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幕末といえば「新選組」を思い浮かべる人が多いと思います。
小説やドラマや漫画やゲームなど、その素材が面白いため色々と描かれていますが、その中でも一番の推しキャラは?と聞かれたら、土方歳三という人は多いですよね。
しかし歴史上の本当の土方歳三という人はどんな人だったのでしょうか?
知りたいと思いませんか?
土方歳三の生きた道を一緒に歩いてみましょう。
- 土方歳三とは
- 歳三の家は農民ながら隠し姓を持っていた
- 少年・歳三は初の奉公先から逃げ帰った
- 青年の歳三は奉公先で女性問題を起した
- 歳三は道場破りしながら薬を売っていた
- 歳三は天然理心流の試衛館に入門した
- 歳三は婚約者を待たせて浪士組参加を決めた
- 歳三 芹沢鴨と出逢う
- 歳三たちは浪士組ではなく壬生浪士組を結成した
- 歳三たちは芹沢鴨を粛清した
- 歳三は新選組の副長となった
- 土方歳三は局中法度という厳しい掟を作った
- 歳三は鬼の副長と呼ばれるようになった
- 「待たせたな!」池田屋事件での土方歳三
- 歳三と山南敬助との関係は悪かった?
- 歳三は伊東甲子太郎を酔わせて襲撃した
- 歳三は将軍の主治医・松本良順にべた褒めされた
- 戊辰戦争① 歳三は「鳥羽伏見の戦い」の大敗で時代の変化を感じた
- 戊辰戦争② 歳三は菜っ葉隊に援軍要請を試みた
- 戊辰戦争③ 歳三は死に向かう近藤勇を救おうとした
- 戊辰戦争④ 歳三は宇都宮から会津へ転戦した
- 戊辰戦争⑤ 歳三は榎本武揚と蝦夷地へと向かった
- 戊辰戦争⑥ 歳三は箱館戦争で奮戦した
- 戊辰戦争⑦ 土方歳三は新政府軍の総攻撃のときに亡くなった
- 土方歳三 俳句と和歌と漢詩
- 土方歳三の刀
- 土方歳三を主人公とする作品
- まとめ
土方歳三とは
国立国会図書館 電子展示会「近代日本人の肖像 土方歳三」, パブリック・ドメイン, Link
時は幕末、アメリカより黒船がやってきて日米和親条約が結ばれ、長い鎖国の時代が終った時代。
日本国内は幕府に不満をもつ尊王攘夷派と、幕府を支えていこうとする佐幕派と分かれていました。
土方歳三は、天皇がおられる京の都で尊皇攘夷派の勤王志士を名乗り無法なことをしている不逞浪士たちを取り締まるために結成された新選組で「鬼の副長」と呼ばれ活躍しました。
しかし時代の流れは止めることができず、尊王攘夷派が優勢となり大政奉還が行われ徳川幕府は終り、徳川幕府を徹底的につぶすための「戊辰戦争」が勃発。新選組をはじめとした佐幕派は京から撤退します。
江戸無血開城の後に、土方歳三は佐幕派や幕臣たちと一緒に転戦し、北海道の箱館(現在の函館)にたどり着き、箱館政府を作りました。
箱館政府の陸軍奉行並となった土方歳三は、箱館政府を認めない新政府軍と戦い続けて、政府高官の中で唯一人の戦死を遂げました。
最期まで「武士らしく生きた」ラストサムライの生き様は、現在も人の心を打ち、毎年菩提寺の石田寺で行なわれる命日の法要には全国から人が集まっています。
歳三の家は農民ながら隠し姓を持っていた
天保6年端午の節句の5月5日(旧暦)、土方歳三は武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)の豪農の家に生まれました。
父の土方隼人は、歳三が生まれる3ヶ月前に結核で亡くなり、母の恵津も6歳の時に結核で亡くなってしまったので(長兄の為次郎は目が不自由だったため)後を継いだ次の兄の喜六夫婦に育てられました。
土方歳三生家(旧) 筆者親族撮影
育った多摩は江戸幕府が開かれる前までは、武田信玄・勝頼が支配する武田家の領地であり、武田家が滅んだ後は徳川家康の領地となり、なにかが起きたときには武装して幕府を守ると半農の「八王子千人隊」というものが結成されていて、地民達は「他の土地は殿様がいて、その上に幕府があるが、我らは幕府直轄の民だ」と誇りを持っていたそうです。
土方家もその流れから、農民でありながら隠し姓の「土方」というものを持っていました。
そのために歳三は子供の時に「いつか武士になる」と、家に矢竹(弓矢の矢を作って竹)を植えるなど、武士に対して憬れがありました。
余談ですが、竹といえば皆さんご存知の正月の門松は、竹が切れた形ですよね。
これは「竹(武田家)を斬る」という意味で、武田信玄に散々苦しめられた徳川家康の考えからできたもので、歳三が育った多摩は武田家の旧領地だったために、現在も竹は切られず門に飾られています。
少年・歳三は初の奉公先から逃げ帰った
歳三が11歳の時に、いとう松坂屋(現在の松坂屋上野店)に丁稚奉公にあがります。
松坂屋は格式が高く、奉公人も素性のしっかりした者しか受け入れませんでしたので、土方家が農家とはいえ「お大尽」と呼ばれていただけに受け入れられることのできた家だったことがわかります。
松坂屋に奉公にあがると5年は家に帰ることができない決まりがあり、歳三は丁稚の仕事である煙草盆や大八車の掃除を毎日していたことでしょう。
松坂屋(歌川広重) 上野松坂屋Webサイトより
どのくらいの期間を勤めていたのか不明ですが、些細なことから番頭に叱られて殴られます。
口論となりますが店の番頭と丁稚小僧では話になりません、夕方に店を勝手に飛び出して日野の実家へ徒歩で帰ってしまってました。
上野から日野までの距離は40㎞も離れていて、夜中も歩き続けて帰ったことになります。
兄たちに怒られて帰るように言われますが、がんと聞かずに丁稚奉公は終わってしまいました。
青年の歳三は奉公先で女性問題を起した
青年となった歳三を兄たちはまた松坂屋に頼み込んで、今度は上野の支店にあたる大伝馬町で綿花、綿糸、綿布を扱う木綿問屋亀店(かめだな)に奉公させます。
東都大伝馬街繁栄之図(歌川広重)上野松坂屋Webサイトより
さすがに今回は真面目に勤めて、このとき覚えたのか後に近所の人からも「トシさんは物差しを使うがうまい」と噂されるほどになります。
ところが、残っている写真でもわかるようにイケメンですので女性達がほっとくけがありません。
年上の女中さんと男女の仲になり妊娠させてしまったのでした。
困った歳三は兄たちに相談し別れさせられて、店を辞めることになったのでした。
近年には「本当に奉公に行ったのか?」と話が出てきていますが、当の松坂屋では社史に歳三の名前を載せて、ホームページでも「松坂屋ゆかりの人」として紹介しています。
歳三は道場破りしながら薬を売っていた
歳三は子供の頃から「バラガキ」と呼ばれていました。
