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ハンニバル・バルカという人物をご存知ですか?
世界史で教わった記憶のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
紀元前3世紀、カルタゴに生まれ、生涯をかけてローマと戦ったカルタゴ軍の指揮官です。
将軍であり政治家としても才能を発揮したハンニバルについて、アルプス越えを始めとする天才的な戦いっぷりやスキピオとの宿命について、ご紹介していきたいと思います。
- ハンニバル・バルカとは?
- ハンニバルの父・ハミルカルもまた知将だった
- ハンニバルはローマへの復讐の戦いを始めた
- ハンニバルはアルプス山脈を越えて進軍した
- ハンニバル快進撃のはじまり「ティキヌスの戦い」 – スキピオとの衝突
- ハンニバルは「トレビアの戦い」でローマ軍を包囲した
- ハンニバルは3時間で「トラシメヌス湖畔の戦い」に勝利した
- ハンニバルは「カンナエの戦い」でもローマ軍を包囲した
- スキピオはハンニバルのいないカルタゴ本国を襲った
- ハンニバルはローマのスキピオに和平を申し入れた
- ハンニバルは「ザマの戦い」でスキピオに仕返しされた
- ハンニバルは政治家になっても有能だった
- ハンニバルの亡命し、自ら最期を迎えた
- ハンニバルは亡命中にスキピオと再会していた
- 危険・恐怖の代名詞とされるハンニバル
- ハンニバル・バルカとハンニバル・レクターとの共通点?
- ハンニバルのアプルス越えのルートは最近判明した
- まとめ
ハンニバル・バルカとは?
ハンニバル・バルカは、紀元前247年に出生し活躍したカルタゴの将軍です。
ハンニバルとは「主の恵」「慈悲深き主」という意味があります。
そしてバルカとは「雷光」という意味があるようです。
ハンニバル像
セバスチャン・スロッドツ(フランス, 1655–1726)作
当時、軍事技術が優れ領地を拡大していた古代ローマ帝国。
兵の数、領地、金銭…どれをとってもカルタゴがローマに勝るものはありません。
そんなローマにハンニバルは牙を剥きます。
無謀にも見える行動ですが、その功績によってローマ史上最大の敵とまで言われています。
ハンニバルの考える戦略は2000年以上の時を経た今でも軍の参考にされているほど。
さらに、ハンニバルは政治家としても有能でした。
ハンニバルの父・ハミルカルもまた知将だった
ハンニバルの父であるハミルカルは、ハンニバルを語るのに欠かせない存在です。
ハミルカルも才能溢れる将軍でした。
息子のハンニバルと同じく、ローマ軍を倒すために紀元前264年に勃発した第一次ポエニ戦争でシチリアへと出陣します。
ハミルカルによる戦いは無双といえるもので、次々にローマ軍を蹴散らしていきます。
しかしカルタゴはローマに海戦で敗北、ハミルカルの活躍も虚しく降伏してしまいます。
カルタゴはローマに多額の賠償金を掛けられてしまいます。
それによって戦争で命をかけて戦った傭兵たちに給料が払えず、傭兵たちは反乱を起こします。
その反乱をハミルカルが抑えたことで国内でのハミルカルの人気は絶大なものとなりました。
ハミルカルはローマへの復讐を誓い、その布石としてヒスパニア(スペイン)へ出陣します。
表向きは「カルタゴの支配地を広げ賠償金を返済するため」という名目です。
その出陣の際、まだ若かったハンニバルも父・ハミルカルに着いて行きます。
ハミルカルは息子であるハンニバルをバアル神殿へと連れていきました。
そしてそこで生涯ローマを敵とすることをハンニバルに誓わせました。
ハンニバルはローマへの復讐の戦いを始めた
父・ハミルカルの影響も受けてハンニバルはローマに対する復讐心を抱きながら大人になっていきます。
そして26歳の時(紀元前219年)、カルタゴ軍の司令官となります。
ここから、彼の対ローマ戦争が始まります。
当時のカルタゴはローマとエブロ川を境界として相互不可侵条約を結んでいました。
しかし、ハンニバルは川より南に位置するローマ同盟国であるサグントゥムを包囲攻撃し、そして8ヶ月後には陥落させました。
この行為は勿論、条約違反ですので、ローマはカルタゴ政府に対して、ハンニバルへの懲罰を要求します。
