンネの日記の最後 “矛盾のかたまり”
アンネの日記は、突然終わっています。
最後の日記の書き出しはこうです。
”矛盾のかたまり”。
前回の手紙はこの言葉で終わりましたから、きょうはここから始めることにしましょう。
最後の日記では、アンネ自身の心の成長の葛藤を「矛盾」という言葉をキーワードに綴っています。
そして、またこの先も日記が続くであろうというと読者は期待するような幕切れでした。
アンネは密告によって連行されたのか?
アンネにとって、1944年8月4日が運命の日でした。
いつもと変わらない金曜日だったそうです。
昼前に、見慣れない男が銃を持って入ってきたということです。
そして、そのまま隠れ家にいた8人は連行されていくことになります。
ナチスのシンボルであるハーケンクロイツ
パブリック・ドメイン, Link
密告だったのか?それとも偶然見つかったのか?
第二次世界大戦最大の謎といわれるその真相は?
密告説が濃厚ですが、いまだに偶然なのか、密告であれば誰による密告なのかは謎に包まれたままです。
その謎に立ち向かうため、元FBI捜査官が、「A COLD CASE DAIRY」というプロジェクトを立ち上げ、今なおアンネ・フランク一家連行の真相を探るための捜査を進めています。

「アンネの日記」関係人物のその後
協力者たち
アンネたちの隠れ家生活を支援してくれた協力者たちについても紹介しなければならないでしょう。
主に4人(クレーフル、クレイマン、ベップ、ミップ)の人物が食べ物や生活用品を運びこんできてくれていました。
また、誰かの誕生日には必ずプレゼントも持ってきてくれました。
画像 シルエットAC
クーフレルとクレイマンは、秘密警察本部へ連行の後、裁判もないまま労働収容所へ。
クレイマンは、かねてから健康を害していたことから釈放されています。
戦後、1959年にアムステルダムで死去。
クーフレルは労働収容所間の移動の際に、逃亡に成功しています。
戦後、1989年トロントで死去。
ベップとミープは逮捕を免れます。
ベップは、1983年アムステルダムで死去。
ミープは、2010年アムステルダムで死去しています。
アンネたち8人
アンネとマルゴーは、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で1945年2月末か3月初めにチフスで死去。
この収容所が英国軍によって解放されたのは、1945年4月12日でした。
- アンネとマルゴーは、解放される1か月ほど前に命を落としています。
- アンネの母は、1945年1月6日に飢餓と疲労のため死去。
- ファン・ダーンのおばさんは1944年10月、あるいは11月にガス室で殺害。
- ピーターは、1945年5月5日死去。収容所が米軍に解放される3日前でした。
- ファン・ダーンのおじささんは、死亡日時不明。
- デュッセルさんは、1944年12月20日死去。
唯一生き残ったアンネの父は、アウシュヴィッツに収容されていた彼は、ソ連軍に開放され、アムステルダムへ帰還している。
その後、1980年8月19日にこの世を去るまで、アンネの遺した平和へのメッセージを、広く人類に知らしめるために生涯をささげています。
アンネ・フランクとオードリー・ヘプバーンの共通点とは?
実は、ハイウッド女優のオードリー・ヘプバーンとアンネ・フランクは1929年生まれで同じ年です。
ヘプバーンの誕生日が5月4日ですから、アンネとは一か月も変わらないことがわかります。
しかも二人ともベルギーのブリュッセル生まれです。
ヘプバーンは幼少時代をベルギーとイングランドで過ごしますが、第二次世界大戦中の1939年から1945年まで、オランダのアーネムで音楽学校に通っています。
その間、強制収容所行の列車に乗せられるユダヤ人を目撃したこともあったといいます。
そして、ヘプバーン自身も、ドイツ占領下のオランダで、1か月間チーズやチューリップの球根で飢えをしのぐなど、厳しい生活を強いられていたのです。
アンネの名言・格言 3選
1955年に出版されたスペイン語版のアンネの日記
『Las habitaciones de atrás(後ろの家)』初版
アンネの名言・格言①
いったい全体、戦争がなにになるのだろう。なぜ人間は、おたがい仲よく暮らせないのだろう。なんのためにこれだけの破壊がつづけられるのだろう。
『アンネの日記』増補新訂版
アンネの名言・格言②
そもそもなぜ人間は、ますます大きな飛行機、ますます大型の爆弾をいっぽうでつくりだしておきながら、いっぽうでは、復興のためのプレハブ住宅をつくっ たりするのでしょう?
(中略)
世界のどこかでは、食べ物がありあまって、腐らせているところさえあるというのに、どうしていっぽうには、飢え死にしなくちゃならない人たちがいるのでしょう?いったいどうして人間は、こんなにも愚かなのでしょう?