バラガキというのは、触ると痛いイバラのような乱暴な少年という意味で、きれいな顔をしているのに一筋縄ではないガキ大将だったようです。
さて、多摩に帰った歳三は土方家伝の薬である「石田散薬」と、従兄であり姉ののぶに嫁いでいる日野宿名主の佐藤彦五郎家の家伝である「虚労散薬」を持って行商を始めました。
(C)橋本エイジ・梅村真也/ NSP 2010 /ちるらん新作組鎮魂歌(ゼノンコミック)
主に武州各地・甲州の顧客回りでしたが、歳三は担ぐ薬箱に剣術道具をぶら下げて、色々な剣術道場をめぐって試合を申し込む(ほぼ道場破り)修行を重ねます。
勝っても負けても終わると骨接ぎ・打ち身・ねんざに効く石田散薬を売りつけていたそうで、一石二鳥だったようです。
歳三が使用していた薬箱
土方家の家紋は「左三つ巴」ですが、薬箱には商標が描かれています。
歳三が使っていたものが現存しており「土方歳三生館」で展示されています。
石田散薬製造ツール 左上が薬箱
土方歳三生家の資料館より
土方家家伝石田散薬
石田散薬の原料は多摩川・浅川などに野生する「牛革草(みそそば)」と草で、土用の丑の日に採り、陰干し、黒焼きにして粉にしたものです。
服用するときは必ず酒で飲むというので人気があったようです。
逸話には土用の丑の日に村の人総出で採集しますので戦争のような騒ぎになるのを、歳三は子供の時から見事に指揮をとったといわれています。
新選組の常備薬となり、明治以降には新選組と縁があった初代大日本帝国陸軍軍医総監の松本良順(順)男爵が陸軍の常備薬として採用しています。
薬事法が変わる第二次世界大戦で製造されていましたが、現在は年に一度、土方歳三資料館主催で「歳三生家で作ろう!石田散薬製造体験会」を開催されているそうです。
歳三が行商に使った薬箱
『新選組写真集』新人物往来社より
佐藤家家伝虚細散薬
佐藤家家伝のこの薬は、石田散薬と原料は同じですが、これは白湯で飲みます。
こちらも新選組の常備薬となりました。
肺病(結核)の薬とされていて、沖田総司が飲んだといわれています。
こちらは石田散薬のパッケージ
北多摩薬剤師会 新撰組と薬剤師 石田散薬の謎より
歳三は天然理心流の試衛館に入門した
歳三が常に出入りしていた佐藤彦五郎の家(日野宿本陣)には剣術道場がありました。
彦五郎は火事が起きたときに命を狙われたことがあって、八王子千人隊の世話役をしていた井上源三郎の兄である井上松五郎に勧められて実戦的な「天然理心流」に入門して道場を作ったのです。
外国との通商条約が結ばれて以来、多摩地方の絹は高値で売れることから強盗などが出没していたこともあり、村の人たちは自衛のためにも熱心に稽古に励んでいたといわれています。
それで歳三は、運命の出会いをします。
天然理心流の「試衛館」から指導に来ていた、近藤勇(こんどう いさみ)です。
近藤勇
国会図書館 近藤勇(拡大写真) | 近代日本人の肖像
よくドラマや漫画で幼なじみのように描かれているものが多いですが、実際の出会いはここです。
近藤勇と初めて道場で対決した時に歯が立たず、安政6年(1859)3月29日に正式入門しました。
文久元年(1861年)近藤勇が天然理心流4代目を継承します。
その記念に府中六所宮(現在の大国魂神社)で披露の紅白野試合が催され、歳三は紅組の大将を守る役で出場しました。
そのころに、ひとつの話が試衛館にもたらされました。
歳三は婚約者を待たせて浪士組参加を決めた
江戸の剣術道場に回覧された「将軍徳川家茂が上洛することとなり、将軍警護の浪士組を作ったので、腕に覚えがある者は参加するように」という内容でした。
これは尊王攘夷派の清河八郎となる人物が幕府に提唱したもので、尊皇攘夷の志がある者は犯罪者でも許されて参加でき、文武に優れた者は推薦する・腕が立てば身分を問わないという当時としては画期的な組織でした。
清河八郎
パブリック・ドメイン、Link
安政の大獄など不穏な空気に包まれている国内で「お国のために自分で何かができるかもしれない!」と気持ちが近藤にあり、歳三をはじめ沖田総司・井上源三郎の塾生と、試衛館に食客として居候していた山南敬助・永倉新八・原田佐之助、試衛館に出入りしていた伊東道場の藤堂平助と参加することになりました。
実は歳三には、戸塚村にある三味線屋の娘・琴という婚約者がいました。
三味線がうまく長唄は名取りで美人だったと評判の娘で、長唄をやっていた長兄の為次郎が気に入って歳三の嫁にと勧めていたのです。
しかし「お国のために自分ができることをしたい」と言う歳三の言葉で、琴は多摩で待っていることになりました。
小石川伝通院
by onething 、CC表示3.0、Link
文久3年(1863年)2月8日、小石川伝通院に集まった234名となった大所帯の浪士組は、将軍警護という名目のはずにもかかわらず中山道を別動隊として形で出発しました。
歳三 芹沢鴨と出逢う
近藤勇は隊列の先回りをして宿命をする役目をしていました。
その中で近藤は、2月9日の本庄宿というところで、尊皇攘夷運動で有名だった水戸藩天狗党の生き残りの剣豪で有名だった芹沢鴨(せりさわ かも)の部屋を取り損ねてしまうという大失敗をしてしまいました。
本庄宿
By渓斎英泉 –木曽路の六十九駅、パブリック・ドメイン、リンク
怒った芹沢は、仲間の新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助に命じて町のど真ん中で大きな焚き火をして「ここで野宿する」と言い出せます。
近藤は謝罪して事なきを得ましたが、これが芹沢との衝撃的な出会いでした。
2月23日浪士組は京都壬生村に到着し、各隊ごとに壬生村会所・寺・郷士宅(八木家、前川家、南部家など)へ分宿することになります。
歳三たちは浪士組ではなく壬生浪士組を結成した
壬生寺に着いた清河は、朝廷に浪士組全員の署名がされた建白書を提出しました。
浪士組は幕府を利用して尊皇攘夷の朝廷直轄の兵を作るのが目的だと思ったことがわかった近藤と歳三たちは、江戸へ帰るという清河の意見に反対し京にとまどって将軍を警護すると言い離脱します。
それに賛成したのが、なんと芹沢たちでした。
清河八郎と袂を分かった新徳寺
By Bokuchan20120524 [CC BY-SA 3.0], from Wikimedia Commons
しかし頼るものがなく途方に暮れていた歳三たちを救ったのは、浪士組の監視で来ていた旗本の佐々木只三郎でした。
佐々木は会津藩士の家に生まれましたが親族である旗本の佐々木家に養子に入っていたので、京都守護職に任命されていた会津藩にパイプがあり、かけあってくれて「お預かり」にしてくれたのです。
