有村次左衛門を知る14トピック 井伊直弼の首を取った薩摩藩士は、東郷平八郎の義叔父

日本

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安政7年(1860年)3月3日の「桜田門外の変」から江戸幕府の崩壊が始まったと言っても過言ではありません。雪の降る桜田門外で井伊家の行列を襲撃した18名(桜田十八烈士)の中で、ただ1人の薩摩藩士が、江戸幕府の大老・井伊直弼の首を取りました。

その薩摩藩士の名は、有村次左衛門です。

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有村次左衛門とは

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桜田門外の変における有村次左衛門を描いた『近世義勇伝』
国立国会図書館所蔵, パブリック・ドメイン, Link

有村 次左衛門(ありむら じざえもん)は、桜田門外の変で井伊直弼の首を取ったことで有名な薩摩藩士です。

父親の有村仁右衛門は薩摩藩の役人でしたが、次左衛門が10歳くらいの頃、家老を罵ったために職を奪われてしまいます。有村一家は都城(みやこのじょう)の田舎に引っ込み、荒れ地を耕してかろうじて飢えを凌いでいました。

次左衛門は22歳のときに薩摩藩の任命で江戸屋敷詰めとなります。そのわずか1年後、桜田門外の変で井伊直弼を襲撃。井伊直弼の首を取ったものの、自身も手負いとなり、23歳の若さで亡くなりました。

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江戸屋敷 パブリック・ドメイン, Link

次左衛門は4人兄弟の末っ子であった

次左衛門は4人兄弟の末っ子でした。特に2人の兄の影響を強く受けます。

長兄の有村俊斎は、国許の薩摩にて「精忠組」を西郷隆盛、大久保利通らと結成しており、倒幕の中心人物となります。明治維新後に子爵となり、海江田信義と名前を変えています。

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有村兄弟の長兄・俊斎(のちに海江田信義、1899年)
By Published by 博文館- 雑誌『太陽(The Sun)』第5巻第2号、口絵,
パブリック・ドメイン, Link

次兄は有村雄助、弟の次左衛門に近い存在であり、連れ添って江戸藩邸で活躍します。精忠組の在江戸メンバーということになります。

やがて安政の大獄が彼らに大きな影響を与えます。自分が何を成すべきかが明確になってきます。次左衛門の目標は「井伊の首を取る」ということで明確になりました。

次左衛門の井伊大老暗殺計画は、安政の大獄で固まった

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大老・井伊直弼
世田谷区ホームページ 文化財 井伊直弼画像,  パブリック・ドメイン, Link

安政の大獄とは

安政5年から翌年にかけて、徳川の将軍継嗣問題と条約勅許問題で、大老井伊直弼が自分に批判的な公卿、大名、幕臣、志士らに対しておこなった弾圧です。100人以上の逮捕者と処刑者が出ています。吉田松陰、橋本佐内などが死罪、日下部伊三次が獄死しています。

将軍継嗣問題

一橋派(水戸、薩摩)VS南紀派(井伊直弼他保守路線)の構図の中、当時の第13代将軍徳川家定には薩摩の篤姫が嫁いでおり、島津斉彬は次の将軍を一橋慶喜(徳川慶喜)にする段取りでした。しかし、井伊直弼が大老に就任したとたん覆され、まだ幼少な南紀派の徳川家茂に決定してしまった問題です。一橋慶喜が蟄居の処分を受けるなど情け容赦ない弾圧でした。

条約勅許問題

勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印してしまった問題です。いずれも体の弱かった家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっていますが、実際には大老・井伊直弼が全ての命令を発しています。この暴挙に全国の志士が奮い立ちます。次左衛門もその一人であり、井伊の首を取るという意志が固まりました。

井伊直弼に関してはこちらの記事が詳しいです。

井伊直弼が分かる17トピック 出生から安政の大獄・桜田門外の変とその後
1603年江戸に徳川家康が打ち立て265年間続いた江戸幕府。その終焉のきっかけとなったは安政の大獄という恐怖政治でした。それを行った井伊直弼が暗殺された桜田門外の変。井伊直弼という人物は、何を考え安政の大獄を行い、なぜ殺されなければならなかったのかを追っていきたいと思います。

