室町8代将軍 足利義政9つのトピック 妻が悪女で隠居して、銀閣建てました

日本

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京都の銀閣の建立や、応仁の乱を招いたことで有名な足利義政。

義政は将軍であったにも関わらず、政治には全く関心が無かったというように伝えられています。

一方、義政は将軍という地位を利用して、日本の文化を発展させた人物とも言われています。

そんな足利義政をご紹介したいと思います。

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足利義政とは

足利義政(あしかが よしまさ、1436年~1490年)は室町時代中期から戦国時代初期まで活躍した、室町幕府第8代将軍(在任期間は1449年~1473年)です。

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足利義政 パブリック・ドメイン, Link

義政が生きた室町時代中期は、4代将軍足利義持(義政の伯父)のもとで大名合議制(管領や有力守護大名の合議)がしかれていたため、将軍は権力が弱っていました。

また、民衆による土一揆や大飢饉などもあり、社会情勢は不安定な状況でした。

そんな時代に将軍となった義政は当然政治を行いますが、管領や有力守護大名が政治の中心となっていたことや、幕府が財政難であったため、次第に政治から身を引くようになります。
そして、義政は茶道や能などの文化に没頭していくようになります。

義政は優柔不断な性格の持ち主で、この性格は良い意味でも悪い意味でも後の時代に影響するようになります。

義政はわずか8歳で将軍になった

義政は1436年に第6代将軍足利義教の3男(実兄と異母兄がいる)として生まれました。
ちなみに、父の義教は籤引きで将軍になった人物です。母は日野重子です。

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父・第6代将軍足利義教
『京都五山 禅の文化』展図録、東京国立博物館九州国立博物館日本経済新聞社,パブリックドメイン Link

義政が生まれた時には、すでに兄の義勝と異母兄の政知がいたため、将軍の継承から外され、母方の一族である烏丸資任(公家)の家に預けられ、そこで育てられました。

そんな中、1441年に大事件が起こります。
父の義教が赤松満祐によって暗殺されてしまったのです(嘉吉の乱)。
また、後を継いで将軍となった兄の義勝も1年もしないうちに早世してしまいます。

義政は1443年に管領の畠山持国などの後ろ盾などもあり、8歳で将軍職に選出され、元服を向かえた1449年に正式に8代将軍に就任しました。

義政は将軍就任後には積極的に政治をおこなった

義政が将軍に就任した当時は、管領や有力守護大名らが政治を行っていました。

それでも、義政は将軍である以上、自分なりに考えて政治を行おうとしていました。

例えば、1454年に関東で起こった享徳の乱では、異母兄の政知を関東に派遣するなどして積極的に介入していきました。

また、畠山家で後継者問題が起こった際には、畠山義就を支持して、畠山政久を支持した管領の細川勝元や四職の山名宗全と対立しました。
この時、義政が細川や山名らと対立したのは、有力守護大名に対抗して、将軍としての力を見せるためだったと言われています。

1459年には、長年住んでいた烏丸殿から、父の義教が住んでいた室町殿(花の御所)に移り住み、義政自らが政治を行う拠点としました。

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上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた「花の御所」。絵の右側が北となっており、烏丸通(絵の下部)に面した東側の門から出入りする人々なども描かれている。
By 京都アスニー収蔵 – http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi12.html,
パブリック・ドメイン, Link

義政の妻「日本三大悪女」の富子が、後継問題を引き起こす

義政には日野富子という妻(正室)がいました。

日野富子は名門日野家(藤原家の系譜をくむ)の出身であり、1455年に当時16歳で義政に嫁ぎました。

日野富子はとても嫉妬深い性格であったといわれており、義政の側室を追放するなどし、現在では「日本三代悪女」の1人として伝えられています。

日野富子の存在は、優柔不断な性格の義政からすると、かなり大変だったようです。

富子の影響で、義政は政治に対する考えが変わっていきました。

 

さらに、この状況の中、新たな問題が発生しました。
それは、後継者問題です。

義政と富子の間にはなかなか後継ぎの男子が生まれませんでした。
そのため、義政は次の将軍を弟の足利義視(よしみ、養子にした)に決めていました。

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『武家百人一首』より 弟の足利義視
By Musuketeer.3 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