ここに新選組の前身である「壬生(みぶ)浪士組」が誕生しました。
新選組! (11〜15話)の感想絵です。意気揚々と上京するも浪士組は解散、壬生浪士組として京に残ることを決意した勇たち。総司が新見に咄嗟に刀を突き立てるシーンがかっこよすぎました!舞台を京へ移してから物語が加速度的に面白い!#新選組 pic.twitter.com/LPTSutnrqf
— KEI-CO (@keico) 2016年6月18日
大河ドラマ『新選組!』以外では、試衛员と芹沢一派だけしか残らなかったようにされていますが(清河に対して残存の意向を示したのは近藤・芹沢たち13人だった)、他に殿内・家里・根岸一派などが合流して、総勢24人での発足でした。
屯所は、浪士組で宿として割り当てられていた八木家と隣の前川家となりました。
壬生浪士組は、近藤・芹沢・芹沢の腹心である新見錦の3人が局長となり、副長には歳三と試験館メンバーの山南敬助がなりました。
さっそく内部でゴタゴタがあり、殿内・家里・根岸一派の8人は暗殺・切腹・逃亡・脱隊と壊滅しました。
歳三たちは芹沢鴨を粛清した
局長筆頭となった芹沢という人物は、常に酒を飲んでいてシラフの時はなかったといわれ、手には「尽忠報国の士芹澤鴨」と刻まれた鉄扇を常に持っていたといわれています。
八月十八日の政変には御所の警備のために壬生浪士組にも出動が命じられましたが、御門を守っていた会津藩士たちが壬生浪士を知らなかったため槍を構えて通らせなかったのを、芹沢が笑いながら鉄扇で槍先を払ったということがあり、豪傑だともわれていました。(会津藩の上役が来て事なきを得ました)
しかし芹沢は大阪に不逞浪士を取り締まりに行った時に力士と「道を譲れ」と口論になり、暴行を加えたために斬り合いになったり、酒乱で暴れて島原の角屋に勝手に営業停止を申し立てたり、大店をまわって金を調達してしています。
大和屋に大砲を撃ち込んで放火した話は有名ですが、現在は否定されているようです。
このように暴漢として有名ですが、八木家から借りた火鉢に刀傷があったので問い詰めたら頭をかいて逃げたり、八木家の葬儀の時は近藤勇と一緒に帳場に立ったり、暇潰しに面白い絵を子供たちに描いてやったりと、憎めないところもあったようです。
金の調達については、徐々に増えていく隊士たちの給金や隊の維持費など、会津藩からのお金や多摩の人たちの援助だけでは足らず、芹沢達が店を回ってやったという話もあります。
会津藩に色々な所から苦情が届き、歳三たちは芹沢一派を粛清することにします。
歳三らが芹沢鴨を襲撃する
文久3年(1863年)9月16日、角屋で芸妓全揚げの大宴会が催されて、芹沢と平山五郎・平間重助(新見錦はすでに切腹)は歳三と一緒に先に八木家へ帰り、宴会をして連れていた女性達と寝てしました。
その夜、歳三と沖田たち(一緒にいたのは山南敬助や藤堂平助や原田佐之助などと証言はバラバラ)は芹沢の寝ている部屋に押し込み、平山を殺害して芹沢に斬りつけます。(平間は逃げました)
驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとしますができず、真っ裸のまま八木家の親子は寝ていた隣室に飛び込んで文机につまずいて転び、刺客たちはそこを斬りつけました。(とばっちりで八木家の息子がケガをしました)
平山と平間のふたりと一緒にいた女性達は逃げましたが、芹沢と一緒にいたお梅という女性は亡くなりました。
芹沢一派の野口健司は、その時に現場にはなかったので命拾いしましたが後に切腹となります。
葬式は「自分たちが殺しておきながら涙ながらに挨拶をする近藤勇がおかしかった」と八木家に残っている日記に書かれています。
歳三は芹沢のことをどう思っていたのでしょうか?
近藤をトップにするための邪魔者だと思っていたのでしょうか? はたまた近藤勇がトップになった時に、今までの壬生浪士組の黒歴史を全部被って逝ってもらうつもりだったのでしょうか?
芹沢も和歌を詠んだりしていましたので、違う所で出逢っていた意外と気があったかもしれません。
芹沢の154回忌法要(2016年9月)には、歳三の子孫である土方家が招かれて参列したそうです。
歳三は新選組の副長となった
壬生浪士組は八月十八日の政変の功労として「新選組」という名前を賜ります。
朝廷から武家伝奏としてついた説と、松平容保から会津藩主本陣の警備部隊名としてもらったという2つの説があります。
作者 Washiucho [Public domain], ウィキメディア・コモンズより
局長は近藤勇、総長に山南敬助、副長に歳三、幹部には歳三と一緒に江戸から来たメンバーが中心となりました。
隊の仕事は壬生浪士組の時と同じく、市中の巡察と警備・不逞浪士や攘夷志士たちの探索と捕縛・反乱の制圧・VIPの警護です。
新選組の隊服
新選組と聞いたら誰でも思い浮かぶ有名な隊服と旗は、芹沢鴨が大坂の両替商平野屋五兵衛に100両をさせて大丸でこらえたようです。
余談ですが、家人が大丸で働くことになった時に研修で「大丸は、かの有名な新選組の隊服を作りました由緒ある店です」と説明されて、目が飛び出しそうになったと言っていました。
現在大丸は、歳三が奉公していた松坂屋と提携をしていて、時代の流れというものはおもしろいですね。
しかし、みんな着ていたのは最初の頃だけで「ダサイ」とだんだん着なくなってしまったと話が残っています。
さて新選組には、入隊資格があります。
年齢や身分によって制限はない、尽忠報国の志がある健康な人であれば入隊できましたので、武士になりたいと思う色々な人達が集まってきます。
既婚者は妻や子を屯所から10里以上離れた場所に住まわせることが条件で、幹部になれば京に家を持って妻子や愛人を迎えることが許されます。(基本は全員屯所内合宿)
ただ入隊後しばらくは試用期間があって、夜中に先輩隊士が襲撃するということをして度胸が試され、臆病な真似をしたら追い出されたそうです。
土方歳三は局中法度という厳しい掟を作った
腕が立つとはいえ、身分はバラバラで烏合の衆の集りですので、歳三は少年時代から差配する能力がありましたので、規律である「局中法度」を考えます。
一、士道ニ背キ間敷事(武士道に背く行為をしてはならない)
一、局ヲ脱スルヲ不許(新撰組からの脱退は許されない)
一、勝手ニ金策致不可(無断で借金をしてはならない)
一、勝手ニ訴訟取扱不可(無断で訴訟に関係してはならない)