次左衛門は精忠組の志士により尊王攘夷の精神を醸成された

有村兄弟が属していた精忠組の存在無しでは桜田門外の変どころか、明治維新は語れません。

精忠組(誠忠組)とは

現状打開のため薩摩の有志たちは、頻繁に会合を行い、結束力を高めていました。リーダーは大久保正助(利通)で、血気盛んな志士を束ねています。具体的には、「近思緑」という儒教の朱子学のテキストを読み合う会であり、尊王攘夷精神の高揚の場となっていました。

名君島津斉彬派の「幕政改革」を話し合う場となり、薩摩及び幕府を揺り動かす原動力を培っています。斉彬派の読書サークルというイメージです。

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島津斉彬
published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) ,
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ただし、彼らが当時「精忠組(誠忠組)」と名乗った事実は無く、後世の命名です。

志半ばで亡くなった斉彬の遺志を尊重し、江戸の大老「井伊直弼、憎し」の思いを秘める集団となっていきます。

有村兄弟のうち、次兄雄助と次左衛門は江戸藩邸詰めとなります。そこで世話になったのが、日下部家。彼らにとって切っても切れない歴史上の重要人物の存在がありました。その名は日下部伊三次(くさかべいそうじ)です。

有村兄弟は、井伊直弼を仇とする日下部家のお世話になった

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日下部伊三次
By 石田渓岳 – 『高名像伝 : 近世遺勲. 天』(子安信成 編、石田渓岳 画、片山武兵衛、1880年),
パブリック・ドメイン, Link

江戸藩邸詰めとなった有村兄弟は、藩邸に近い西応寺町(現在の港区芝2丁目)の日下部家に世話になります。

日下部家主人の伊三次は水戸と薩摩の架け橋の存在として活躍をしていました。しかし、安政の大獄で逮捕され、江戸伝馬町の牢にて筆舌に尽くしがたい拷問の末、衰弱死します。さらに長男もその翌年牢死します。井伊直弼に殺されたのです。

したがって日下部家には女性だけが残されました。残された妻お静にとって井伊直弼は夫と長男の敵です。井伊直弼の仇を取ることを人生の第一義とし、仇を取ってくれる薩摩藩士を生涯大事にします。

特に有村兄弟を大事にし、後に次左衛門を娘松子の婿に向かい入れます。

次左衛門には詩才があり、剣の達人でもあった

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煙管
By Daderot – CC0, Link

次左衛門は、自分の煙管の柄に、

磐(いわ)、鉄(かね)も、摧(くだ)かざらんや、武士(もののふ)が、国安かれと、思ひ切る太刀

と、辞世の句を刻んでいました。

それを江戸藩邸で見た兄・雄助は、弟の意外な才能に驚きます。母が歌学の達者だったので、詩才は次左衛門に遺伝したと思いました。

剣の腕も兄弟の中で抜きんでていました。薩摩では示顕流の名人といわれた薬丸兼義に学び、師匠から「天稟(てんぴん:生まれつきの才能)がある」といわれています。江戸では北辰一刀流も修めます。水戸の浪士たちにもその腕を認められ、後の桜田門外の襲撃事変において井伊の首を切る大役を担うことになります。

次左衛門のみが薩摩藩から桜田門外の井伊暗殺計画に参加することになった

ある日、次左衛門が日下部家を訪ねると、来客がありました。水戸藩小姓「佐野竹之助」と同馬廻り組「黒沢忠三郎」の2人です。次左衛門と会うために百姓に扮して命がけで来ました。やがて兄の雄助も加わり、井伊の暗殺計画が話し合われました。

水戸藩では一挙に千人を動かすことができると言い、即刻決起を促します。これに有村兄弟は返事に窮してしまいます。薩摩藩では「時期尚早・待ち」の姿勢を余儀なくされていたからです。

薩摩藩の待ちの姿勢の理由は、水戸藩よりももっと現実味のある大きな計画があったからです。

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薩摩藩主 島津久光
By 原田直次郎 – 尚古集成館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

それは、薩摩では三千人を動かし京に上り、朝廷を守護して幕府に臨み、朝命によって幕府の改革をせまるという計画が固まっていたからでした。「微力な脱藩浪人の力で天下を動かせるものではない」という薩摩の考え方です。国を挙げて「一藩勤王」の道、機会を察して起ちあがるという方針です。

この薩摩の計画は、薩摩藩主 島津久光と精忠組リーダー 大久保利通によるものです。

これを知った水戸有志代表の木村権之衛門は、自分らだけで井伊を暗殺したのち、京都義挙を薩摩藩に頼ろうと考え、井伊を切る役の次左衛門だけ残し、兄の雄助には、京都での大仕事に行くように伝えたのでした。

