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風車を相手に戦おうとするなど、荒唐無稽な話で有名な物語『ドン・キホーテ』。その作者のミゲル・デ・セルバンテスの人生もまた、波乱に満ちたものでした。ヤブ医者の父親、従軍経験、奴隷経験、投獄経験、そして小説がヒットするまで・ヒットしてからの苦労……。小説よりも奇なる、その人生を調べました。
- ミゲル・デ・セルバンテスとは
- ヤブ医者だった父について回った幼少時代のセルバンテス
- 読書家のセルバンテスは道に落ちている紙切れにさえ目を通した
- セルバンテスは人文学者オヨスに師事し教養を深めた
- セルバンテスは従軍で左腕の自由を失った
- セルバンテスは海賊に襲われ捕虜になった
- セルバンテス、初めて小説を書くが評価されず、職を求める
- セルバンテスの『ドン・キホーテ』が爆発的人気を得る
- セルバンテスは小説を書き続け、マドリードで亡くなった
- 正体不明の人物が『贋作ドン・キホーテ』を世に発表する
- セルバンテスは『ドン・キホーテ』で頽廃した社会を風刺した
- セルバンテスはドストエフスキーら多くの作家に影響を与えた
- スペイン語圏ので最も権威のある文学賞「セルバンテス賞」
- スペイン文化の普及を目的とするセルバンテス文化センター
- セルバンテス/ドン・キホーテの名言
- セルバンテス原作土台のミュージカル「ラ・マンチャの男」は現代まで引き継がれている
- セルバンテス原作に基づいたゲーム「ドン・キホーテ(Don Quixote)」
- セルバンテスの遺骨が2014年に発見された
- 激安の殿堂・ドン・キホーテの由来は? A.セルバンテスの『ドン・キホーテ』
- セルバンテスゆかりの地
- まとめ
ミゲル・デ・セルバンテスとは
ミゲル・デ・セルバンテスは『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の著者として有名な近世スペインの作家です。
セルバンテスは下級貴族の次男として1547年9月29日にマドリード近郊の町で生まれました。
父親は耳の不自由な外科医でしたが、あまり経営はうまくいっていませんでした。そのため各地を転々とし、セルバンテスは学校での教育をほとんど受けられませんでした。
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ミゲル・デ・セルバンテス肖像(1600年?) パブリック・ドメイン, Link | ドン・キホーテ オペラ公演のポスター(1910年) パブリック・ドメイン, Link |
やがてスペイン海軍へ入ります。そしてレパントの海戦で左腕を損傷し、不自由になってしまいました。その後5年に及ぶ奴隷生活を経て、スペイン無敵艦隊の食糧調達係や徴税吏の仕事、そしてまた投獄と波乱万丈な人生を送ります。
徴税吏として投獄された時に「ドン・キホーテ」の着想を得たと言われています。「ドン・キホーテ」の序文の中にそれをほのめかす記述があります。
「ドン・キホーテ」は出版されてすぐ6版も重刷されるなど、大反響を呼びました。以降、「ドン・キホーテ」後編や様々な著作を残し、1616年4月23日に69年に及ぶ人生に幕を閉じました。
ヤブ医者だった父について回った幼少時代のセルバンテス
マドリード州マドリード県アルカラ・デ・エレーナスに生まれたセルバンテスは4歳までここで過ごします。
セルバンテスの生まれたアルカラ・デ・エレーナスの位置父親は外科医ではありましたが、傷の手当てをしたり、刺絡(しらく・疾病を治すため静脈を刺して悪い血を出すこと)や罨法(あんぽう・炎症や充血を除去するため、水、湯、薬などで患部を温め又は冷やす療法)を施す程度で、まともな医師とはみなされていませんでした。
何とか医師として成功しようと、あちこちに転居し、幼いセルバンテスも父についていきました。
こうしたものの医業はうまくゆかず、借金を繰り返し、挙句の果てに父親は借金の手続きの悪さで投獄されてしまいます。
読書家のセルバンテスは道に落ちている紙切れにさえ目を通した
無類の読書家であった少年時代のセルバンテスは、道に紙切れが落ちていても字が書かれてあれば、拾ってそれに目を通したほどでした。しかし各地を転々としてせいもあって、まともな教育は受けられませんでした。
1561年、フェリペ2世が首都をマドリードに定めると、セルバンテス一家もそこへ移住しました。街は騎士道精神が熱狂的にもてはやされていました。それがドン・キホーテの着想にもつながったのかもしれません。
15歳の時、セルバンテスはセビリアのイエズス会経営の学校へ入ります。
セビリアでは当時、詩人フェルナンド・デ・エレーラや劇作家ローベ・デ・エルダが人気を集めていました。セルバンテスはそれらに魅了されました。文学に目覚め始めたのもこのころです。
