コナン・ドイルを知る20トピック~本当はシャーロック・ホームズを書きたくなかった?

イギリス

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コナン・ドイルと聞けば、多くの人がシャーロック・ホームズシリーズの作者だと思いつくでしょう。では彼の人柄は? 多くの方のご存知でない側面に焦点を当てたいと思います。

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コナン・ドイルとは

サー・アーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle)はイギリスの小説家・医師です。1859年5月22日、技師の長男としてスコットランドのエディンバラに生まれました。

エディンバラ大学医学部で医師免許を取って開業するも、客は来ず、その暇な時間を小説執筆にあてた話は有名です。そこで生み出された多くの作品の中からシャーロック・ホームズシリーズが登場しました。

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アーサー・コナン・ドイル 1914年6月1日撮影, Public Domain, Link

また、作家活動の傍ら、ボーア戦争などにも従軍しようとするなど、政治的運動にも取り組んでいきました。さらに二つもの事件の冤罪を晴らしたり、第一次世界大戦の際にはイギリス政府に全面的に協力する愛国心を見せたりして、文壇以外にも目覚ましい活躍がありました。

大戦前くらいからは心霊主義活動にも手を出し、世界各地で心霊主義についての講演をして回りました。

1930年7月7日、イングランドのグロウバラの自宅で家族に看取られながら、71年の生涯を閉じました。

貧しかった幼少時代のコナン・ドイル

コナン・ドイルは、チャールズ・ドイルとメアリー・フォウリー夫妻の長男として生まれました。両親ともにアイルランドの出身でした。父親はスコットランド労務局測量技師補であり、絵の才能があったようです。しかしアルコールの障害があって精神病院へ入れられるなど、チャールズは不遇な人生を送りました。そのためコナンも貧しい生活を強いられました。

コナン・ドイルのロマンティックな一面は母親から受け継いだものでした。コナンは母親が語るアイルランドの昔話によく耳を傾けたそうです。それが彼を小説家として芽生えさせることにもなりました。

幼いコナンは自宅で学んでいましたが、裕福な伯父たちの支援で地元の学校に通ったのち、ランカシャーにあるイエズス会経営の寄宿学校に入学しました。

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ローマにあるイエズス会の本部 コナン・ドイルはイエズス会経営の学校に通った

By Carlo Dani投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

ドイルはスポーツ万能で読書もする

コナン・ドイルは寄宿学校の上級校になるストーニ―ハースト・カレッジに進学します。カレッジで彼はクリケット部の主将として活躍します。ただ部活には体罰とイエズス会教師への不満があったようです。

5年間学んだ後、ドイツ語の勉強のため1年間オーストリアへ留学しました。

帰国後、医師を志したドイルはエディンバラ大学医学部へ進学します。ここで彼はシャーロック・ホームズのモデルとなるジョセフ・ベル教授と知遇を得ます。教授は患者を一目見ただけでその人の状況や容体を言い当ててしまう才能の持ち主でした。

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シャーロック・ホームズのモデルであるエディンバラ大学医学部教授ジョセフ・ベル

By J.M.E. Saxby – [1] [2], パブリック・ドメイン, Link

ここでもドイルはスポーツに励みます。ボクシングをしたり、ラグビー部でフォワードを務めたりしました。

スポーツのほかにも大学への通学路にあった古本屋で本を購入し、読書にふけるようになります。スウィフトの「桶物語」、アラン=ルネ・ルサージュの「ジル・ブラース物語」などを読み漁りました。

22歳の時医学の博士号と、外科医の修士号を取得しますが、成績はそれほど芳しくなかったようです。

ドイル、医者として失敗し、小説執筆をつづける

ドイルは大学卒業後、すぐにアフリカ汽船会社に船医として就職します。その後まもなくアフリカへと航海に出ますが、マラリアが蔓延して、自らも罹患してしまいます。しかも耐えきれないほどの暑さ。これに懲りて、ドイルは退職してしまいました。

そのあと、大学の同窓生に声をかけられ、共同で診療所を営みますが、ドイルの腕がいま一つだったために客が減り、同窓生といさかいになって、たもとを分かつ結果となってしまいました。

同窓生と別れたドイルはポーツマス郊外のサウスシャーで自ら診療所を開き、経営しますが、やはり客は来ませんでした。そこでふつふつとたぎってきた情熱が小説を書くことでした。