かくして薩摩からの襲撃突出は次左衛門一人となりました。

次左衛門は、松子と一夜限りの夫婦の契りをした

襲撃前の水戸浪士と薩摩浪士の話し合いは、怪しまれぬよう、日下部母娘(お静と松子)が使いとして介在していました。水戸の盟士はぞくぞくと江戸に潜入してきます。

松子はある日、次左衛門を江戸見物に誘います。デートを兼ねた視察です。松子は次左衛門を密かに想っていました。桜田門周辺の地理をしっかりと目に焼き付けさせます。さぞ切なかったでしょう。本懐を遂げればこの世から姿を消してしまうのですから。

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桜田門(高麗門)
By 663highlandOwn work, CC BY 2.5, Link

大久保利通の日記によれば、次左衛門が本懐を遂げる前日3月2日、日下部家に有村兄弟が呼ばれています。母お静より、次左衛門を養子として貰えぬかという話でした。実は兄雄助は知っていたのですが、当人の次左衛門は知らぬ話でした。松子は、夢に次左衛門が出るほど想っていました。

明日死ぬ身である次左衛門と一夜限りの夫婦の契りがその晩ありました。

壮士次左衛門を一夜でも婿にすることによって、桜田門外の暗殺は、日下部母娘にとって身内の手による仇討ということになるのです。

次左衛門、桜田門外にて本懐を遂げる

「安政五戊午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」大判六枚続[注釈 1] 月岡芳年画 明治初期

桜田門外の変
By Anonymous Japanese 1860 – “Saigo Takamori and Okubo Toshimichi”, パブリック・ドメイン, Link

安政7年3月3日、その日は珍しく雪でした。彦根藩の門から出てきた井伊直弼を載せたお供たちは、防寒具を着ていました。刀の柄や鞘にも袋がかかっています。井伊家の行列は60名、次左衛門たち襲撃者は18名。数では劣るものの、悪天候が味方になりました。

駕籠訴(かごそ:籠に訴状を投げる町人)を装った刺客が、列の先頭に襲いかかり、まずは二人を斬殺、ピストルの銃声が鳴り響いたのが次の合図でした(銃弾は籠の中にいる井伊直弼の腰を撃ち抜いていました)。

異変に気づいた井伊家の者は、刀を抜き、敵を迎え撃ちます。しかし、柄や鞘に袋を被せていたことが仇となって、なかなか抜けません。やがて駕籠を守る者がいなくなり丸裸になった駕籠に次から次へと刀を突き刺します。

髷をつかまれた井伊は、ついに駕籠の外へ引きずり出されたその時です。薩摩、薬丸自顕流特有の「猿叫」が響き渡ります。刹那、井伊の首は、雪の上を転がります。

井伊の首を取り本懐を遂げたのは薩摩から一人で参加した有村次左衛門だったのです。

「キイェェェェェイ!」と声を上げる猿叫。音量注意。

次左衛門の壮絶な最期の言葉「誰か、介錯を頼みもす・・・」

井伊の首を刀の切っ先に突き刺し、勝ちどきを上げる次左衛門がその場を立ち去ろうとすると、倒れていた彦根藩士・小河原秀之丞が息を吹き返し、次左衛門の後頭部を切りつけます。

後頭部を切られた次左衛門は、「もはやこれまで」と悟り、切腹をしようとしますが、皮の稽古胴を着用していたため、思うように出来ません。刀を地面にさして寄りかかって自決しようとしたものの、これも失敗しました。介錯をしてくれとジェスチャーで頼むものの、誰もそんなことをする余裕はありません。次左衛門は死ぬことができず、水のかわりに雪を手に取ると口に押し込みます。首を抱え、体を引きずるようにしてその場を離れました。

「誰か、介錯を頼みもす……」これが次左衛門最期の言葉でした。享年23歳。

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桜田烈士愛宕山遺跡
By MAKIKO OMOKAWA, CC 表示-継承 3.0, Link

なお、襲撃に参加した水戸浪士17名+薩摩浪士(有村次左衛門)の1名あわせて18名は、ほぼ全員の16名が事件中かその直後に亡くなっています。襲撃で傷を負ったり、自刃したり、斬首の刑になりました(逃亡した2名は天寿を全う)。

