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盲目でありながら学問の道を志し、日本最大の国書の叢書『群書類従』を編纂した塙保己一。
彼は一体どのような人物だったのでしょうか。生い立ちから叢書編纂までの経緯や、「三重苦の聖女」と呼ばれる福祉活動家ヘレン・ケラーに与えた影響、400字詰めの原稿用紙を作ったことなど、興味深いトピックをまとめました。
塙保己一とは
塙保己一(はなわ ほきいち、1746年 – 1821年)は江戸時代の盲目の国学者です。
延期3年5月5日(1746年6月23日)に武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)で誕生しました。
先祖は平安時代までさかのぼり、地獄で閻魔大王の補佐官をしていたと伝説に残っている小野篁です。
塙保己一の「塙」姓は師である雨富須賀一の本性であり、荻野性が塙保己一の本姓となります。
絹本著色 塙保己一像 パブリック・ドメイン, Link
江戸時代は大小様々な文化が栄えた非常に面白い時代です。その中の一つである学問も中国の朱子学、儒学やオランダの蘭学や神道を学ぶ国学など時代が平和になるにつれて多様に分岐していきました。
当時は本居宣長や平田篤胤などの著名な人物が多く、その人達の陰に隠れがちですが、塙保己一は日本最大の国書の叢書『群書類従』や『続群書類従』などの編纂を行う他、徳川光圀が編纂していた『大日本史』の校訂にも携わりました。
7歳で失明するという苦難を迎えつつも努力を惜しまず、その偉業を成し遂げた人物として、尊敬を集めています。
塙保己一は幼くして苦労が絶えなかった
塙保己一は幼少の頃から体が弱く、丈夫ではありませんでした。
幼名は寅之助、生まれ年の干支からちなんで称されました。
草木を好み、非常に物知りであった塙保己一でしたが、5歳の時に罹った胃腸炎が原因で眼痛の症状が出始めてしまい、徐々に視力が弱っていき、わずか7歳で失明してしまいました。
塙保己一が生まれた家
塙保己一史料館より
失明を治すために誕生年と名前を変えても目の痛みは消えても視力は戻ることなく、修験者の正覚房に弟子入りをし、多聞房の名前を与えられても努力の甲斐むなしく視力は戻ることはありませんでした。
塙保己一は失明後も勉学をやめなかった
失明後の塙保己一は掌に指で文字を書いてもらい、そうして文字を覚えていきました。また、失明する前は草花に覚えがあり、かつ物知りでもありましたので手で形を触ったり、匂いを嗅いだりしただけでどの草花かを見分けることができました。
そして物覚えもよくなり、和尚さんや家族の話は聞いただけで忘れることは一切なく、一言一句間違えずに言える程の集中力も物覚えと同時に持っていました。
塙保己一の勉強法
いずみ書房、オンラインブック世界伝記図書館より
物知りで物覚えもよい塙保己一は、10歳の時に江戸へ出て、今よりも学問を積んで心身ともに立派な人間になりたいと考えるようになりました。しかし、両親は塙保己一の体が弱いことや失明のことを熟知しているので、江戸へ行くことを反対するだろうと自身は思っていました。
塙保己一は江戸に出るも、絶望のあまり命を絶とうとした
塙保己一が江戸へ行くことを決心したのは、絹商人から聞いた「『太平記』を暗記して読み聞かせる軍記読みで生計を立てている人が江戸にいる」という話がきっかけでした。
塙保己一は15歳になる宝暦10年(1760年)に江戸へ旅立ちました。江戸へ着いてからは永嶋恭林家の江戸屋敷で盲人として修業を積んでいました。約3年経った17歳の時に、盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に弟子入りし、按摩(マッサージ)、鍼治療などの修業をしていました。
盲人の按摩風景 パブリック・ドメイン, Link
しかし、生来の不器用が災いし、どちらも上達することはありませんでした。1年経っても上達することはなく、絶望のあまり自殺しようとする所を直前で助けられた塙保己一は、師である雨富須賀一に学問への想いを伝えた所、「博打は好ましくないが、他のことで好きな道を目指すことは大切なこと。3年経っても上達しなければ国元へ帰すことを条件に面倒を見よう」という有り難い言葉が返ってきたのでした。
塙保己一は縁に愛された人物だった