しかし、義視の次期将軍が決まった翌年(1465年)に、富子が義尚(よしひさ)を産みました。
富子が男子を産んだことで、状況が一変します。
富子が次期将軍が義視だということに不満を持つようになりました。

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息子・足利義尚像(地蔵院蔵) 長享元年(1487年)の近江出陣の姿を描いたもの
By 日本語: 狩野正信 – The Japanese book “Kanō Masanobu, Motonobu (Nihon Bijutsu Kaiga Zenshū, vol.7)”, Shuei-sha, 1978, パブリック・ドメイン, Link

この将軍家の後継者問題に対し、義政はどちらを次期将軍にするか決めませんでした。

なぜ義政が後継ぎをすぐに決めなかったのか?それにはいくつか理由があるとされています。

弟の義視を養子にした理由は、義政自身が大御所として政治をすること、また、息子の義尚が大きくなるまで、義視を中継ぎにすること、という考え方もあるとされています。

 

しかし、この後継者問題が、戦国時代の幕開けとなる戦乱「応仁の乱」に繋がっていくのでした。

義政の優柔不断な性格が起こした「応仁の乱」

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応仁の乱
By 掃部助久国 Kamonnosuke Hisakuni – 国宝 大絵巻展, パブリック・ドメイン, Link

1467年、将軍家の後継ぎ問題に、管領の畠山家と斯波家の後継者争いが加わり、「応仁の乱」が起こります。

この乱は後継者問題が原因でしたが、それぞれの後継者のバックには有力守護大名がついていました。
守護大名達も幕府での立場や全国各地での守護としての立場を守るために、細川勝元を総大将とする東軍と山名宗全を総大将とする西軍に分かれ戦いました。

※勝元と宗全は幕府内ではライバル関係にあった

応仁の乱が始まった当初の勢力図

東軍:細川勝元畠山政長斯波義敏など、弟の義視
西軍:山名宗全畠山義就斯波義廉など、富子との息子の義尚

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応仁元年(1467年)の勢力図 水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲

By Masaqui , CC 表示-継承 4.0, Link

両軍の間で裏切りが相次ぐ

応仁の乱が始まってからは、戦火は京だけではなく、日本全国に拡大していきます。

各軍は互いに寝返り工作などを仕掛け、裏切りが相次ぎます。

例えば、越前国守護斯波家の家臣であった朝倉孝景(7代目当主)は、主家の斯波義廉とともに西軍として参戦しますが、東軍の義政や細川勝元から守護権限行使を約束されると東軍に寝返ります。この寝返りは東軍を圧倒的優位に立たせました。
その後、孝景は越前守護となり(下克上)、戦国時代で有名な朝倉孝景(10代当主)や朝倉義景を排出しました。

義政の「応仁の乱」での中途半端な行動

応仁の乱が始まった当初、義政は中立的な立場におり、停戦命令や仲介をするなどしていましたが、すでに対立は激しくなっていたため、あまり効果はありませんでした。

戦中に足利義視が宗全の助けで西軍に寝返ったため(比叡山への亡命)、義政は山名宗全の討伐命令を細川勝元に出し、東軍よりの態度を示すようになりました。
義政は勝元と協力し、西軍の朝倉孝景の寝返り工作を成功させ、東軍を圧倒的優位にたたせました。

また、この戦乱中、後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けるために、花の御所に避難してきました。
1476年に花の御所が焼失し、上皇と天皇が北小路殿に移るまで、天皇と将軍が同居するという状態になります。

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六曲一双 狩野永徳筆 国宝『洛中洛外図屏風』・左隻(米沢市上杉博物館所蔵)。
花の御所は中央左下に描かれている。右が北。

パブリック・ドメイン, Link

戦乱は長引いてしまったため、義政は政治を行うことをためらうようになり、戦乱中にも関わらず、茶道や能楽に没頭していきました。

そして、義政は1473年に勝元と宗全の死を契機に、将軍の位を息子の義尚に譲って隠居しました。

隠居後、義政は文化振興を積極的におこなった

隠居後の義政は、死ぬまで東山殿に移り住み、趣味でもあった茶道・能楽・絵画などに熱中していきます。

義政は祖父である3代将軍足利義満に憧れていたため、華やかな義満の北山文化に対して、「わび・さび」に重きをおいた銀閣(慈照寺)を建立し、東山文化を確立していきました。