大久保利通は次左衛門を格別に評価していた

維新の3傑といわれる大久保利通自身の「大久保日誌」にたびたび有村次左衛門のことが記されています。大久保は元々体が強いほうではなかったので、武道よりも学問、討論が得意で、武道が得意な薩摩隼人をとても大事に頼りにしていました。

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大久保利通
近世名士写真,国立国会図書館 パブリック・ドメイン, Link

大久保は精忠組を西郷や次左衛門の兄俊斎と立ち上げており、ことのほか剣の達人で熱血漢な俊斎の弟次左衛門が気になっていたようです。時代背景がまさに安政の大獄直後であり、当時の薩摩の尊攘志士の血をかきたてる日下部伊三次と深い関係にあった有村兄弟を気にしない方が不自然でしょう。次左衛門と松子の一夜限りの夫婦の契りまでも日記に記した所以です。桜田門外の変を知って、藩主久光は烈火のごとく怒りましたが、大久保は次左衛門らの行動をとても評価しています。このエネルギーが維新の招来を早めることになったからです。

有村家と日下部家との関係は明治維新後も綿々と続いた

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横浜海岸鉄道蒸気車図
By Utagawa, Hiroshige – パブリック・ドメイン, Link

桜田門外の事変後、次左衛門の次兄雄助は、薩摩藩工作のため西走しましたが、薩摩に着いた3月23日、藩庁はこの桜田事件の関係者を到着の夜、早々に切腹させています。理由は幕府への遠慮でした。

残されたお静と松子について、大久保利通日記は、

次左衛門が亡くなったことを知った母子(お静・松子)の悲しみの様子は言葉にならないほどだが、本懐を遂げた事が本義であるとしてその悲しみを断ち切ろうとする試みが難しく、こうなれば母子2人とも一生再婚をしないと心に決めたのです。

次左衛門、戦死致し候ところ、母子の悲哀は申すばかり無く候へども、義において断ずるところ尋常にあらず、この上は娘の心底、一生再嫁せざるの決定にて、母子ともその志操、動かすべからず。

と、事件直後に書いています。

ところが、その翌年の12月、母お静は、有村の長兄・俊斎を、仇を取った次左衛門亡きあとの松子の婿としてしまいます。その「機微」は不明です。

有村俊斎は、海江田信義と名を変え、維新後は、弾正大忠、元老院議官などに任じられ、大久保利通らと新しい日本の政治を担っていきます。(海江田は)

つまり松子は明治維新後、子爵婦人となるのです。お静自身も明治期、静かな余生を送っています。

有村次左衛門は東郷平八郎の義理の叔父である

次左衛門の兄・海江田信義と松子の間に生まれた長女テツは、17歳の時に30歳の東郷平八郎の妻となっています。

平八郎からみると、次左衛門は妻の叔父、つまり義理の叔父、義叔父(ぎしゅくふ)にあたるのです。

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テツと平八郎
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既に歴史の中の人物となっていた亡き義叔父・次左衛門のことを、平八郎はどのように捉えていたのでしょうか。

平八郎が日露戦争でバルチック艦隊を破り日本を勝利に導くのが50代の頃です。

次左衛門の生きざまが海江田家や東郷家を通して別のところでも日本の歴史を左右していた、ということも有り得るのかもしれません。

ほかにも東郷平八郎の甥の東郷吉太郎が海江田信義の次女ハルと結婚するなど、海江田家と東郷家は入り組んだ親族関係にあります。

次左衛門ゆかりの地3選

桜田門(東京都千代田区)

ゆかりの地を3つ紹介します。まずは皇居桜田門です。皇居の優雅な佇まいに当時の面影を忍ぶことが出来ます。

薩摩藩三田藩邸跡(東京都港区)

ゆかりの地2番目は薩摩藩邸跡です。ビルが立ち並び、通行人が多い都心ですが、そこはかとなく当時の面影を垣間見ることが出来ます。

有村次左衛門寓居跡(宮崎県都城市)

3番目は有村次左衛門寓居跡です。有村一家は、父親が失職した後、農業をするため尻枝に来たとされます。おそらく次左衛門が13歳から14歳ぐらいの頃にて住んだと推測されます

まとめ

明治維新を肯定するならば、それはこの桜田門外の変から始まりました。幕府の大老井伊直弼は、明治維新の重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たしたとも言えるでしょう。

300年幕府軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の志士らに斬りこまれ、惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたと言えます。そして、この事変のどの死者にも、歴史は犬死をさせていません。

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