塙保己一の決意を聞いた雨富須賀一は塙保己一に様々な分野の学問を学ばせました。
- 国学・和歌:萩原宗固
- 漢学・神道:川島貴林
- 法律:山岡浚明
- 医学:品川の東禅寺
- 和歌:閑院宮
・・・などの様々な方から学びました。
勉学の方法は幼少期と変わらず、人が音読したものを暗記して覚えていました。塙保己一の人の話を聞く集中力は凄まじいもので読み聞かせの際、辺りを飛び交う虫で集中力を切らさないように両手を紐で縛り聞いていました。その姿勢に感心した高井大隅守実員の奥さんから大著『栄華物語』をプレゼントされる程でした。
宝暦13年(1763年)には盲官の一つである衆分となりました。そして、元来病弱であった塙保己一に雨富須賀一は関西旅行を勧め、父と共に2か月に渡り、伊勢神宮や京都、大阪などを巡りました。旅行によって心身ともに丈夫になった塙保己一は明和6年(1769年)に賀茂真淵に弟子入りし『六国史』を学びましたが、弟子入りして間もなく賀茂真淵が亡くなってしまったため、半年の短い時間しか教えを受けられませんでした。
賀茂真淵:弟子による肖像画
『國文学名家肖像集』, パブリック・ドメイン, Link
塙保己一はある考えの元『群書類従』の編纂を決意した
塙保己一は34歳になる安永8年(1779年)の正月に『郡書類従』の編纂を決意しました。編纂を行う目的は各地に散らばる貴重な書物を一つに取りまとめ、後世の人の学びに役立たせたいという想いがありました。江戸では火事が非常に多く、260年間で1798回もの火事が発生しており、火事により大事な書物が散逸・焼失することを防ぐということも塙保己一は考えていました。
群書類従の版木
塙保己一史料館より
『群書類従』は塙保己一の敬愛する菅原道真の『類聚国史』を参考しています。『群書類従』の由来は、中国の歴史書『三国志』や『魏志』応召伝の一文にある「五経群書、以類従従」によるものと言われています。書物を筆写し集書することが求められるため、寺や名家所持の門外不出の書物は中々筆写させてくれませんでした。
400字詰めの原稿用紙は塙保己一が作った?
20字×20行の400字詰の原稿用紙を学校で使ったことのある方もいるのではないでしょうか。
塙保己一は『群書類従』の版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていました。これが現在の原稿用紙の一般様式の元となっているそうです。
幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えた頼山陽(らい さんよう)(1781年-1832年)も、『日本外史』を記すのにマス目様の用紙を使ったそうですが、頼山陽は塙保己一に学んだそうなので、塙保己一のやり方を受け継いだのではないかと推測されます。
熊田淳美『三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録の出版文化史』(勉誠出版、2009年)
原稿用紙の文化史
塙保己一は『大日本史』の校訂も行った
天明3年(1783年)、晴れて盲人の役職の最高位である「検校」になった塙保己一は、2年後の天明5年(1785年)の時に国学と関わりの深い水戸学を学ぶ水戸藩と関係を持ち、同時に『大日本史』の校訂を行いました。『大日本史』とは水戸黄門でお馴染みの徳川光圀が初めて編纂を行った歴史書で神武天皇から後小松天皇までの治世を中心に扱っています。塙保己一は『大日本史』の校訂に入る前に腕試しとして『源平盛衰記』の校訂を行いました。そして、その力が認められ『大日本史』の校訂に加わることができました。
徳川光圀の肖像画
京都大学付属図書館所蔵品, パブリック・ドメイン, Link
水戸藩も塙保己一の能力を高く評価しており23冊の書物を読み聞かせただけで、その書物達の良し悪し、事実との齟齬を判断できたとのことです。塙保己一無くしては今の『大日本史』は出来ていなかったと言わしめる程でした。
塙保己一は盲官で最高職に就任した
晩年は、講義の時間にあてていました。そのために寛政5年(1793年)に和学講談所を開設し、やりたいことができるように環境を整えました。ある時、和学講談所で『源氏物語』の講義を行っていた時に、風でろうそくの火が消えてしまいました。塙保己一はそうとも知らずに続けていましたが、弟子たちが慌てていた所、健常者は大変だと冗談を言うようなほのぼのとした時間を過ごしていました。