詩人フェルナンド・デ・エレーラ
http://www.bibliotecavirtualdeandalucia.es/catalogo/consulta/registro.cmd?id=1040827, パブリックドメイン, リンク
セルバンテスは人文学者オヨスに師事し教養を深めた
やがてセルバンテスはマドリードに戻ります。そして人文学者ロペス・デ・オヨスの私塾に入ります。そこでセルバンテスはエラスムスについて深く研究しました。この研究がセルバンテスの教養をさらに深めることになりました。
セルバンテスは優秀な学生だったようです。オヨスは自身が出した詩文集で、セルバンテスのことを「我が秘蔵の弟子」と賛美しています。
ロペス・デ・オヨスの墓石
By Raimundo Pastor, CC BY-SA 3.0, Link
その後、22歳の時に教皇庁の特使であった枢機卿に従者としてローマまでついていきます。そしてナポリへ渡り、スペイン海軍に入隊します。
セルバンテス肖像 パブリック・ドメイン,Link
セルバンテスは従軍で左腕の自由を失った
スペイン海軍に入隊したばかりのセルバンテスは、すぐにレパントの海戦に参戦することになります。
レパントの海戦とは1571年にオスマン帝国海軍と教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍との闘いのことです。ギリシアのレパント沖で発生したため、そう呼ばれます。
レバントの海戦, National Maritime Museum (BHC0261), パブリック・ドメイン, Link
この戦争はオスマン帝国のセリム2世が遠征をおこない、キプロスをオスマン帝国領としたことが発端で起きたものです。これに危機感をいだいたローマ教皇からの呼びかけに応じ、スペインも参戦しました。
スペインを含む連合海軍は勝利しましたが、セルバンテス自身は左腕に銃弾を受け、不自由な体になってしまいました。
セルバンテスは海賊に襲われ捕虜になった
セルバンテスは従軍を続け、北アフリカのチュニスへの侵攻にも従軍しました。そして、スペインに帰る途中にバルバリア海賊に襲われてしまいます。
「バルバリア海賊との海戦」、カストロ・ロレンソ画、1681年頃,
Public Domain, Link
セルバンテスたちは捕虜として拘束されました。しかも運の悪いことにセルバンテスはナポリ総督の推薦状を持っていたため、家族に莫大な身代金を要求される羽目になりました。
アルジェで捕虜生活を送りながら、何度か脱走を試みましたが、すべて失敗しました。罰としての処刑を免れたのは推薦状を持っていたためとみられますが、はっきりとわかってはいません。結局、三位一体会というキリスト教の慈善団体によって身請けされ解放されるまで、5年間捕虜生活を送ることになりました。
セルバンテス、初めて小説を書くが評価されず、職を求める
セルバンテスは祖国に戻った後、仕官を願い出ますが、かないませんでした。そのころ、1585年に処女作「ラ・ガラテーア」を書きますが、あまり評判はよくありませんでした。
捕虜生活で巨額の身代金を払ったセルバンテス一家は貧しい生活を送らざるを得ませんでした。「ラ・ガラテーア」を書いた年、父親が亡くなり、一家はセルバンテスと姉・妹・姪・妻・娘の6人となり、セルバンテスは稼ぎ頭にならなければなりませんでした。
逼迫した家計を救うため、セルバンテスはスペイン無敵艦隊の食糧調達係の職を得ます。そしてスペイン各地を巡って、小麦・大麦・オリーブを集めまわりました。調達口は教会やその領地からのものであったので、教会とのいざこざが絶えず、セルバンテスは2度も破門を喰らう苦痛を味わいました。
しかも1588年にスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れるという事態が起こりました。
無敵艦隊が敗れたアルマダの海戦
By 不明, パブリック・ドメイン, Link
これによりセルバンテスは職を失ってしまいます。
そのあとも徴税吏の仕事につきますが、税金を預けていた銀行が破産して、多額の追徴金を背負うことになります。けっきょく、それを払いきれず、投獄されてしまいました。
セルバンテスの『ドン・キホーテ』が爆発的人気を得る
投獄される前には、軍隊での仕事は全くなく、マドリードで俳優になったり、セビリアで宿屋の雇われ主人をやったりしました。このころに劇作の執筆で身を建てる決意をします。
そして投獄中に着想したのが『ドン・キホーテ』でした。セルバンテスは釈放後、家族を養いながら前編を書き上げ、1605年にマドリードの出版社から発刊しました。