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ドイルが個人開業したポーツマス
By Contains Ordnance Survey data © Crown copyright and database right, CC 表示-継承 3.0, Link

ドイル、長編小説に力を入れる

患者を待つ時間を利用して執筆を始めたのは有名な話です。ですが、すでに学生時代にも執筆をしていたのです。「ササッサ谷の怪」という小説ですが,『チェンバール・ジャーナル』誌に発表されています。しかしドイルの情熱はあまり報われませんでした。「ジョン・スミスの物語」も原稿が郵便事故によってなくなるということもありました。

短編小説を執筆していましたが、安い原稿料しかもらえないうえに、作者の名前も載らず、そのうえ、書いた原稿のほとんどは返却されていました。

そのうち、ドイルは推理小説に興味が向くようになりました。エドガー・アラン・ポーやエミール・ガボリオの作品に刺激を受け、シャーロック・ホームズが生まれたのです。これまでの経験から収入を増やすには長編小説を書かなければならないと思い、出来上がったのが「緋色の研究」でした。

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1887年11月公刊の『ビートンのクリスマス年鑑』に掲載された『緋色の研究』
By デイヴィッド・ヘンリー・フリストンen.wikipedia からコモンズに移動されました。, パブリック・ドメイン, Link

これもなかなか出版社が見つかりませんでしたが、ウォード・ロック社に短編小説並みの安価で掲載することができました。しかし原稿料のみで印税は手に入りませんでした。

緋色の研究 (新潮文庫)

短かった最初の結婚生活とドイルの歴史小説での成功

ドイルは26歳の時、自分の患者の姉であったルイーズ・ホーキンズと結婚しました。二人の間には一男一女が生まれました。ルイーズはドイルが文学に打ち込めるように献身しましたが、病弱でした。

結核にかかったルイーズをドイルはエジプトへ保養に連れて行きましたが、彼女はそこで亡くなってしまいました。1906年7月4日のことでした。この旅で着想を得たドイルは「コロスコ号の悲劇」にまとめました。

ドイルは「緋色の研究」がそこそこ成功したにもかかわらず、歴史小説に力を入れようとしました。「マイカ・クラーク」がそれです。評判はかなり良かったらしく1年の間に3回も重版を重ねました。

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「マイカ・クラーク」(1887~1888)
By Source, Fair use, Link

ドイル、「四つの署名」の成功と眼科医開業で失敗する

1890年、ドイルはアメリカのフィラデルフィアの出版社『リピンコット』誌の代表者から夕食会に招かれます。そこでホームズ物をもう一作書くという約束ができ、執筆したのが「四つの署名」です。

この作品はイギリスとアメリカで出版され、評判もなかなかでした。

"The Sign of the Four" in Lippincott’s Monthly Magazine (1890).jpg

1890年出版の「四つの署名」
By Special Collections Toronto Public Library – https://www.flickr.com/photos/43021516@N06/8347312366/, Public Domain, Link

その後、ドイルは突然眼科医に転身することを思いつきます。そのためサウスシャーの診療所を閉めると、家族を連れてオーストリアのウィーンへ勉強に行きます。

ところがドイツ語は勉強はしていたものの、とても講義についていけるレベルではなく、半年の留学を2か月に切り上げてイギリスに帰りました。資格は当然取れませんでした。それでもドイルは無資格で眼科医院を開業します。

ロンドンには資格を持った眼科医は大勢いました。そのためわざわざ資格のないドイルの医院に来る患者はいませんでした。ここでもまた暇を持て余して小説の執筆をして過ごすことになってしまいます。眼科医も結局廃業せざるを得ませんでした。

ドイル、シャーロック・ホームズで人気を得る

眼科医の頃からドイルには一つの着想がありました。それは一人の人間を主人公に短編の読み切り連載小説を書こうというものです。白羽の矢が立ったのはシャーロック・ホームズでした。すでに「緋色の研究」と「四つの署名」で登場していたからです。

始めの6編が当時発刊されたばかりの『ストランド・マガジン』誌に一つずつ連載されていきました。これが爆発的な人気を博します。あまりの評判のよさに追加でさらに6編の読み切り短編を書きました。

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シドニー・パジェットが描いたシャーロック・ホームズ
By Sidney Paget (1860-1908) – de.WP, パブリック・ドメイン, Link