しかしハンニバルは国内で絶大な人気があります。
カルタゴ政府はそんなハンニバルに何もすることが出来ませんでした。
ローマはそれを受けて、カルタゴへ宣戦布告。
ハンニバル戦争と呼ばれる第二次ポエニ戦争が幕を開けました。
ハンニバルはアルプス山脈を越えて進軍した
ハンニバル戦争が始まり、ローマはカルタゴに最も近い海に大軍を置きました。
カルタゴは海から攻めてくる、ローマ軍はそう確信していました。
なぜなら、カルタゴにとってローマは海を越えてすぐの場所に位置しているからです。
しかし、ハンニバルは意表を突くために海ではなく、陸からローマを攻めます。
そのためにハンニバルは、アルプス山脈を超えたのです。
季節は冬。山が最も厳しい時期です。
そのため、ローマはまさかカルタゴ軍がアルプス山脈を越えて攻めてくるとは考えてもいなかったのです。
確かにアルプス山脈越えは厳しく、4万人の兵士は2万6千人へ、連れてきていた象30頭もたった3頭へと数を減らしたといわれています。
それでもハンニバルはアルプス山脈を越え、イタリア半島へと進行していきます。
ハンニバルの侵攻ルート。ザグントゥムから大回りしてローマに進撃した。
以下出典資料に日本語注釈を加えた。
By Frank Martini. Cartographer, Department of History, United States Military Academy [GFDL or CC-BY-SA-3.0], via Wikimedia Commons
ハンニバル快進撃のはじまり「ティキヌスの戦い」 – スキピオとの衝突
アルプス山脈を越えるというハンニバルの驚異の戦略を知ったローマ軍の知将、スキピオは、ハンニバルがローヌ川を越えることを予見していました。
そのため、スキピオはハンニバルを追いかけ、ローヌ川沿いへと向かいます。
しかし、スキピオが到着した時には、既にハンニバルはローヌ川を渡りきって数日が経過していました。
更にハンニバルは、山中で捕虜としていたガリア人に対して、ローマに勝利すれば子どもの代まで税を免除すること、土地や金貨を与えることを告げ、懐柔していました。
そして交戦がはじまります。
カルタゴ軍の騎兵が突撃すると、ローマ軍はピルムと呼ばれる投げ槍を使って応戦します。
しかし、カルタゴ軍の前進を止めることは出来ずに、ローマの戦列は乱れていきます。
騎兵同士の交戦も、カルタゴがローマを圧倒していきます。
ローマ軍中央は包囲されそうになり、さらにスキピオも負傷してしまいます。
さらに、ローマ軍内のガリア兵が脱走しカルタゴ軍に合流しました。
スキピオはこの戦いで、カルタゴ軍の戦力を侮れないものと考えます。
そして万全の態勢でこれを迎え撃とうと考えます。
ローマ軍は撤退し、こうしてハンニバルはこのティキヌスの戦いに勝利しました。
ハンニバルは「トレビアの戦い」でローマ軍を包囲した
ハンニバルはガリアの現地部族を懐柔し、自軍の兵力を高めていきます。
そして4万人にまで兵力を増やしたハンニバルは、トレビア川を挟んでローマ軍と対峙しました。
戦いの舞台となった、トレビア川(下)がポー川に合流する地点
早朝、ハンニバルは全軍に戦闘用意を指示します。
そして少数の兵に対岸のローマ軍に野営地を急襲させました。
ローマ騎兵が迎撃すると、カルタゴ兵はすぐに退却します。
それを受けたローマ軍はカルタゴへ決戦を挑むべく全軍に野営地からの出撃を命令します。
つまり、ローマ軍はカルタゴ軍の誘引策によって、充分に態勢の整わないうちに出撃することとなったのです。
はじめはローマ兵がカルタゴ兵を相手に優勢に戦闘を進めました。
しかしまもなく、カルタゴ騎兵はローマ騎兵を撃退し、ローマ軍の側面に回りこんでいきました。
さらに、林の中に潜んでいたカルタゴの分遣隊が、ローマ軍の後方を襲います。
つまりローマ軍は、カルタゴ軍に包囲されてしまったのです。
渡河したローマ軍■を包囲するカルタゴ軍■の図
動画【ゆっくり解説】世界の奇人・変人・偉人紹介【ハンニバル・バルカ】より
やむなくローマ軍はカルタゴ軍の中央を攻撃集中させて突破し、そのまま撤退していきます。
この戦いでローマ軍は2万人もの命を失います。
