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「国際法の父」と呼ばれるグローティウス。彼は早熟の人で神童とも呼ばれていました。また、オランダ独立戦争、三十年戦争など、戦争の絶えない時代を生きた人でもありました。
そんなグローティウスの人生をだどりながら、「国際法の父」の実像に迫りたいと思います。
グローティウスとは
フーゴー・グローティウス(英語:Hugo Grotius)は、1583年4月10日、オランダのデルフトに生まれました。オランダ語では、Hugo de Grootとなり、「ヒュホ デ フロート」と読みます。オランダの哲学者であり、外交官であり、詩人であり、法学者です。
![]() グローティウス(25歳) | ![]() デルフトにある像 |
21歳の時に書いた「自由海論」は、海上での争いごとを力ではなく、法を根拠に解決すべきだと主張しています。その後も「戦争と平和の法」や「キリスト教の真理」など多くの著書を残しており、彼の著書は後世へ影響を与えています。
法の根拠を神の意志ではなく、自然法に基づいて国際法の基礎を築いたことから、「国際法の父」と呼ばれています。
グローティウスの生きた時代は、戦争が絶えなかった
グロティウスが生きた時代は、ルネッサンス、宗教改革、科学の進歩が起こると同時に、ヨーロッパの中世社会を支配していた神聖ローマ皇帝とローマ・カトリック教会の権力が衰退し、それに代わる権力機構として絶対王政が確立されていきます。
ヨーロッパ社会に「近代主権国家」という新しい枠組みが誕生していく過程で、戦争が絶えない時代でもありました。オランダに関して見てみると、ネーデルランド独立戦争(1560~1648年)が起きており、隣のドイツでは三十年戦争が起きています。
三十年戦争時の虐殺を描いたジャック・カロによる「戦争の惨禍」
経済的には、1602年に設立されたオランダ東インド会社が、香辛料貿易を独占的に支配し莫大な富を築きます。また、宗教に寛容であったオランダの風土に惹かれアムステルダムを中心とした港に、ヨーロッパ中の人、モノ、情報が集まります。そうして、オランダは覇権を握っていきます。
グローティウスは時代に待望された人物だった
グローティウスと同時代に生きた有名人を見てみましょう。
哲学者
- 「リヴァイアサン」で社会契約論を唱えたイギリスのトマス・ホッブス
- 「方法序説」で近代哲学の基礎を築いたフランスのルネ・デカルト
- 「統治論」で議会制民主主義を唱えたイギリスのジョン・ロック
- 「エチカ」で有名なバールーフ・デ・スピノザ
科学者
- 「地動説」を唱えたイタリアのガリレオ・ガリレイ
- 「ケプラーの法則」を提唱したドイツのヨハネス・ケプラー
- 数学者として有名なフランスのブレーズ・パスカル
絵画
オランダの黄金時代の画家はいずれもこの時代から出ています。
- 「キリスト昇架」で有名なピーテル・パウル・ルーベンス
- 「夜警」で有名なレンブラント・ファン・レイン
- 「真珠の耳飾りの少女」で有名なヨハネス・フェルメール
「真珠の耳飾りの少女」ヨハネス・フェルメール
これらの人物を見ても、科学の台頭と哲学や絵画による人間らしさの追求が成された時代だということがよくわかります。その結果、宗教との分離があらゆる方面で始まり、ウェストファリア条約という形で近代主権国家が成立しました。
国家に主権が存在することで、国家間での「決まり」が必要になっていた時代だったのです。つまり、時代がグローティウスを待望していたといってもいいでしょう。
グローティウスは早熟の人だった
グローティウスは、オランダ南西の街デルフトの政治家や大学教授を輩出する名門の家に生まれます。市長であった父から教育を受けて育ち、8歳でラテン語の詩を2編作って父を喜ばせたといいます。
11歳でオランダで最も伝統のあるライデン大学に入学。14歳で卒業しています。ライデン大学は、当時から世界的に評価の高い大学で、当時はデカルトやレンブラント、スピノザもここで学んでいます。また、ノーベル賞物理学者のアインシュタインも非常勤講師として教鞭をとっていました。そのライデン大学を14歳で卒業するというのは、まぎれもなく天才だったのでしょう。