最初に連載された1891年7月号から連載が終わった1892年6月までに書き上げた12編が単行本としてまとめられます。それが「シャーロック・ホームズの冒険」です。

ドイルの自宅にはたくさんのファンレターが届くようになりました。しかし大半は宛名がシャーロック・ホームズのものだったり、サインをねだられてもシャーロック・ホームズのサインだったししたそうです。

シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)

ドイル、ホームズから歴史小説へ転向する

予想外の大ヒットだったにもかかわらず、ドイルは2年くらいでホームズ物を書くのに嫌気がさしてきます。そこでシリーズを打ち切る方法として、彼に死をもたらすことにしたのです。「シャーロック・ホームズの思い出」に収録されている「最後の事件」です。モリアティー教授との格闘の末、滝に落ちてしまって物語を閉じる、というものでした。

シャーロック・ホームズの思い出 (新潮文庫)

連載中の1891年11月には既にホームズに嫌気がさしていました。母親に「ホームズがわたしにとってもっといいものから心をそらしてしまう」と手紙に書いていたほどです。

続編を期待する世間の要望がドイルにとっては書きたいものを束縛され自由を奪われているように感じられたのでした。

ホームズを死に追いやったドイルは歴史小説「ジェラール准将」シリーズの執筆を始めます。前半の8編は「ジェラール准将の功績」として、あとの8編は「ジェラールの冒険」としてそれぞれ単行本化されています。

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1890年頃のコナン・ドイル
By Sidney Paget – www.artinblood.com, パブリック・ドメイン, Link

ボーア戦争をめぐってドイル、兵役検査落第と義勇軍

ボーア戦争とはイギリスとオランダ系アフリカーナ人(ボーア人)が南アフリカの植民地化を争って戦った戦争です。第一次と第二次に分かれます。ドイルが活動したのは第二次ボーア戦争です。

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第二次ボーア戦争の公式プログラム
By Frank Mills (1901-1957) – Saint Louis Public Library, パブリック・ドメイン, Link

イギリス軍は劣勢でした。ボーア人が地の利を生かして戦闘を有利に進めていたからです。そこでイギリス政府は本国人の犠牲を減らすためにインド人などの植民地の人間を兵隊として闘わせることにしました。

ドイルはこれに異議を唱えました。植民地の人間を代わりに戦地に送るのはイギリスの名誉にかかわるという主張を新聞に載せたのです。そして自らも兵隊として参加する決意をします。やめさせようと説得する母親に対しても、「わたしはあなたから愛国心を学びました」などと手紙に書いて、兵役検査に赴いたのです。

しかし40歳という年齢もあってか、検査には不合格でした。それでもドイルは医師として医療団を結成して戦地へ行ったのです。

ドイル、総選挙に打って出るが、落選する

かねてからドイルは政界進出の意思を新聞などで表明していました。ボーア戦争が一段落したとみられる頃に帰国し、正式に出馬することになります。1900年10月の解散総選挙です。

当時の与党は保守党と自由統一党で、野党は自由党でした。首相は第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・ガスコイン=セシルです。

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第3代ソールズベリー侯爵
ロバート・ガスコイン=セシル首相(在任1895~1902)
By Elliot & Fry. Uploaded by Connormahhttp://images.npg.org.uk/790_500/9/2/mw121392.jpg transferred from English Wikipedia, パブリック・ドメイン, Link

ドイルは人気作家とあって、与野党両方から声がかかりました。ドイルは戦争支持を打ち出している自由統一党から出馬しました。故郷のスコットランドの選挙区から出たのですが、惜しくも落選してしまいました。

しかし得票数としてはかなりいい線をいっており、党本部の一定の評価を下しています。このときの総選挙では与党の圧勝という形で幕を閉じました。

ドイル、イギリス軍の行為を擁護する

決着がついたかに見えたボーア戦争ですが、簡単には終わらず、泥沼化してしまいます。戦争が終わったのはドイルが帰国して2年もたってからでした。

イギリス軍は植民地を占拠したのはよいものの、各部隊に分かれていたため、それを縫うように動き回るボーア人のゲリラ部隊を制圧するのに難儀しました。一か所を制圧したかと思うと、イギリス軍が立ち去った後、再びボーア人部隊に取り返される、ということの繰り返しでした。