一、私ノ闘争ヲ不許(個人的な争いをしてはならない)右条々相背候者切腹申付ベク候也(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡す)
身分がバラバラであるからこそ、自らの少年時代からいだいていた武士になりたいという夢を重ねて「俺たちは武士よりも武士らしくなるんだ」という気持ちがこもった規律だと思います。
それで違反した者の最期は「武士として名誉」となる切腹になるのです。
歳三は鬼の副長と呼ばれるようになった
しかし武士よりも武士らしくという願いも届かずに違反する者がいて、隊士の死亡原因1位は局中法度違反で切腹させられた数と記録にあります。
歳三は「なんでこんな簡単なことが守れないんだ」と憤慨していたかもしれませんが、幹部にですら罰則を執行する厳しさに「鬼の副長」と言う仇名をつけられ、恐れられるようになりました。
あまりの厳しさに脱走した者は切腹、または惨殺してみせしめということもしています。
鬼と呼ばれた歳三ですが、すべてを切腹とかいうことではなく、五番隊組長の武田観柳斎にセクハラされた馬越三郎が歳三に訴えて除隊したと話があったり、ケガや病気とかで隊務ができなくなった隊士や、事情によっては除隊を許していたという話があります。
歳三は監察方に隊士達の動向も見張るように命じたという話があり、監察方にとっては不逞浪士たちだけでも大変なことで面倒なことだったと思いますが、その甲斐があって新選組に潜入していた長州藩のスパイがあぶりだされて何人か処断されています。
そんな鬼の様相ながら、多摩の人たちに対しては相変わらずのようで「みなさんにめったに見られないような、ありがたい物をお送りします」といって、祇園や島原の芸者や舞妓や遊女たちからもらった大量のラブレターを見せびらかしています。
「待たせたな!」池田屋事件での土方歳三
ほとんど知られていなかった新選組が、全国的に一躍有名になった池田屋事件が起きます。
それは元治元年6月5日、西暦でいえば1864年7月8日、京は祇園祭期間の真っ只中のことでした。
尊王攘夷の志士を拷問して計画を知る
古高俊太郎という攘夷志士が福岡藩御用人の枡屋(炭屋)という店で枡屋喜右衛門と名乗っているのを、監察方が5月下旬に発見して監視していました。
古高俊太郎屋敷跡
クリスGladis / MShadesことで-https://www.flickr.com/photos/mshades/122607182/、CC 2.0表示、リンク
6月5日、枡屋に家宅捜索に入り武器弾薬・長州藩との手紙などがあるのを見つけ、古高を捕縛して屯所の前川家に連行します。
拷問をしても黙秘を続けるのに業を煮やした歳三らが、蔵の中で逆さに吊して足の甲に五寸釘を打ち、そこにロウソクをたてて火をつけるというすさまじい拷問をします。
古高はついて耐えかねて「祇園祭り前の風の強い日に御所に放火をして、そのパニックに便乗して公武派の中川宮を幽閉する。そして一橋慶喜や松平容保を暗殺して、孝明天皇を長州に連れて行く」という計画を自白しました。
すぐに京都守護職に報告します。
そこに監察方が「尊皇攘夷派たちが池田屋か四国屋で、古高を奪回するために新選組を襲撃するか否か相談する」という情報を持ってきました。
新選組はバラバラになって集合場所に集まり、前もって運んでいた装具を身につけて会津や桑名の応援を待ちますが、会議などで遅れているのか時間に来ないので機を逸さぬよう出動します。
二手に分かれ、近藤組は池田屋へ、歳三組は四国屋に向います。
近藤組は鴨川の西側に行き、四条から三条に木屋町通りを北上して念のために一軒ずつ探索を始め、歳三の組は東側をしらみつぶしに探します。
新選組が池田屋に突入する!
池田屋古写真
『新選組写真集』新人物往来社より
集まっていた20数名の相手に近藤・沖田・永倉・藤堂の4名が斬り込んで、残りは外へ逃げないようにまわりを固め、真夜中の乱闘となりました。
ところが沖田は結核の喀血により倒れて戦闘不能になり、藤堂は汗のため鉢金(額を守る金属製の防具)をとったところを斬られて血が目に入り戦線離脱をしてしまい、戦っているのは近藤と永倉だけとなりました。
しかし相手は暗闇も幸いして2人とは思わず戦いながら逃げた者もいます。
歳三が「待たせたな!」(by大河ドラマ『新選組!』)と到着し、それまでは「斬り捨て」だった命令が「捕縛」へと変わりました。(新選組は原則としては捕縛をし、相手がこちらより大人数の時だけ斬るというシステムになっています)
やっとのことで会津藩と桑名藩が到着しましたが、歳三が「後から来て手柄を横取りするのは許さない」と一歩も近づかせませんでした。
結果は池田屋内では吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵ら9人を討ち取り4人を捕縛し、翌日には逃げた20数名が捕縛されました。
取り逃したので有名な長州尊王攘夷派の大物の桂小五郎は「池田屋に行きましたが、誰もいなかったので対馬藩邸に行ったが騒ぎを知り池田屋に駆けつけようとした引き留められた」と言ってますが、京の長州藩留守役の乃美織江が「池田屋から屋根伝道に逃げて対馬藩邸に入った」と書いています。
【図解・池田屋事件】というサイトでは池田屋事件の仔細を見取り図や古写真を元に検証しているので、興味のある方にはぜひおススメします。
幕末の時代背景と池田屋の関連性を書いた【幕末のターニングポイント「池田屋事件」が起きた原因と残したもの】という拙文もありますので、あわせて読んでいただけたら嬉しいです。
新選組は幕府より報奨金をもらった
今までは会津藩より報奨金をもらったとわれていましたが、国立公文書館内閣文庫に松平容保が老中水野忠精はじめとした4名に報奨金のお礼を出した手紙の写しが残っていたことから、実際は幕府からもらったということでした。
一筆啓上致し候。
公方様益御機嫌能く御座なされ、恐悦奉り候。
然れば六月六日浮浪の徒洛内え聚屯容易ならざる企てこれ有り候節、新撰組の者共召し捕り方抜群相働き鎮静に及び候段、常々申し付け方行き届き、兼々忠勇義烈の志厚く 帝都御警衛手厚に心得、一際奮発相働き候に付き、新身料・別段金子それぞれ下し置かれ、猶この上いよいよ忠勤相励み候様申し渡すべき旨仰せ出だ有り難き仕合せ存じ奉り候。
右御礼申し上ぐべきため飛札を呈し候。
恐惶謹言。
この報奨金は新選組だけではなく会津藩と京都所司代(桑名藩)にも出されていたと残っています。
この事件で司馬遼太郎先生は「維新が4年遅れた」と書かれていますが、かえって早くなったのはないかともわれています。
歳三と山南敬助との関係は悪かった?