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『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ前篇』初版のタイトル頁(1605年) By Juan de la Cuesta (impresor); Miguel de Cervantes (autor) – http://bdh-rd.bne.es/viewer.vm?id=0000192233&page=1, パブリック・ドメイン, Link | ドン・キホーテのイメージ(後世描かれたもの) By オノレ・ドーミエ – Yelkrokoyade, CC 表示-継承 4.0, Link |
『ドン・キホーテ』とだけ普通は呼びますが、正式な題名は『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ』前篇と言います。
これが出版されるや否や大評判となり、その年のうちに6回の重版を重ねます。ただし版権を安くで売り渡したため、生活が豊かになることはありませんでした。
セルバンテス(蝋人形) By Tamorlan , CC 表示 3.0, Link
セルバンテスは小説を書き続け、マドリードで亡くなった
「ドン・キホーテ」前編が大成功した後も、セルバンテスは執筆をつづけました。
1613年には「模範小説集」、1615年には「ドン・キホーテ」後編を書き上げます。
1617年には遺作「ペルシーレスとシヒスムンダの苦難」を出版します。
1616年、セルバンテスは69歳の生涯を終えます。亡くなった場所はマドリードの中心部で、交差点になっていて、片方の通りが「セルバンテス通り」と名付けられています。
セルバンテス通りの場所
イギリスのシェークスピアと同じ日に亡くなったとされていますが、当時のスペインとイギリスでは暦が異なったため、厳密には同じ日ではありません。
正体不明の人物が『贋作ドン・キホーテ』を世に発表する
あまりの人気に便乗してか、偽物のドン・キホーテを書く人間も現れました。アロンソ・フェルナンデス・デ・アベジャネーダという人物です。
セルバンテスが後編を書いているさなかに出版され、彼は何度もこれは偽物であると主張しました。ドン・キホーテの旅先を変えたほどです。
もちろんセルバンテスの許可も取ったものではありませんでした。アロンソ・フェルナンデス・デ・アベジャネーダとは何者か、長い間正体は不明でしたが、1988年にマルティン・デ・リケールの研究により、ヘロニモ・デ・パサモンテ説が有力となっています。
ヘロニモ・デ・パサモンテは1553年に生まれ、1605年に亡くなっています。彼はレパントの海戦にも参戦していました。セルバンテスとともに捕虜になって、苦役に服していました。
セルバンテスが書いた“正統”な続編
『独創的な紳士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』
(マドリード、Juan de la Cuesta、1615)
Miguel de Cervantes – http://bibliotecadigitalhispanica.bne.es/webclient/StreamGate?folder_id=200&dvs=1357182923038~162, パブリックドメイン, Link
セルバンテスは『ドン・キホーテ』で頽廃した社会を風刺した
ドン・キホーテのあらすじは騎士道物語をこよなく愛するラ・マンチャ地方のある村に住んでいた50歳近くになる男が、あまりにその物語を読みふけるあまり、頭がおかしくなって自分が騎士であると思い込むようになったことから始まります。
自らを「ドン・キホーテ・ラ・マンチャ」と名付け、古い鎧を身に着け、老馬にロシナンテと名付けて、騎士道の旅に出ます。途中寄った宿屋の主人を城の城主と勘違いし、「お前には従者が必要だ」と言われてラ・マンチャに帰り、サンチョ・パンサを従えるようになります。
風車を巨人と勘違いして戦いを挑もうとしたエピソードは有名です。
風車に突進するドン・キホーテ, パブリック・ドメイン, Link
この場面は政治や道徳の頽廃した時代にあっては崇高な理想も現実に衝突して敗れ去ることを風刺したものでした。
セルバンテスはドストエフスキーら多くの作家に影響を与えた
セルバンテスはスペイン語圏で初めて世界中に認められた大文化人です。ドストエフスキーなど多くの作家が彼の影響を受けています。
19世紀後半のロシア小説を代表する文豪であるドストエフスキーは、「ドン・キホーテ」のことを「これまで天才が創造した書物の中でもっとも偉大で、最も憂鬱な書物だ」と述べています。さらに彼は「これまで人間が発した最高にして最後の言葉である」とさえ言っています。
ドストエフスキー