民家がゲリラ部隊の活動拠点になっていると見たイギリス軍は焦土作戦に踏み切ります。かたっぱしから家々を焼き払い、多くのボーア人を強制収容所へ押し込みました。

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強制収容所に収容されたアフリカーナーの女性と子供
By Total War – Photograph of Boer civilians in a British concentration camp National Army Museum, パブリック・ドメイン, Link

この強制収容所で2万人以上の命が失われました。そして婦女暴行なども行われたようです。これらの行為に対する不満がイギリスのみならず世界中で巻き起こりました。

それらの不満に対してドイルは反論します。焦土作戦は民家がゲリラの拠点となった場合のみであるし、責任も最初にゲリラ戦を行ったボーア人側にある、と主張します。また強制収容所で死亡率が高いのも病気のせいであって、食料は十分に与えられている、婦女暴行も戦争では女や子供が犠牲になるのは仕方のないことだ、と言いました。

それもこれも愛国心からであり、大英帝国の拡大が世界に道徳と秩序をもたらすと信じ切っていたからでした。

ホームズ顔負け、ドイルのえん罪を見抜く その1

ドイルは現実の世界で二つの冤罪事件の無罪を晴らすことに成功しています。
一つは連続家畜殺し。ジョージ・エダルジ事件と呼ばれています。彼は事務弁護士で、「鉄道利用者のための法律」という本を著したインド系イギリス人です。そのエダルジがこの事件の犯人として逮捕されたのです。7年の重労働刑に処せられているあいだにも家畜殺しは続くなど、次第に冤罪説が高まり、内務省に再審請求が殺到するようになります。

エダルジは3年ほどで仮釈放されますが、理由の説明もなく、無罪だと認定されたわけでもありませんでした。このままでは彼は事務弁護士に復帰することはできません。エダルジは新聞で必死に無実を訴えました。

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ジョージ・エダルジ
By http://www.prairieghosts.com/doyle2.html, Fair use, Link

これを読んで立ち上がったのがドイルです。関心を持ち、自ら裁判記録を調べ、現地にも赴きました。そしてドイルに無罪と決定づけさせたのが、エダルジ本人にあった時です。過去に眼科の勉強をしていたおかげで、エダルジは強度の近視と乱視であることに気づき、夜に動く家畜を殺すことなど不可能だと断定したのです。

アーサーとジョージ

ドイル、えん罪を見抜く その2

もう一つがスレイター事件です。

事件と裁判

スコットランドで老女が殺される事件がありました。ダイヤ入りの三日月形ののブローチを奪われ、撲殺されたのです。その犯人がスレイターであると決めつけられました。

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オスカー・スレイター
By 2nd ed. of “The Trial of Oscar Slater” by William Roughead, published 1915 in Edinburgh – https://archive.org/details/trialofoscarslat00slat, パブリック・ドメイン, Link

警察の捜査はずさんを極めるもので、目撃者に対して見たのはスレイターであると証言するよう要求までさせ、証拠物品についてもスレイターに不利になるように扱われました。

裁判はニューヨークとエディンバラで行われました。ニューヨークでは三人の証人がイギリスから送られ、警察の指示に従うように証言しました。スレイターの弁護士は強制送還されるいわれはない、と主張しましたが、スレイター自身が「自分は潔白である」と強制送還拒否権を放棄してスコットランドに戻りました。

スコットランドではエディンバラの高等法院で公判が開かれました。

High Court of Justiciary.jpg

エディンバラの高等法院

By RonAlmog, (Flickr page) – self-made, https://www.flickr.com/photos/ronalmog/98421827, CC 表示 2.0, Link

ここでの裁判もスレイターにとって極めて不利なものでありました。ニューヨークでの証言を翻し、はっきりスレイターだと断定する検察側証人や、賛否両論ある鑑定人の結果に対しても裁判官すら彼を無罪推定の原則(「疑わしきは被告人の利益に」)という視点から見てはいなかったのです。

結果、死刑判決が下されました。しかし2万人もの減刑嘆願書名が功を奏して終身重労働刑に減刑されました。

ドイルの活躍

ドイルも関心を持っていましたが、エダルジ事件で役人の体質にうんざりしていたので、なかなか腰をあげませんでした。しかし調べてみて冤罪だと確信するに至るや、無罪を訴える小冊子を発行して、世論を再び湧き立たせました。