『群書類従』の編纂事業も和学講談所で行い、文政2年(1819年)の時に形として成りました。『群書類従』の編纂を行うと決意した安永8年(1779年)より40年の歳月をかけた一大事業はここに仕舞となりました。盲官としても地位を確立していき、文政4年(1821年)には全ての検校をまとめる総検校になりました。しかし、同年9月、編纂途中であった『続群書類従』の完成を見ないまま76歳で亡くなりました。
塙保己一のお墓
塙保己一史料館より
塙保己一の死後、息子も苦労続きだった
塙保己一の跡を継いだ四男の塙忠宝がまず、やらなければならないことは父の塙保己一が残した借金の返済でした。『群書類従』の編纂事業における多額の借金は塙保己一の生前には返済できるものではなく、苦労は相当なものでした。
塙忠宝は文久2年(1862年)、幕府の命令で寛永時代以前の幕府による外国人待遇の式典の調査を行っていましたが、孝明天皇を廃位するための画策をしているとの噂が流れてしまい、それが過激派志士達を刺激してしまいました。そして同年12月に伊藤博文と山尾庸三の2人によって暗殺されてしまいました。山尾庸三に至っては後年盲学校の必要性を説いているだけあって何とも皮肉な結果となってしまいました。
暗殺現場である塙忠宝邸跡前
By Tokyo Watcher , CC 表示-継承 3.0, Link
塙保己一は驚異の節約家だった
ここからは塙保己一の人物像について触れたいと思います。まずは、塙保己一の節約家であった逸話に触れたいと思います。
水戸藩との交流があった際、講義が終わった時、藩主・徳川治保より「何か食べたいものはあるか」と聞かれた所、塙保己一は「里芋が食べたいです」と答え、山盛りの里芋が出されました。それを満足そうに食べる塙保己一を見て治保公は笑いながら見ていたそうです。
塙保己一が赴いた水戸藩の藩校、彰考館跡, パブリック・ドメイン, Link
また、服装が毎回同じだったので、理由を聞くと「服はこれしかありません」と答えたので、新たな服を与えたと言われています。何故このような状態だというとお金の全てを編纂の時に使用する書物代に使用していたそうです。衣食全て投げてでも書物代に費やす塙保己一の覚悟に感服しか覚えません。
塙保己一は誰にも分け隔てなく優しかった
塙保己一と同時期の国学者である足代弘訓は、江戸時代の蔵書家について「書物が多い場所を所有している人は聖堂を所有していることと等しい」と例えました。塙保己一の和学講談所は6万の書物を所持していました。
和学講談所 埼玉県Webサイトより
多くの書物を所持しているだけあって管理は厳しく貸し出しは禁止されていました。しかし、塙保己一は誰でも入門を許し、講義の受講や史料の閲覧も快く応じていたそうです。学問を学ぶ人には悪い人はいないと体現しているような塙保己一の懐の広さを表す逸話ですね。
塙保己一はヘレン・ケラーに大きな影響を与えていた
塙保己一の生き方は海外のヘレン・ケラーに大きな影響を与えました。ヘレン・ケラーと言えば絵本や書籍で名前は聞いている方も多いと思いますが、視覚と聴覚に障害がある盲ろう者です。それでも、世界各地を訪問し、障害者の教育や福祉の発展に大きな貢献をした人物です。
ヘレン・ケラー パブリック・ドメイン, Link
そんなヘレン・ケラーは塙保己一のことを子どものころから母親にお手本にしなさいと言われて育ちました。ヘレン・ケラーにとって幼くして盲目になり、苦労しながら自分のやりたいことをやった塙保己一が前例となり大きな支えになったと思います。
まとめ
幼くして失明してしまった塙保己一。しかし、失明というハンディキャップを物ともせず、自分の好きなことである学問を一心不乱に学びました。そのひたむきさが大きな長所となり、雨富須賀一や賀茂真淵などの師匠に恵まれたと思います。
そして、そのひたむきな気持ちが後世にも大きな影響を与え、ヘレン・ケラーをはじめとした障害を持つ方々に障害があっても自分の好きなことはできると勇気と希望を与えたと思います。これからも塙保己一は全盲の国学者として人々に良い影響を与え続けるでしょう。
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