Russian Life, Nov/Dec 2006, パブリック・ドメイン, Link
ほかにもディケンズ、フローベール,メルヴィル、ジョイス、ルイズ・ホルヘスらも影響を受けています。これらはほんの一部で、ほかにも多くの作家、文化人が影響を受けているのです。
セルバンテスの功績をたたえて、スペイン発行のユーロ硬貨にはセルバンテスが刻印されています。
スペイン発行の20セント硬貨(左)と10セント硬貨
スペイン語圏ので最も権威のある文学賞「セルバンテス賞」
1976年に創設されたスペイン語で執筆された小説などに贈られる賞です。毎年スペインアカデミー協会の推薦でスペインの中央官庁がスペイン語文学に貢献したとされる人に贈ります。
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セルバンテス肖像 パブリック・ドメイン, Link | セルバンテス賞のメダル By Heralder – Prize Plate Prize Medal, CC 表示-継承 3.0, Link |
賞金は125,000ユーロ(2018年5月8日時点で円に換算すると、1647万7500円)と賞金額の高い文学賞の一つであり、スペイン語圏で最も権威のある文学賞の一つで、「スペイン語圏のノーベル文学賞」とも言われています。
歴代受賞者はスペイン人が最も多いですが、メキシコ、アルゼンチン、チリなど中南米の受賞者も多くいます。
ユーロ硬貨といい、この賞といい、セルバンテスがいかにスペイン人の誇りとなっているかがうかがわれるように思われます。

スペイン文化の普及を目的とするセルバンテス文化センター
1991年にはスペイン語とスペイン文化の普及を目的にセルバンテス文化センターが設立されました。世界に約20か所あります。日本には東京・千代田区にあり、スペイン語講座などスペイン文化の普及に努めています。世界の文化センターの中では最大級だそうです。
スペイン語講座やスペイン語圏の文化を広めるための取り組み、そして著名人を招いての講演会などを行っています。
セルバンテス文化センター(千代田区)
セルバンテス文化センターのロゴ
By Logotipo_del_Instituto_Cervantes.jpg: Instituto Cervantes derivative work: Mr.Ajedrez (talk) – Logotipo_del_Instituto_Cervantes.jpg, CC 表示-継承 3.0, Link
本拠地はマドリードとセルバンテスの生誕地であるアルカラ・デ・エナーレスに置かれています。
セルバンテス/ドン・キホーテの名言
セルバンテスの像 By Luis García, CC 表示-継承 2.0, Link
名言その1
餓えは世界中で最上の調味料だ。(ドン・キホーテより)
名言その2
喜劇で一番難しい役は愚か者の役であり、それを演ずる役者は愚か者ではない。(ドン・キホーテより)
名言その3
長い経験からの簡潔な格言。(ドン・キホーテより)
名言その4
光り輝くものが全て金だとは限らない。(ドン・キホーテより)
名言その5
好機は、それが去ってしまうまで気づかれないものだ。(ドン・キホーテより)
名言その6
パンさえあればたいていの悲しみは耐えられる。(ドン・キホーテより)
名言その7
安眠は心労の最大の療法である。
名言その8
生命のあるかぎり、希望はあるものだ。(ドン・キホーテより)
名言その9
自分のポケットの中の小銭は他人のポケットの中の大金にまさる。(ドン・キホーテより)
名言その10
古い牧草(←昔の恋)は燃やすのに骨が折れるが、その火を消すのはいっそう骨が折れる。(模範小説集より)
名言その11
男は火で、女は麻屑である。悪魔がやってきてそれを吹きつける。(模範小説集より)
セルバンテス原作土台のミュージカル「ラ・マンチャの男」は現代まで引き継がれている
「ラ・マンチャの男」というミュージカルがあります。セルバンテス原作のドン・キホーテを土台にしたものです。
1965年にブロードウェイで初めて公演され、現在まで引き続き世界各地で催されているヒット作品です。ニューヨークでは5年6か月に及ぶロングラン舞台として人気を博しました。
脚本はセルバンテスがセルビアで徴税吏として失敗し、入獄している時を描いた原作をもとに始まっています。
あらすじは、中世のスペインでカトリックを冒涜したとして投獄されたセルバンテスが、同じ牢屋にいた盗賊などからかねてより書いておいた脚本を守るため、自ら「ドン・キホーテ」を演じ、周囲の囚人たちを巻き込んでいくというものです。
世界各地で上演され、もちろん日本もその例外ではありません。
1969年が初演です。東京の帝国劇場で公演されました。セルバンテス(=ドン・キホーテ)でありますが、その役を務めたのは第六代目市川染五郎でした。1983年からは松本幸四郎が演じています。