副長の土方歳三と、総長の山南敬助。
小説やドラマなどでは二人の仲は悪かったとされていますが、歳三の俳句に「水の北山の南や春の月」というのがあり、これは「見たこともない北の国から来た山南さんは春の月のような人だ」という意味です。好きな春の月という単語が入っていることから、本当は大河ドラマ『新選組!』のように仲が良かったのだろうと思われます。
土方歳三と山南敬助 NHK『新選組!』より
壬生浪士組の時は共に戦い、芹沢暗殺の時には一緒に加わったりではないかといわれていますが、新選組総長という地位になってから、山南の活動記録は残っていません。
歳三にしてみたら自分が鬼として怖がられるのに対して、山南は皆の相談役として慕ってもらい、ふたりで「飴と鞭」という役割をしていたのかもしません。
山南はなぜ脱走したのか
そんなふたりは決別し、山南は新選組から脱走することになります。
その原因と思うものが3つあります。
山南敬助の墓
『新選組写真集』新人物往来社より
ひとつは、池田屋事件です。
その日新選組では食中毒が流行していた話があり(永倉新八は山南も具合が悪く伏せていたと書いています)中には仮病で攘夷志士たちは知らせに行く者もいるかしないなということから、留守居役(見張り)をしていたという話があります。
池田屋事件で報奨金が出た時に配分を指揮していたのは歳三で、出動しなかった者達だけだけでなく山南にも報奨金は渡しませんでしたので、ふたりの間に溝ができたのではないかと言われています。
ふたつめは、伊東甲子太郎の参入です。
近藤に藤堂が師匠の伊東と出会われた縁で新選組に入れることとなり、山南の上の「参謀」となる地位になったために、居場所がなくなってしまいました。
みっつめは、屯所の移転です。
池田屋の評判から一気に入隊希望が増えて、総勢200人以上になった新選組は、八木家と前川家だけでは狭くなり無理となってしまいました。
それで目をつけたのは「西本願寺」です。
西本願寺は昔から長州藩と縁が深く、新選組から追われた不逞浪士をかくまい僧に化けさせて京から逃がすことをしていましたので監視も含めて計画したが、山南は猛然と反対にしましたが聞き入れられなかったので「江戸に帰る」と書き残して脱走したといわれています。
追っ手には、山南と仲が良かった沖田が選ばれました。
仲が良かった病気の沖田が来たからおとなしく帰るだろうとか、病気なのだから大津まで行って山南がいなかったら帰ってこいと沖田に言っていたとか色々な話がありますが、結果的には山南は沖田と一緒に帰ってきて切腹となってしまいました。
切腹の直前に一緒に逃げていた遊女の明里との涙の別れという話がドラマや小説でも有名ですが、永倉が連れてきたという話のわりには永倉の残した記事などには明里の名前がないことから、小説家・子母沢寛の創作ではないかといわれています。
山南が切腹前に恋人の明里と最後の別れをしたという旧前川邸の窓
写真AC
沖田は土方が江戸に帰るときに多摩の人に「山南さんが亡くなってしまいました。詳細は土方さんに聞いてください」という手紙を書いています。(多摩の人たちにも山南は好かれてましたので、歳三は困ったことだと思います)
山南のお墓があるのは光縁寺で、大河ドラマの時には観光バスなどが押しよせて法務ができないばかりか、墓を踏み荒らされて困ったとご住職が溜息をついておられました。
歳三は伊東甲子太郎を酔わせて襲撃した
新選組に伊東甲子太郎が入隊して以来、近藤は山南や土方の話も聞かず学識のある伊東ばかり重用していました。
しかし伊東は勤王思想が強く、新選組を尊皇攘夷の組織に洗脳しようとしたことがわかり、それがばれると慶応3年3月に「御陵衛士」という天皇のお墓を警護する組織を結成して脱退しました。
伊東甲子太郎
著 水塚霞ヶ浦 、CC表示 – 継承4.0、リンク
歳三は発足以来の同志である斉藤一をスパイとして潜入させて、内部の情報を得ることにしました。
11月に伊東たちが近藤を暗殺するという計画をしていると斉藤からもたらされ、歳三は「御陵衛士の屯所に大砲を撃ち込む!」と激怒しますが近藤に止められます。
近藤は伊東を呼び寄せて、散々持ち上げて気分よく泥酔させて、その帰り道を襲撃します。
そして伊東の死体を引取りに来た御陵衛士たちを油小路で待ち受けて討伐します。
江戸からの同志である藤堂も亡くなりました。
歳三は藤堂にわざと逃げ道をあけて逃がそうとしたところ、功を焦った隊士が斬りつけてしまったという事実か創作かはわからない逸話があります。
歳三は将軍の主治医・松本良順にべた褒めされた
将軍家奥医師(将軍の主治医)の松本良順という人は、順天堂を営む佐藤泰然の息子で、西洋医学所(後の東京大学医学部)の頭取でありながらバンカラな人で、新選組と関わりが強い人でした。
松本良順
良順東洋文化協会(東洋文化協会) – 日本の本「幕末・明治・大正回顧八十年史」(80年の記憶、幕末、明治、大正)、パブリックス・ドインイン、リンク
出会いは、近藤が斬りに行ったのが始まりと良順の『蘭疇自伝』に書かれています。
弟子達がビビって「逃げてください」と言うのを一喝して、近藤と堂々と対面して説教をしたところ近藤が惚れ込んだとありますので、まるで勝海舟を斬りに行って弟子になった坂本龍馬みたいな話ですね。
良順は京へ将軍のお供をした時に、西本願寺の屯所にやってきました。
新選組屯所となった西本願寺・太鼓楼
663highland、CC 2.5表示、リンク
良順が幹部や客が通るのに寝転がって挨拶もしない隊士達に「無礼だ」と怒ると、近藤が「病人なので許してください」と答えたので健康診断がはじまりました。
普通ならば、将軍の主治医が新選組の診察など作り話のように思いますが事実です。
約200人の隊士のうち3人に1人が感冒や梅毒を患っている病人で、結核が1人というので沖田のことでしょう。
屯所を見回って「病室をもうけ、病人を隔離する」ことをアドバイスします。
台所を見れば残飯があふれかえっていて不衛生なので「豚やニワトリを飼って残飯をエサにして育て、育ったら隊士に食べさせろ」とアドバイスをします。(隊士達は最初はドン引きしましたが美味しいので「良順先生からの贈り物」と喜んで食べたそうです)
さらに「衛生のために入浴設備が必要だ」と言うと、歳三は即座に西本願寺に掛け合って風呂桶を調理し浴場を設置しました。
健康診断が終わると全てできあがっていたことに驚いた良順に、歳三が「兵は速を尊ぶとはこのことがなるべし」と答えたことで「歳三は鋭敏沈勇、百事を払い雷の如し。近藤に間違いがないのは歳三のおかげだ」と、ベタホメしています。
良順はその後仙台まで旧幕府軍と同行しますが、脚気で動けないようになり、それでも北海道まで一緒に行くと言い張るので、歳三が「先生のことは親だと思っているので、ここで降伏されて身体を大事にしてください」と涙ながらに訴えたので諦めたと『蘭龍自伝』に書かれています。
戊辰戦争① 歳三は「鳥羽伏見の戦い」の大敗で時代の変化を感じた