『アンネの日記』増補新訂版
アンネの名言・格言③
わたしは思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家にだけあるのではありません。
そうですとも、責任は名もない一般の人たちにもあるのです。
そうでなかったら、世界じゅうの人びとはとうに 立ちあがって、革命を起こしていたでしょうから。
『アンネの日記』増補新訂版
Deur InSapphoWeTrust from Los Angeles, California, USA
– Anne Frank at Madame Tussaud’s Amsterdam, CC BY-SA 2.0, Skakel
アンネがわたしたちに残したもの
アンネ・フランク、15歳という、あまりにも短い生涯を送った一人の少女。彼女はいったい現代に生きる私たちに何を残したのでしょうか。
第二次世界大戦で虐殺されたユダヤ人は600万人といわれます。
この600万人という想像も絶する「数字」で語られがちですが、そのひとつひとつが力強く確かに生きていた一人一人の人間だったということ。アンネのような少女が確かにいたこと。
そんなことを私たちに感じさせてくれます。また、日本はナチス・ドイツの同盟国であったということを忘れてはいけません。
アンネ・フランクゆかりの地
アンネ・フランクの家は、オランダのアムステルダムにいまでも残っています。中は当時のままに、ミュージアムとなっています。オランダに行く機会があればアンネがどのような場所で生活していたのか、ぜひご自身の目で確かめてみてはいかがでしょうか。
アンネの家の位置(オランダ、アムステルダム)
アンネ・フランクのブックガイド 11選
アンネについて
キャロル・アン・リー『 アンネ・フランクの生涯』(深町眞理子 訳、DHC)
アンネ・フランクの従兄であり、アンネ・フランク財団の理事長であるバディー・エリーアスのインタビュー、親族のもとに残されていたアンネの手紙、未刊のオットーの回想録など、貴重な取材をもとに、綿密に描かれたアンネ・フランクのすべて。
「BOOK」データベース
オランダ国立戦時資料研究所 編『 アンネの日記〈研究版〉』(深町眞理子 訳、文藝春秋)
三種類のテキストの存在と筆跡鑑定、三段組にした三種類のテキスト全文、「完全版」はこの研究書から生まれた。「完全版」にも収録されなかった意外なアンネの一面も見えてきて、興味つきない大著である。
「MARC」データベース
ミープ・ヒース、アリスン・レスリー・ゴールド『思い出のアンネ・フランク(深町眞理子 訳、文春文庫)
隠れ家のアンネ一家にパンとミルクを、花と本を届けつづけた人、一家がナチに連行されたあと、隠れ家の床に散乱していた「日記」を回収、保存したその人。「あの人たちのことを悲しまずに過ぎる日はいまも一日とてない」と述懐する著者の回想は、「アンネの日記」の行間を埋める貴重な資料であるばかりか、それ自体感動と勇気の書だ。
「BOOK」データベース
メリッサ・ミュラー『アンネの伝記』(畔上司 訳、文藝春秋、文春文庫もあり)
1998年夏、『アンネの日記』に新たな5ページが発見されたニュースは世界を駆けめぐった。スクープしたのは本書の著者。アンネの伝記を書くための取材中に所有者を探しあてたのである。この新発見の他、隠れ家の密告者を特定したことや、40人近いアンネ関係者のその後の人生を追った調査などが反響を呼んだ世界的ベストセラー。
「BOOK」データベース
アンネ・フランク『アンネの童話』( 中川李枝子 訳、文春文庫)
アンネは「日記」のほかに童話とエッセイを書き遺していた。空想の翼をうんと広げて、スターにハリウッドへ招待される話や、汽車の旅で三十男をからかうお茶目な話…これを書いているとき、アンネはどんなにか自由だったことだろう。そしてどの話にも、胸の奥から噴出するキラリと光るものがある。書かずにはいられぬ何かが…。
「BOOK」データベース
アンネ・フランク 財団 編『目でみる「アンネの日記」』(文春文庫ビジュアル版)
わずか十五歳でアウシュビッツの露と消えたアンネ・フランクの生涯を父のアルバムから紹介するとともに、ナチスの台頭から終戦まで、彼女が生きた社会の実像を豊富な写真でたどる。
ミリヤム・プレスラー『わたしは憧れているの ─ ─ アンネ・フランク』(平野卿子訳、ほるぷ出版)
十六歳の短い〈生〉しか与えられなかったアンネ・フランク。けれども、その短い生涯の中で、アンネは女性として作家としてめざましい成長を示す。完全版日記をもとに、アンネの等身大の肖像を描く伝記。
「MARC」データベース
アンネと似た境遇を経た青少年たちについて
エディス・フェルマンス『エディスの真実 ─ ─ ナチ占領下を生きぬいた少女』(樋口真理 訳、講談社)
悲しみをこらえて綴った日記、生きる支えとなった両親との手紙。第二次大戦下のオランダでナチの迫害を生き延びた少女が、自らまとめた愛と忍耐の物語。98年イギリスでブック・オブ・ザ・イヤー受賞。
「MARC」データベースより
ヨナ・オバースキー『チャイルドフッド』(田口俊樹 訳、キネマ旬報社)
悲しみをこらえて綴った日記、生きる支えとなった両親との手紙。第二次大戦下のオランダでナチの迫害を生き延びた少女が、自らまとめた愛と忍耐の物語。98年イギリスでブック・オブ・ザ・イヤー受賞。
「MARC」データベース
ユダヤ人迫害について
H・フォッケ& U・ライマー『ヒトラー政権下の日常生活 ─ ─ ナチスは市民をどう変えたか』(山本尤・鈴木 直訳、社会思想社)
1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任し、政権を掌握した。その日以降、ドイツの平均的市民は、ナチスの要求である“画一化”に対し、どのように反応したか。そして、青少年、学校、家庭、労働者たちの日常生活がどう変わったのか。本書は一人の若者の回顧から始まる。「村はカギ十字の旗で溢れた。…学校の様子も変わって行く。ヒトラー式の挨拶をする生徒や教師が増え…、そして、いつしか私も…」庶民の生の声を伝える興味ある記録。
「BOOK」データベース
ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』(片岡啓治訳、講談社学術文庫)
祖国ドイツを愛する忠実な軍人であり、「心をもつ一人の人間」であったアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスが、抑留者大量虐殺に至ったその全貌を淡々とした筆致で記述した驚くべき告白遺録。人間への尊厳を見失ったとき、人は人に対してどのようなこともできるのだろうか
「BOOK」データベース
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