一方、カルタゴ軍の損失は少なく、大半は中央の兵のみでした。
この大敗にローマ軍は、ハンニバルの動きを止めることは不可能であると思い知りました。
そしてローマ軍は北部イタリアを放棄し、軍を後退させました。
この、トレビアの戦いに勝利したことでハンニバルの名声と人気はますます高まっていきます。
カルタゴ軍に参加するガリア兵は増え、カルタゴ軍の兵力は5万人を超えました。
ハンニバルは3時間で「トラシメヌス湖畔の戦い」に勝利した
ハンニバルはアペニン山脈を越え、ローマに向かって更に南へと進みます。
ハンニバルの動きを察知したローマ軍はカルタゴ軍を追いかけます。
ローマ軍はカルタゴ軍を挟み撃ちにしてしまおうと考えていました。
しかし、知将ハンニバルはこれを予測していました。
トラシメヌス湖畔に到達すると、ハンニバルはすぐに部隊を展開させました。
トラシメヌス湖の岸にある道は、迎撃に最適な地形だったのです。
ハンニバルの狙いはローマ軍を湖へ落とすことでした。
早朝、ローマ軍はトラシメヌス湖畔に到着します。
ローマ軍は濃霧のせいでカルタゴ軍の存在に気が付きませんでした。
ローマ軍とカルタゴ軍の交戦が始まると、カルタゴ軍の一部がローマ軍の後方へ回りこみます。
ローマ軍の退路を奪い、それだけでなく同時にローマ軍を前方へ押し上げていきます。
更に陰から残りのカルタゴ軍が飛び出していくとローマ軍は混乱の渦となります。
赤の点線(- – – – ->)で示したローマ軍を陰から攻撃し、混乱に陥れるカルタゴ軍■
奇襲に成功したハンニバルは、ローマ軍を分断し、壊滅させます。
ローマ軍は撤退しますが、1万5千人もの死者を出します。
更に指揮官であったフラミニウスもカルタゴ軍によって殺害されてしまいます。
先頭の開始から、わずか3時間の出来事でした。
続く「カンナエの戦い」も含め、ハンニバルはローマ軍を相手に4度も勝利を収めたのです。
ハンニバルは「カンナエの戦い」でもローマ軍を包囲した
ローマ軍はハンニバルの強さに恐れをなし、決戦を避けることとしました。
そして持久作戦を展開してカルタゴ軍の消耗を待ちます。
しかしその結果、ローマはカルタゴ軍による略奪にさらされることとなりました。
それによってローマでは決戦を望む声が湧き起こります。
これを受けてローマは約8万人の軍でハンニバルの迎撃に向かいます。
ローマの将軍パウルスは、今までの戦いから考え、ハンニバルとの正面対決を避けるべきだと主張していました。
しかし同じくローマの将軍であるウァロは決戦を希望していました。
そして、ローマ軍は、5万人の軍であるカルタゴに対して将軍ウァロが決戦を挑んだことでカンナエの戦いが幕を開けることとなります。
交戦開始し、カルタゴ軍は、部隊の中央部がローマ軍に押されてしまいます。
それを見たハンニバルは、ローマの両側面の部隊を攻撃、押し込んでいきます。
そしてカルタゴの別部隊はローマ軍の後方へ回り込みます。
カルタゴ軍の中央はほとんどローマ軍に突破されていましたが、両側面ではカルタゴ軍が優勢となっていました。
そんな中で、ローマ軍の後方へ回り込んでいたカルタゴ軍がローマ軍を攻撃します。
突然後方を突かれたローマ軍全体が混乱に陥ります。
カルタゴ軍はローマ軍を完全包囲したのです。
ローマ軍は撤退することさえできず、殲滅されていきます。
そしてローマ軍はおよそ6万人の死傷者を出しました。
ローマ軍の指導者も全体の25%がこの戦いで死傷してしまいます。
さらに、残っていた兵士はカルタゴ軍に降伏し、捕虜となりました。
一方のカルタゴ軍の損害は6千人ほどでした。
ハンニバルは、この勝利によってローマ同盟国がローマを裏切り、離反することを期待していました。
しかし十分な成果は得られませんでした。
ハンニバルは補給に苦しみ、カルタゴ本国と連絡のしやすいイタリア南部を攻めることとしました。
スキピオはハンニバルのいないカルタゴ本国を襲った
ローマがハンニバルとの決戦を避けハンニバルが補給に苦しんでいる頃、スキピオの率いるローマ軍が勢力を増していきます。
そしてスキピオがサグントゥムを制圧します。
カルタゴはスキピオ率いるローマ軍の脅威により、ハンニバルへ援軍を派遣できなくなってしまいます。