西本願寺は、捕縛されている浪人の拷問の叫び声や、隊士達の切腹の声や、豚やニワトリを屠殺する声などに耐えかねて「お金は出しますから出て行ってください」と新選組に言い、不動村に屯所を作ってくれました。
不動村新選組屯所(現・リーガルホテル京都/建物・姫路市亀山本徳寺)
『新選組写真集』新人物往来社より
しかしそこにいた期間は短く、慶応4年(1868年)1月3日、戊辰戦争の始まりである「鳥羽伏見の戦い」がはじまりました。
すでに大政奉還が行なわれて政権を朝廷に奉じたために徳川幕府という組織は終わっていましたが、それは最後の将軍徳川慶喜は「どうせ朝廷にはなにもできないだろう」との画策でしたが薩摩長州の思うつぼとなり、徹底的に徳川幕府を潰そうとする戦争となったのです。
新選組は、墨染という場所で御陵衛士の生き残りに狙撃されて重傷を負った近藤にかわって、歳三が指揮を行うことになりました。
それまでに歳三は古来の戦術ではダメだと西洋軍備と訓練を始めていたのですが、実践には間に合わなかったのでした。
軽装で強力な西洋軍備を整え、天皇の兵隊だという印の「錦の御旗(天王の許可なく勝手に作ったものともいわれている)」を掲げた新政府軍に、幕府軍は大敗をして試衛館の兄弟子である井上源三郎をはじめ数多くの隊士たちが亡くなりました。
江戸城に登城した歳三は「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし(もう剣や槍の時代じゃない)」と言いました。
戊辰戦争② 歳三は菜っ葉隊に援軍要請を試みた
江戸に帰った歳三ら幕臣を待っていたのは、朝敵(天皇の敵)になりたくないと、自ら謹慎してしまった将軍徳川慶喜と、事態の収拾を全権まかされていた陸軍総裁の勝海舟でした。
勝海舟は、江戸を戦場としないように江戸城無血開城を画策していましたので、最期まで戦うという抗戦派を江戸から追い出しにかかっていました。
会津藩主松平容保を会津に謹慎させ、近藤に甲州を鎮撫するようにと命じました。
新選組は「甲陽鎮撫隊」と名前を変えて(正式名としては残っていない)、松本良順の紹介で関東一円に子分をもつ浅草の弾左衛門の協力も得て約200名を従え、大砲2門・小銃500挺・軍金5000両という勝海舟からの大盤振る舞いの隊列を組んで出撃しました。
甲州勝沼の戦い
パブリック・ドインイン、Link
途中には故郷の多摩があり大歓迎を受けるなど進軍が遅れ、目指していた甲府城はタッチの差で板垣退助率いる新政府軍に取られてしまいました。
3月6日、勝沼で戦闘となり、戦力武力に劣る新入りの隊士などは戦死したり逃げ出します。
このままでは全滅すると思った歳三は、神奈川の菜っ葉隊(軍服が緑色だったので菜っ葉隊とよばれた)へ応援を頼みに馬を走らせましたが断られ、戻った時には勝敗はついていました。
江戸に命からがら戻った新選組は、会津に行くと言う意見と、このまま江戸で戦うように意見に分かれ、近藤が「家来として言うことを聞け」と言ったので、江戸出発以来の同志だった永倉と原田が「家来になったつもりはない」と怒って離脱しました。
戊辰戦争③ 歳三は死に向かう近藤勇を救おうとした
会津に向かう歳三たちは、千葉の流山の醸造家長岡屋で、まず隊を立て直すために陣をはります。
余談ですが、流山がある地方は味噌の生産で有名でしたが「怖い人たちが来た」と蔵を放って避難してしまったために、新選組が去った後に蔵へ戻ると味噌から醤油ができていて、それが美味だったので醤油で有名になったと逸話があります。
近藤勇陣屋跡
千葉県流山市Link
4月3日、斉藤一を中心に大半が軍事調練に出かけていた留守の時に、新選組がいるという情報を得た新政府軍が本陣を取り囲みます。
近藤は「幕臣の大久保大和」と名乗りましたが見破られており、腹を切ると言うところを歳三が「最後までしらばっくれろ」と言ったので投降しました。
しかし板橋宿本陣で御陵衛士の生き残りと顔合わせをさせられて、4月25日に板橋刑場で切腹ではなく斬首にされてしまいました。
永倉新八が建てた近藤勇の墓(横に隊士たちの供養塔と永倉新八の墓がある)
東京都板橋区 リンク
刑が執行される前に歳三は新選組を斉藤に託して会津へと向かわせ、自分は勝海舟のとこなどに行き新政府への助命嘆願を頼みましたが断られています。
勝海舟は妹が佐久間象山に嫁いでいて、佐久間象山が暗殺され息子が敵討ちするためにと新選組に預けて客分にしてもらったという話が残っていますので、直談判できたのだと思います。
戊辰戦争④ 歳三は宇都宮から会津へ転戦した
新選組発足からの隊士である島田魁など数名の隊士を連れて来ていた歳三は、近藤の助命嘆願ができなかったこともあり大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流しました。
4月11日、江戸開城が成立すると同時に旧幕府軍と共に江戸を脱出して、歳三は秋月登之助が率いる先鋒軍の参謀となります。
宇都宮城古地図
パブリック・ドメイン、リンク
先鋒隊を指揮して転戦し、難しい不落とわれている宇都宮城を陥落させましたが、再び起きた宇都宮城攻防の戦闘で銃弾を足に受けて会津へ護送されました。
しばらく会津の傷によく効くという東山温泉で3ヶ月療養したということから、かなりの重傷だったのだと思います。
この治養中に、歳三は松平容保の許しを得て天寧寺に近藤の墓を建てます。(かなり山の中腹にあります。登るのを断念していたらご近所の方が親切にも車で連れて行ってくれました。会津の人は情が深いです)
近藤勇の墓
墓の中に葬られたのは、歳三に命じられ斉藤一が京で晒し首になっていた近藤の首を持ち帰ったものとも、遺髪だっともいわれています。
戦線に復帰した歳三は精力的に戦いに参加して、白虎隊とも交流があったといわれています。(乗馬したまま城内に入ろうとして「ならぬものはならぬのです」と言われたという逸話があります)
江戸城が無血開城となり、徳川憎しの行き場がなくなっていた新政府軍は、その振り上げた拳の落としどころの矛先を京都守護職だった会津と定めて総攻撃をしてきました。
旗色が悪くなってきた会津を救うため、歳三は援軍を頼みに江戸市中取り締まりをしていて新政府軍から狙われていた庄内藩へ行きますが拒否されて仙台へと向いました。(ここで新選組は「最後まで会津に忠誠を誓う」と言った斉藤一の隊と、歳三の隊とに分かれます)
その間に会津はおちてしまい、生き残った隊士たちと仙台で合流します。(斉藤は戦闘で大ケガをして、そのまま会津に残りました)
戊辰戦争⑤ 歳三は榎本武揚と蝦夷地へと向かった
1868年5月6日に、仙台藩と米沢藩を中心とした陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)・越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主として、会津藩と庄内藩を朝敵という汚名を赦免してもらおうと結束された「奥羽列藩同盟」というものができていました。