スレイターが救いを求めてきて本腰を上げるまで、さらに10年もの歳月がかかりましたが、マスコミの過熱した報道と再調査により、政府はスレイターを突然釈放します。無罪を勝ち取るまでにはさらに時間がかかりましたが、ドイルの行動が世論を動かし、えん罪を晴らした功績は大きいでしょう。

ドイル、第一次大戦で英政府に全面協力し、準備不足に警鐘を鳴らす

ドイルは愛国心をむき出しにして、第一次世界大戦に立ち向かうイギリス軍を支援します。義勇軍を組織して、ずっとそれに一兵卒として組していました。一方、イギリス政府も有名なドイルを利用することによって国家の戦意高揚に結びつけようと目論みます。

ドイルは各地の戦地に出向いて戦記や従軍記を書きました。ロイド・ジョージが首相に就任するとより一層の支援を求められました。しかし検閲が厳しくなり、ドイルの書いたものも削除されるなど、彼にとっては不満なことも多くありました。

ドイルはイギリス軍は準備不足だと痛感していました。このままではドイツ軍にやられてしまう、と思ったドイルは、「危険!」を著して警鐘を鳴らします。

またホームズを利用して、ドイツのスパイの裏を書いた「最後の挨拶」を刊行しました。

The Strand Magazine (cover), vol. 65, no. 321, September 1917.jpg

『ストランド・マガジン』1917年9月号 「最後の挨拶」が収録されている
By Special Collections Toronto Public Library – https://www.flickr.com/photos/43021516@N06/8347311942/, パブリック・ドメイン, Link

そしてドイルはこの戦争で多くの親類を亡くします。心霊主義に没頭するきっかけの一つともなりました。

ドイル、心霊主義へ没頭し、妖精写真を信じるが、のちにねつ造と判明する

第一次大戦後、ドイルはかねてから関心のあった心霊主義へ没頭するようになりました。心霊主義に関する本も出しその著作は13冊にも及びました。心霊主義とは簡単に言えば、死んでもその人の魂は現世に残り、会話もできると信じることです。

ドイルは心霊主義の普及が自身の使命と考え、世界各地で講演して回りました。国際心霊主義者連盟の会長にもなりました。

一番の論争となったのは、コティングリー妖精事件です。これはイギリスのコティングリーに住む二人の少女がとった写真に写った妖精に関する論争のことです。ドイルはこれを本物の妖精だと言い張りました。

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妖精の写真を撮ったとされる二人の少女
By Arthur Wright (died 1926) – https://archive.org/stream/comingoffairies00doylrich#page/n39/mode/2up, パブリック・ドメイン, Link

ドイルは要請が写ったとされる写真をストランド紙に掲載させ、自らも「妖精の到来」という本を書いています。

ドイルの死後、この写真はねつ造されたことが明らかになります。妖精を切り抜いた紙を使ってピンで固定させて映したものだったのです。

ただドイルはこの写真自体を信用してのではなくて、少女たちが嘘をついていることが信じられなかったのだ、とのちにドイルの娘は言っています。

ドイル逝去も遺言叶わず

1920年代からドイルは心臓発作に見舞われるようになりました。医師から安静にするよう言われましたが、ドイルはそれに従わず、講演活動や執筆をつづけていました。

そしてついに1930年7月7日、臨終の時を迎えます。

ベッドに横になっていたドイルは家族に椅子に座らせるように言って、座って家の庭を眺めていました。そのまま彼は息を引き取ったのです。71歳でした。

心霊主義に心底傾斜していた彼は、死後、家族に心霊世界から言葉を伝えると言い残していましたが、実現しませんでした。

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コナン・ドイルの墓
By Trish Steel, CC 表示-継承 2.0, Link

ドイルの執筆「思い出」以後のホームズについて

「思い出」でシャーロック・ホームズを打ち切りたかったドイルですが、1901年に友人とノーフォークの温泉に言ったドイルはそこで魔犬伝説を聞きます。それをもとにホームズの長編「バスカヴィル家の犬」を書きあげました。

バスカヴィル家の犬 (新潮文庫)

しかしそれは「最後の事件」でホームズが死ぬ前の物語として描かれたもので、ホームズがよみがえったものではありませんでした。

それでも大衆のホームズ復活の熱望は強く、ついにドイルはホームズをよみがえらせます。「空き家の冒険」がそれです。これをきっかけに『ストランド・マガジン』に1903年10月号から読み切り連載をスタートさせます。それは13編続き、「シャーロック・ホームズの帰還」として単行本化されました。