こうしてハンニバルは更に辛い状況に身を置くこととなったのです。
スキピオは、ハンニバルがアプリア地方に封じ込められているうちに攻勢に転じます。
そしてスキピオは、ハンニバルを狙うのではなくカルタゴ本土に出陣しました。
カルタゴ政府はスキピオの行動に驚きます。
慌ててヌミディア王国の騎兵を援軍として交戦しますがローマ軍の前に敗北してしまいます。
この敗戦でカルタゴ政府は、ローマとの休戦交渉とハンニバルの召還をします。
こうしてハンニバルは、15年ぶりにカルタゴへ帰還することとなりました。
休戦交渉は成立するかと思われましたが、決裂します。
こうしてハンニバル率いるカルタゴ軍とローマ軍との戦いは終盤へと差し掛かります。
ハンニバルはローマのスキピオに和平を申し入れた
交戦の直前、ハンニバルとスキピオは会談をしました。
ハンニバルは、自分が自国の存亡を左右する立場になっていることを伝えます。
そして戦で国の運命を決めることは危険であり、避けたいということを説明しました。
つまり、ハンニバルはローマに和平を申し出たのです。
ザマの戦い直前に交渉するスキピオとハンニバル
手前で座っているのがスキピオか?
しかしスキピオは、この戦争を始めたのがカルタゴ側であることを指摘します。
また、ハンニバルのイタリア撤退はローマ軍がカルタゴ本土を攻撃したためのものであり、自発的ではなかったことも指摘しました。
こうして会談は決裂に終わりました。
ハンニバルは「ザマの戦い」でスキピオに仕返しされた
紀元前202年10月19日、ザマの戦いが始まりました。
戦いはカルタゴ軍の戦象による突撃で始まります。
しかし、スキピオの事前の戦列配置によって無力化されてしまいます。
ハンニバルはそれを見て、自軍の騎兵を後退させます。
ローマ軍騎兵はそれを追撃しますが、これこそがハンニバルの作戦だったのです。
ハンニバルは騎兵をおびき寄せて戦場から引き離そうとしたのです。
このようにハンニバル、スキピオは共に策略家であったと言っても過言ではないでしょう。
しかし、歩兵同士の戦いではカルタゴ軍はローマ軍に押されてしまいます。
ハンニバルは第二列に攻撃命令を出しますが、新兵で構成されていた第二列は、怖気づいて命令を拒否しました。
それでも第三列のカルタゴ軍歩兵はローマ軍に対し優勢、戦列中央を大きく押し込みました。
しかしローマ軍は横に広がりを見せ、カルタゴ軍の脇を包み込むように囲いました。
そして、戦線に復帰したローマ軍騎兵はカルタゴ軍の後方へ回り込み、攻撃を開始しました。
ローマ軍■に包囲されるカルタゴ軍■ ザマの戦い – Wikipediaより
以前ハンニバルがやってみせたカンナエの包囲がスキピオによって再現されたのです。
包囲されたカルタゴ軍はパニックに陥り、殲滅されました。
この戦闘で、カルタゴ軍は約2万名の死傷者を出し、ハンニバル自身も逃亡することとなりました。
こうして最終決戦にて敗北したカルタゴ軍はローマに降伏し、ハンニバル戦争と呼ばれる第二次ポエニ戦争は終結したのです。
ハンニバルは政治家になっても有能だった
第二次ポエニ戦争が終えると、カルタゴはローマの同盟国になることを強要されます。
更に、膨大な賠償金を課せられてしまうのです。
ハンニバルは先頭に立って母国カルタゴの再建に努めます。
高い人気の誇るハンニバルは行政の長に選ばれます。
そして自分に権限を集中させました。
ハンニバルの行政改革は高い効果を挙げ、不可能と言われていた賠償金返済を完遂してみせます。
ハンニバルは将軍としてだけではなく政治家としての才能も持ち合わせていたのです。
ハンニバルは国力の回復を目指します。
しかし、不可能と思われた賠償金の返済をやり遂げた事が、ローマの危機感を募らせました。
ハンニバルの亡命し、自ら最期を迎えた
カルタゴ国内でも、効果的でありながらも強引なハンニバルのやり方に対して不満の声が上がります。
こうして生まれた反ハンニバル派は「ハンニバルがシリアと内通している」との噂を立てました。
ローマは事実確認のため、調査団の派遣をします。
ハンニバルはそれに対して身の危険を覚え、祖国カルタゴを飛び出します。
そしてシリア王アンティオコス3世の元へ向かいました。