しかし、それは断念しなければならなくなり、次に薩長中心の新政府の圧力に対抗するために輪王寺宮を帝とする新政権を打ち立てようとしていました。
戦国武将で有名な伊達家と上杉家が総督というのですから、聞いただけでもなんだか興奮してしまいそうですので旧幕臣などはさぞかし心強かったのではないでしょうか。
そこで歳三は、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流して軍議に参加しています。
奥羽越列藩同盟旗
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しかし新政府の攻撃によって、奥羽列藩同盟は脱落したり裏切ったりで瓦解してしまいました。
歳三は「戦う場所があるならば、どこまででも戦う」と、榎本武揚の海軍と共に新選組の生き残りと桑名藩の藩士(桑名藩の藩主は松平容保の実弟で京都所司代をしていた)を率いて仙台折浜(現在の宮城県石巻市折浜)から出航したのでした。
戊辰戦争⑥ 歳三は箱館戦争で奮戦した
10月20日、蝦夷地鷲ノ木に上陸。
目指す五稜郭へは二手に分かれ、歳三は間道軍の総督となります。
新選組は大鳥圭介総督について本道を進みましたが、常にそばにいた島田魁ら数名は歳三のそばにいました。
五稜郭
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箱館・五稜郭を占領した後に、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍し松前城を陥落させて、江差まで追撃します。
榎本は土方軍を海から援護するため軍艦「開陽丸」で江差沖へ向って暴風雨で座礁してしまいました。(榎本と沈む開陽丸を見つめながら嘆いたという「嘆きの松」というのがあります)
「蝦夷共和国」が発足し総裁は榎本武揚となり、歳三幹部のは陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねます。
その頃には鬼の副長の仮面は取り、隊士達からは「母親を慕う子供のよう」に慕われていたといわれます。
1869年3月、幕府がアメリカに注文していた甲鉄艦が新政府のものとなったという話がきて、歳三たちは奪還するために宮古湾へ攻め込みますが不備に終り、たくさんの戦死者が出ました。
4月9日、新政府が上陸し戦闘になります。
二股口古戦場跡
『新選組写真集』新人物往来社より
歳三は二股口に陣を張り兵士たちに酒を振る舞うなどして意気を上げさせて連勝を続けますが、勝っているのは歳三たちだけで、他は敗戦続きとなっていて松前口が破られたという知らせがきたため退路を絶たれる危険があると撤退しました。(ガセネタだと着いてから知る)
戊辰戦争⑦ 土方歳三は新政府軍の総攻撃のときに亡くなった
5月11日、突如として新政府軍が箱館に総攻撃をはじめ、弁天台場に取り残された島田たち新選組が包囲されて孤立していたために、わずかな兵を率いて救出に向います。
箱館戦争
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新政府の軍艦の朝陽が味方の軍艦によって撃沈したのを見て「この機を逃すな」と兵を鼓舞して進撃して、七重浜から攻めてきた新政府軍と一本木関門あたりで戦闘となります。
歳三は「逃げる者は斬る!」と大喝しながら馬上で指揮をしていた時、一発の銃弾が歳三を撃ち抜きます。
落馬した歳三に、陸軍奉行添役の大野右仲が駆け寄りましたが、すでに亡くなっていたのでした。
乱戦中の流れ弾とも狙われたともいうのが定説ですが、降伏をひとり反対していた歳三を味方が暗殺したのではないかという説もあります。
歳三の遺体は小柴長之助らに引き取られて、他の戦死者と共に五稜郭の松の木の下に埋葬されたとも、称名寺など別の場所に安置されたとも言われて場所は特定されていません。
土方歳三最期の地碑
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歳三の戦死を聞いた榎本武揚は自刃しようしますが大鳥圭介らに止められて、最後の決戦を挑みますがそれもかなわず6日後に降伏してしまいました。
戒名は「歳進院誠山義豊大居士」「広長院釈義操」「有統院鉄心日現居士」と3つのお寺から授与されています。(土方家の仏壇には「歳進院誠山義豊大居士」のお位牌がありました)
現在、歳三が銃弾に倒れたという一本木関門跡のそばにある若松緑地公園に「土方歳三最期の地碑」が建っていますが、以前は車道のグリーンベルトのところにあり観光客や歳三ファンが押し寄せてくるために危険だと移転されたものです。
以下、歳三を慕った人や縁者たちの建てた代表的な墓や供養碑を紹介します。
- 東京都日野市石田「石田寺(せきでんじ)」←土方家の菩提寺で日野高校の隣
- 北海道函館市船見町「称名寺」(慰霊碑)←箱館戦争で戦死した人たちの墓があります
- 北海道函館市函館山「碧血碑(へきけつひ)」←箱館戦争で戦死した人たちを弔っています
- 福島県会津若松市東山町「天寧寺」(慰霊木碑)←近藤勇の墓の隣
- 東京都北区滝野川「寿徳寺」←永倉新八が建てた供養碑
- 東京都荒川区南千住「円通寺」← 遺体を運んだ小柴長之助の墓があり、戦死者の供養碑がある
- 東京都日野市高幡「高幡不動尊(殉節両雄之碑)」←近藤と土方の供養碑(篆書は旧会津藩主松平容保・撰文は旧仙台藩の儒者大槻磐渓・書は旧幕府典医頭松本良順)
土方歳三 俳句と和歌と漢詩
俳句というと江戸にいた時代に作ったという「豊玉発句集」というものが残っていますが、他にも和歌や漢詩も残っています。
歳三はまさか句集がブックカバーになって発売されるとは思いもよらなかったでしょうね。
俳句
梅の花と春の月がお好きなようですが、これは春に詠んだのをまとめたといえます。
- 差し向かう心は清き水・おもしろき夜着の列や今朝の雪
- しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道→しれば迷いしらねば迷ふ法の道(〇をつけて法に変)
- 裏表なきは君子の扇かな・手のひらを硯にやせん春の山
- 白牡丹月夜月夜に染めてほし・願うことあるかも知らす火取虫
- 春の夜はむつかしからぬ噺かな・三日月の水の底照る春の雨
- 水の北山の南や春の月(山南敬助を詠んだといわれているものです)
- 春の草五色までは覚えけり
- 梅の花一輪咲てもうめはうめ(一番ネタにされているものですね)
- 山門を見こして見ゆる春の月・大切な雪は解けけり松の庭
- うくひすやはたきの音もつひやめる・(井伊公)ふりなからきゆる雪あり上巳こそ
- 公用に出て行みちや春の月・あはら屋に寝て居てさむし春の月
よくドラマなどで取り上げられている(たいがいは沖田にからかわれている)ものを紹介しました。なんとなく可愛いものが多いですね。
本当に「春の月」が多いのですが、春に詠んだのを集めていたのでしょうか?