セルバンテス原作に基づいたゲーム「ドン・キホーテ(Don Quixote)」
ゲームといってもボードゲームです。
風車などの駒にタイルを配置し、最大得点を稼いだものが勝者というゲームです。
ドイツのメーカーが2010年に発売したものです。対象は8歳から大人までで、1人から4人までプレイできます。
極大雑把に言えば、地方貴族のドン・キホーテが、風車や騎士の位置関係を考慮しながら、自らの公国を築いていく、というゲームです。
以下のサイトで詳しく紹介されています。

ヨドバシカメラや、店舗のほう(激安の殿堂ドン・キホーテ)でもボードゲームは取り扱っていますが、アマゾンでも入手は可能です。
セルバンテスの遺骨が2014年に発見された
セルバンテスは晩年も貧しかったため、お墓もまともなものではなく、修道院に共同埋葬されました。ただ正確な墓の場所は不明でした。
2014年ころから考古学者や法医学者36名で構成される調査発掘チームが組織されました。調査を進めていくうちに2015年1月にセルバンテスの棺とみられるものが発見されたと報告しました。さらに進めていくうちに、地下約1.35メートルの部分に空洞があるのを、赤外線カメラや特集なレーダーを駆使して発見しました。

そしてこの部分を重点的に調査した結果、男女17体の遺骨が見つかりました。2015年2月のことです。
その年の3月に、調査発掘チームは、セルバンテスのものとみられる遺骨を発見したと発表しました。17体の遺骨はどれもかなり痛んでいましたが、一部の遺骨のあごの特徴がセルバンテスが生前に書き残した記録と一致したのが決め手になったようです。
激安の殿堂・ドン・キホーテの由来は? A.セルバンテスの『ドン・キホーテ』
ドン・キホーテ 新宿歌舞伎町店
日本でドン・キホーテといえばディスカウントショップの店名・社名として有名です。
その由来はやはりセルバンテスの『ドン・キホーテ』で、「常識や権威に屈しないドン・キホーテ」をリスペクトした命名だそうです。
Q. 社名の由来は何ですか?
A. スペインの文豪、セルバンテスの名作「ドン・キホーテ」にちなんで名付けました。
既成の常識や権威に屈しないドン・キホーテのように、新しい流通業態を創造したいという願いを込めています。公式サイトより
セルバンテスゆかりの地
アルカラ・デ・エレーナスの大学と歴史地区
セルバンテスの生家は世界遺産ともなっている、「アルカラ・デ・エレーナスの大学と歴史地区」にあります。中世の雰囲気が残っている通りに、4歳まで過ごしました。
アルカラ・デ・エレーナスにあるセルバンテスの生家の場所
生家自体は復元されたものですが、中に入るとセルバンテスが過ごした頃の様子が中世の雰囲気を残したまま感じることができます。
また家の前にはドン・キホーテとサンチョ・パンサの像があり、当時を偲ばせます。
アルカラ大学の近くにはセルバンテス広場があります。
セルバンテス広場
By Raimundo Pastor – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link
ラ・マンチャ
ドン・キホーテを語るうえで、外せないのがラ・マンチャです。
ラ・マンチャはスペインの中部に位置します。
現在のカスティーリャ・ラ・マンチャ州(濃い灰色)とラ・マンチャ地方(赤)の位置
By Satesclop (?), CC 表示-継承 3.0, Link
ラ・マンチャの一部にあるカンポ・デ・クリプターナという地区があります。そこにはドン・キホーテが突進したモデルとなった風車群が見られます。
カンポ・デ・クリプターナの風車群
By Lourdes Cardenal – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
スペインをご旅行することがあれば、ちょっと立ち寄ってみるのも悪くないのではないでしょうか。
まとめ
セルバンテスは生涯貧しいままで暮らしました。作家として有名にはなっても、版権を安くで譲ってしまうなど、生活の向上にはつながりませんでした。傍から見ても波瀾万丈で、いい人生だったのか、不遇な一生に終わったのかよくわかりません。
しかし彼の残した功績は想像に余りあるほど立派なものでした。スペインと言えば?と訊かれて答えが返ってくるとしたら、ドン・キホーテという言葉が多いかもしれません。セルバンテス文化センターやセルバンテス賞など彼の名のついた組織や文学賞、さらに地名にあらわれるように、スペインの人々は彼を忘れまいと誇りに思っているのかもしれません。
それだけ彼は偉大な作家、そして文化人だったのです。
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