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鹿苑寺金閣
By Ozaki baka,CC 表示-継承 4.0, Link
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慈照寺銀閣
By Oilstreet, CC 表示 2.5, Link
祖父・義満が築いた華やかな北山文化わび・さびに重きを置く義政の東山文化

また、絵師の土佐光信や能楽者の音阿弥らを支援し、現在まで残っている茶器初花や九十九髪茄子を作らせました。

Tosa Mitsunobu 001.jpg星光寺縁起絵巻 原本は文明19年(1495年)作。東京国立博物館蔵。
By The Yorck Project パブリック・ドメイン, Link

これら、義政が残した日本の文化は後の時代に大きな影響を与えました。

 

義政は1490年、銀閣の完成を見ず55歳で亡くなりました。

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足利義政の墓
パブリック・ドメイン, Link

足利義政の墓の場所(京都市 北部)

義政の家族のその後

足利義尚

9代将軍となった息子・義尚は、将軍権力を回復させるために、六角征伐をするなど積極的な幕政の改革を行いました。

しかし、1489年の六角征伐の陣中で病死しました。享年25歳。
義政の死より1年前のことでした。

死因は酒の飲み過ぎによる脳出血といわれています。

 

義尚には後継ぎがいなかったため、従弟(義視の子)の義材(後の義稙)が養子になり、1490年、10代将軍に就任しました。

足利義視

義視は比叡山に亡命していましたが、1489年に9代将軍義尚が亡くなると、子の義材とともに上洛しました(義政や日野富子と和睦する)。

そして、1490年に義政が死ぬと、日野富子と協力して義材を10代将軍に就任させ、義視自ら大御所として政治をしました。

しかし、次第に富子と対立するようになり、義視は次第に没落していきます。

1491年、55歳で亡くなりました。亡くなったその日は1月7日であり、兄の義政の命日と同じでした。

日野富子

富子は義政の隠居後も、子の義尚を助け権力を握っていました。

子の義尚が1489年に急死し、義材が将軍となると、大御所の義視と対立するようになります。

1491年に義視が死ぬと、富子は管領細川政元(勝元の子)と組んでクーデターを起こし、10代将軍義材を廃し(明応の政変)、堀越公方足利政知(義政の異母兄)の子である足利義澄を11代将軍にしました。

富子は1496年に57歳で亡くなりました。

義政がもっと分かる書籍3選

書籍

田端泰子『足利義政と日野富子―夫婦で担った室町将軍家 (日本史リブレット人)』 (山川出版社)

政治に興味がなかった足利義政に対して、正室日野富子が将軍の妻として政治を握り、将軍家を引っ張っていきます。
将軍の「妻」として将軍家を引っ張っていった富子、そんな富子を将軍家だけでなく公家など様々な視点から書かれています。

ドナルド・キーン『足利義政と銀閣寺』 (角地幸男 訳、中公文庫)

政治家としては悪い印象ばかりの義政ですが、銀閣寺を初め日本文化を発展させた文化人でもある足利義政。
そんな足利義政を文化人として再評価しています。

河合正治『足利義政と東山文化 (読みなおす日本史)』(吉川弘文館)

東山文化を確立させた足利義政。
そんな足利義政の生涯を、政治家と文化人の両視点から書かれています。

まとめ

足利義政についてご紹介してきましたがどうでしたか?

義政は政治に無関心だったというように伝えられていましたが、将軍就任当初はきちんと将軍の仕事をやっていたのではないのでしょうか。

確かに義政は優柔不断な性格で、物事をはっきりと決められなかったのかもしれませんが、義政が将軍だった時の状況(社会状況や周りの人)を考えると、政治をスムーズに行うことは難しかったのかもしれません。

義政は政治家としては良い印象はありませんが、日本文化を発展させた文化人としては立派な人物だったのではないでしょうか。

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