歳三の死を悼んで作られた、義兄の佐藤彦五郎さんの俳句。
「待つ甲斐もなくて消えけり梅雨の月」
和歌
浪士組に入って中山道を通っていた時に作ったという「木曽八景」というものが残っています。
- 山寺は外ともわかず程遠きふもとに響く入り相の鐘(徳音寺の晩鐘)
- 嵐布くゆふべの雲の絶まよりみた気の雪そ空にさむけき(御嶽暮雪)
- たちわたる あしたのくもも色淡き かすみにこもる木曽のかけはし(掛橋の朝霞)
- 閑利末く羅 弥さめのとこの山嵐もあめになりゆく 夜半のさみしさ(寝覚めの夜雨)
- 明わた流ひかりもみえ亭風越の高根はれ遊くよるのうき久毛(風越の晴嵐)
- こまのたけはるる夕日にみる雪の飛かりもさむく 満かふしらくも(駒ケ岳の夕照)
- 志ろたえにみ類ひとすじは手都くりのそれとまがふをのの瀧つせ(小野の瀑布)
- あかずみむよかはの那みにす無月のか気もちりなむ阿気の屋万美津(横川の秋月)
俳句は司馬遼太郎先生の小説のせいでネタのようにされてますが、和歌はなかなかだと思います。
漢詩
多摩の橋本通助宅に男の子が生まれた時のお祝いの詩だそうです。
才名徳望重宇裏 梅樹竹林白歳間 丈夫気絶応如此 独鶴高翔萬仭山 賀橋本君生一子
(意味:才有り徳高く天下に名を上げることは大変おめでたいことです。 男子の度量は、万仭山の頂をゆったりと飛翔している一羽の鶴のようであってほしいものですね)
榎本武揚が歳三のことを思い出して書いた漢詩。
「入室但清風」彼が部屋に入って来ると、まるで清々しい風が吹くようであった。
辞世の句
辞世の句として残っているのは3つあります。
- よしや身は蝦夷の島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ
- たとえ身は蝦夷の島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらん
この「君」とは誰なのか?という話がありますが、普通に考えたら徳川将軍なのでしょうが、松平容保公かもしれませんし、多摩の兄弟たち?とも言われているみたいです。
- 鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照かと
これは、死を覚悟している句ですね。
土方歳三の刀
「刀剣乱舞」というものから、刀剣女子といわれるファンが増えているようです。
和泉守兼定
歳三の刀としては一番有名ですね。
会津藩藩主の松平容保公から下賜されたものといわれています。
土方歳三資料館 蔵
箱館戦争の終末に、小姓の市村鉄之助がこの刀と写真と遺髪を持って多摩へ持って帰った逸話があり、土方歳三記念館では命日の日に公開されています。
大和守源秀國
戊辰戦争における鳥羽伏見の戦いをはじめとした各地で使用した、兼定に次ぐ有名な刀です。
霊山歴史館 Link
大和守源秀國は会津藩のお抱え刀工の作で、霊山資料館で一般公開されています。
葵紋越前康継
これは江戸初期の時代の刀で、容保公から下賜されたのを義兄の佐藤彦五郎に贈っています。
これは「佐藤彦五郎新選組資料館」で公開されています。
堀川国広
大刀は兼定、脇差しは堀川国広と有名ですが、実はこの堀川国広を所持していたというのは手紙に残されているだけで、本当に持っていたのかどうなのかは行方がわからないので不明だといいます。
「和泉守兼定と共に日野の親族の下に戻ったが太平洋戦争の最中に供出された」「太平洋戦争終結後、GHQによって持ち去られて海に投棄された」という俗説がありますが、土方歳三資料館には
「土方歳三の死後、日野に堀川国広という刀が戻ってきた記録は一切無い」とされています。

土方歳三を主人公とする作品
とてもファンが多い歳三ですので、小説やメディアなどに取り上げられているものが多いです。
全部を網羅するのは無理がありますので、代表的になものを紹介します。
ちなみに、新選組を題材としたものはもっとあります。
小説
- 司馬遼太郎『燃えよ剣』
- 大内美予子『土方歳三』
- 広瀬仁紀『土方歳三 散華』1982年 ISBN 4872701364
- 萩尾農『散華・土方歳三』1989年 ISBN 4829110686(『土方歳三 散華』ISBN 4404016174)
- 北原亞以子『歳三からの伝言』ISBN 4062748304
- 北原亞以子『暗闇から 土方歳三異聞』1995年 ISBN 440853241X
- 中場利一『バラガキ-土方歳三青春譜』 2000年 ISBN 4062738678 (ISBNは文庫版)
- 秋山香乃『歳三往きてまた』2002年 ISBN 4835537459
- 北方謙三『黒龍の柩』2002年 上 ISBN 4620106607 、下 ISBN 4620106615
- 池波正太郎『色』(短編集「炎の武士」収録)
- 吉岡平『火星の土方歳三』(朝日ソノラマ)2004年 ISBN 4257770341
- 江宮隆之『歳三奔る 新選組最後の戦い』『女たちの新選組 花期花会』
- 森雅裕『会津斬鉄風』『マンハッタン英雄未満』
- 辻真先『北辰挽歌 土方歳三 海に戦う』『土方歳三、参る! 幻説五稜郭』
- 杉山義法『五稜郭』
- 荒俣宏『新帝都物語 維新国生み篇』
- 長井彬『函館五稜郭の闇』
- 合田一道『五稜郭秘史 紅蓮のごとく』
- 早乙女貢『新選組斬人剣 小説・土方歳三』
- 村瀬彰吾『人間 土方歳三 新選組副長秘め語り』
- 松井永人『土方歳三 北海の剣』
- 長谷川つとむ『土方歳三見参』
- 富樫倫太郎『土方歳三』
- 富樫倫太郎『土方歳三 蝦夷血風録』三部作『箱館売ります(旧題『箱館売ります 幕末ガルトネル事件異聞』)』『松前の花(旧題『美姫血戦 松前パン屋事始異聞』)』『神威の矢(旧題『殺生石』)』)
- 童門冬二『土方歳三 物語と史蹟をたずねて』
- 木村伸一『土方歳三流転の剣』
- 星亮一『新選組副長 土方歳三』
- 森満喜子『新選組青春譜』
- 岳真也『土方歳三』
- 藤井邦夫『歳三の首』
- 遊馬佑『紅の肖像』
- 五十嵐貴久『相棒』
- 草森紳一『歳三の写真』
- 三好徹『土方歳三―戦士の賦』
- 吉井恵美子『ラストヒーロー 最後の武士』
- 柘植久慶『土方歳三の鬼謀』
- 井上進『回天の夢 小説土方歳三』
- 夢枕獏『ヤマンタカ 大菩薩峠血風録』
- 逢坂剛『アリゾナ無宿』『逆襲の地平線』『果てしなき追跡』
- 京極夏彦『ヒトごろし』
漫画
- 碧也ぴんく『星のとりで〜箱館新戦記〜』
- 神田たけ志『歳三〜新撰組箱館戦記〜』(『北の獅子 真説・土方歳三伝』より改題)
- 菅野文『北走新選組』『凍鉄の花』
- かれん『歳三梅いちりん〜新選組吉原異聞〜』
- 一條和春『願わくば花のもとにて』(ラポート『月とノスタルヂヤ』収録 1994年)
- 斎藤岬『ひなたの狼』
- ヒロモト森一『武死道』
- ひらく椥『薄桜鬼』
- 橋本エイジ『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
- 三宅乱丈『秘密の新選組』
- みなもと太郎『冗談新選組』
- 望月三起也『俺の新選組』
- 盛田賢司『月明星稀 – さよなら新選組』
- 黒乃奈々絵『PEACEMAKER鐵』
映画・ドラマ・舞台・アニメ・ゲーム
- 『燃えよ剣』(映画・ドラマ)
- 『新選組血風録』(映画・ドラマ)
- 『新選組!! 土方歳三 最期の一日』(ドラマ)
- 『誠の群像』(宝塚歌劇団)
- 『薄桜鬼』(舞台・劇場版アニメ)
- 『PEACE MAKER 鐵 ~想道(オモウミチ)~』『PEACE MAKER 鐵 ~友命(ユウメイ)~』(劇場版アニメ)
- 『土方歳三 白の軌跡』(アニメ)
- 『ドリフターズ』(アニメ)
- 『薄桜鬼』(アニメ)
- 『ちるらん にぶんの壱』(アニメ)
- 『薄桜鬼シリーズ』(ゲーム)
- 『龍が如く 維新!』(ゲーム)
- 『Fate/Grand Order』(ゲーム)
まとめ
私が最初に土方歳三に出逢ったのは、祖母が観ていた栗塚旭さんの演じる『燃えよ剣』でした。
それ以来ずっと映画やドラマや小説や漫画だけではあきたらず史料をあさり、京都・日野・会津・函館まで行ってきました。同じような人たちは多いのではないでしょうか。
武士にあこがれ、武士よりも武士らしく、花のように咲き誇り、桜のようにみごと散った生き様は、時を超えて私たちを魅了してやまない人でした。
これから「土方歳三ってどんな人だろう?」と思われる方への一助となったら嬉しいです。
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