シャーロック・ホームズの帰還 (新潮文庫)

また第一次大戦でドイツのスパイを相手に戦った「最後の挨拶」を刊行したのは前述の通りです。

シャーロック・ホームズ最後の挨拶 (新潮文庫)

大戦前の1914年には「恐怖の谷」も書き上げています。

恐怖の谷 (新潮文庫)

1927年には『ストランド・マガジン』誌の依頼で短編も書き続け、1927年に「シャーロック・ホームズの事件簿」を発刊しています。

シャーロック・ホームズの事件簿 (新潮文庫)

ただこの作品はファンにとっては精彩を欠くとしてあまり評判は良くなかったらしいです。

ドイルはホームズを嫌っていた、という見方もありますが、ドイルはそれほどでもないようで、このような軽い短編を書くことで、心霊主義などに打ち込めることができた、とホームズを評価しています。

ドイルゆかりの地

ドイル、と聞いて真っ先に浮かぶ観光名所はやはりホームズの事務所があったベーカーストリートでしょう。ベイカーストリート221Bという地番は架空のものですが、ベーカーストリートには実業家のジョン・アイディアンツが239番地にシャーロック・ホームズ博物館を1990年にオープンさせました。

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シャーロック・ホームズ博物館
By Kjetil Bjørnsrud – 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, Link

Baker Street 1890-2010's.png

ホームズの時代と現代のベーカー街の比較
By ΛΦΠ – Original map of 1890 used for this file: 1890 Bacon Traveler’s Pocket Map of London, England – Geographicus – London-bacon-1890.jpg (public domain).

現代のベーカーストリート近くには、シャーロック・ホームズの彫像もあります。

像と言えば、忘れがちな穴場もあるのです。それがコナン・ドイル出生の地、エディンバラです。そこにもまたシャーロック・ホームズの像が建っています。

Sherlock Holmes Statue, Edinburgh.JPG

エディンバラにあるシャーロック・ホームズ像
By Kim TraynorOwn work, CC BY-SA 3.0, Link

ドイル関連の漫画

 これは正確にはドイルというよりも、シャーロック・ホームズの関連というべきかもしれません。ドイルで連想するのはほとんどがシャーロック・ホームズだからです。チャレンジャー教授シリーズや多々ある歴史小説の存在は、ホームズによってかすんでしまっています。

ドイル関連の漫画にはどのようなものがあるのでしょうか。

一番有名なのは江戸川コナンが主人公の名探偵コナンでしょう。

名探偵コナン (Volume1) (少年サンデーコミックス)

何者かに襲われた主人公がたまたま目にした書籍から「江戸川コナン」と名乗るのです。言うまでもなく江戸川とは江戸川乱歩からとったものです。

シャーロックホームズ関連の漫画もあります。「憂国のモリアーティ」です。

憂国のモリアーティ 1 (ジャンプコミックス)

「最後の事件」で登場したジェームズ・モリアーティ教授がモデルであることはおわかりでしょう。階級社会のイギリスに疑念を抱いたモリアーティ教授が、ある兄弟を孤児院から引き取ったことによって、壮大な計画が動き出すという物語です。

ご興味がある方はご一読をしてみてはいかがでしょうか。

まとめ

コナン・ドイルはホームズで有名ですが、それ以外の著作、そして政治的活動もした人物であることがお分かりになったと思います。単なる作家ではないのです。彼の政治信条、心霊主義への傾倒など、ホームズ物を読むだけではわからない一面がご覧いただけたと思います。彼は非常にイギリスを愛した男でもありました。心霊主義という胡散臭い側面もありましたが、俳優の丹波哲郎氏をほうふつとさせるものがあります。個人的意見ですが、作家には何となく変わり者が多いような気がします。でも変わり者だからこそ、普通の人が考えないようなことを考える才能というものがあるのだとも思います。ドイルはその典型でしょう。ドイルは決して変人ではありません。常識人からズレているいるのは否定できませんが、作家というものはズレていなくてはなれないものだと思います。彼は歴史小説家として名を残したがっていました。意中に反してホームズで有名になってしまいましたが、それでいても彼は偉大な作家であることは誰も否定しないでしょう。彼の意外な側面が垣間見てもらえれば、この上ない幸甚です。

 

 

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