シリアがローマとの戦争に突入した際、再びシリア軍のひとりとしてローマと対峙します。
しかしハンニバルの意見はまったく採用されず、シリアはローマに敗北してしまいます。
シリア戦争の後、ハンニバルはローマに追われる身となり、クレタ島やビテュニア王国へと亡命しました。
しかし最期には逃げきれないと悟り、ハンニバルは自殺しました。
没年は紀元前182年、または紀元前183年といわれています。
ハンニバルは亡命中にスキピオと再会していた
ザマの戦いから数年後、ハンニバルはスキピオと再会しています。
スキピオはもっとも偉大な指揮官は誰かとハンニバルに質問します。
ハンニバルは「第一にアレクサンドロス大王、第二にピュッロス(エペイロス王)、そして第三に自分だ」と答えました。
スキピオが重ねて「ザマの戦いであなたが私を破っていたら」と聞きます。
ハンニバルはそれに対し、「アレクサンドロスを越えてわたしが史上第一の指揮官になっていた」と答えたという話があります。
ほか、リウィウスの『ローマ史』によると、
いかなる超大国といえども、長期にわたって安泰であり続けることは出来ない。国外に敵を持たなくなっても、国内に敵を持つようになる。外からの敵は寄せ付けない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に苦しまされることがあるのと似ている。
とハンニバルは言ったそうです。
ローマではポエニ戦争の勝利の後、社会構造の変化に対応することが出来ず内乱の一世紀が訪れます。
ハンニバルはそのことを予見していたのかも知れません。
危険・恐怖の代名詞とされるハンニバル
ハンニバルはローマ史上最強の敵としてローマ人の記憶に残りました。
ハンニバルにまつわる記載の多くは将軍としての能力は高く評価されています。
しかしその上で、人間味のない恐ろしい将軍であったと書かれています。
また、ハンニバルの用いた戦術、特に包囲殲滅戦術は今でも教材として使われています。
それほどに完成度の高いものだったのです。
その他、ラテン語には「戸口にハンニバルがいた」という言葉があります。
これは「危険が迫っていた」という意味です。
また、イタリアでは子どもが悪さをすると「ハンニバルが来てあなたを連れて行ってしまうよ」と叱ることがあるそうです。
画像 GATAG
ハンニバルが今でも恐れられていることがよく分かると思います。
ハンニバル・バルカとハンニバル・レクターとの共通点?
ハンニバル・レクターは、『羊たちの沈黙』など複数の作品に登場する架空の猟奇殺人犯です。
殺害した人間の臓器を食べる異常な行為から「人食いハンニバル」と呼ばれています。
ハンニバル・バルカについても、アルプス越えをしたときに味方の兵士を食べて飢えを凌いだという俗説が流れたことがあります。
有名ホラーのハンニバル・レクターの命名は、恐怖の代名詞ハンニバル・バルカと関係があったりするのか、気になります。
ハンニバルのアプルス越えのルートは最近判明した
紀元前3世紀、カルタゴのハンニバル将軍が“アルプス越え”したルートを、北アイルランドのクイーンズ大学ベルファストなどの研究チームが突き止めた。2000年以上にわたる歴史家の論争に終止符が打たれるかもしれない。

このニュースは2016年に報じられました。
2000年以上前の時を経て解明される謎にロマンを感じてしまいます。
まとめ
- ハンニバルは父譲りの天才軍師であった
- ハンニバルは生涯ローマを敵とし、ハンニバル戦争を引き起こした
- ハンニバルはローマに対して類まれなる戦術を見せ、何度も勝利を収めた
- ハンニバルは最終決戦でスキピオに敗れカルタゴは敗北した
- ハンニバルは政治家としても有能であった
- ハンニバルはシリア軍としてもローマに立ちはだかった
- ハンニバルは再び敗北、逃亡を繰り返した
- ハンニバルは最期、逃げ切れないと分かると自害した
以上がハンニバルの生涯であったといえます。
ハンニバルは最終的にローマに敗北してしまいました。
しかしそれまでの快進撃と戦術は語り継がれており、地域によっては今でも恐怖の代名詞となっています。
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