ライデン大学
その後、15歳で官職につき、外交使節団の一人としてフランスにも行っています。そして、16歳で弁護士として独立しています。弁護士としては、実務よりも学問に熱中し、24歳で検察官、30歳にはロッテルダムの法律顧問に任命されています。
グローティウスは神童っぷりでフランス国王を驚かせた
そんな若くして周囲を驚かせていたグローティウスの神童ぶりを表すエピソードがあるのでご紹介します。
フランス国王アンリ4世
15歳の時に、外交使節団の一人として訪れたフランスで、グローティウスは当時のフランス国王アンリ4世に謁見しています。その際、グローティウスの理路整然とした受け答えを見たアンリ4世は、「オランダの生んだ奇蹟」とその場で声をあげたといいます。そして、のちにはフランスのオルレアン大学から名誉法学博士号まで贈られています。
グローティウスは21歳で『捕獲法論』を著した
早熟だったグローティウスは、世界初のグローバル企業であるオランダ東インド会社の訴訟問題の解決依頼を受けます。オランダ東インド会社は、商業活動だけではなく、東インド領内での条約の締結や軍事、植民地経営の一切を任されていました。さながら海上の国家といったところでしょうか。
弁護士として高く評価されていたグローティウスは、そのオランダ東インド会社の案件を担当することになります。
当時、世界の海は大航海時代の先駆者であるスペインとポルトガルが二分していました。
「自由海論」
事の始まりは、マラッカ海峡でオランダ船がポルトガル商船を拿捕したことです。ポルトガルがこれに「東インドでの航海、交易は固有の権利」と主張し抗議をします。オランダ東インド会社は武力でことを収めようとしましたが、会社首脳陣は会社内からその正当性を求められ弾劾されそうになります。
グローティウスは、自国オランダの正当性を擁護するかたちで弁護文を執筆します。その中でグローティウスは、「ポルトガルの東インドに対する支配権を拒否」すると共に、「海は人間による所有ができず、すべての人が共通に使うことができる」ことを主張しました。
この「捕獲法論」が元となり、1609年に「自由海論」が出版されます。正式名称は「自由海論、インド貿易に関してオランダに帰属する権利について」です。
グローティウスは終身禁固刑になった
グローティウスがキャリアを積む中、オランダ国内でカルヴァン派による神学論争が起きます。この論争は、ホマルス派とアルミニウス派に分かれて、次第に階級闘争や国家と教会の権力争いにまで発展していきました。
宗教改革の指導者ジャン・カルヴァン
1618年のドルト会議で、ホマルス派が全面的に勝利を納めます。アルミニウス派についたグローティウスは、その首謀者として捕まり、レーヴェシュタイン城に終身禁固刑で収容されます。さらに財産は没収。
グローティウスは妻の発案で脱獄した
1619年からレーヴェシュタイン城に収容されていたグローティウスですが、脱獄することに成功するのです。
当時、獄内でも読書をすることは可能だったようで、定期的に妻に本を依頼してそれを届けてもらっていました。
レーヴェシュタイン城(オランダ)
グローティウスの妻とその協力者のおかげで、書簡運搬用の小箱の中にグローティウスは隠れ、劇的な脱出に成功しています。
この脱獄計画は、妻の発案だったのです。そのことからも、グローティウスの妻は非常に賢い人だったのでしょう。その後、二人はそのままパリに亡命しています。
グローティウスはパリで厚遇された
パリに亡命したグローティウスは、当時のフランス国王ルイ13世に厚遇されます。年金をもらい生活をすることができたのです。そのため、パリ亡命時期に多くの執筆をしています。
グローティウスの「自由海論」と並んで評される「戦争と平和の法」が出版されたのも、パリ亡命期間中です。
その後は、1634年から在仏スウェーデン大使として働く機会を得て、その職を解かれるまでの10年間、大使として働き続けます。これは、当時のスウェーデン国王グスタフ=アドルフ(獅子王)がグローティウスが書いた「戦争と平和の法」を戦場でも携帯するほどグローティウスを高く評価していたことが関係しています。
スウェーデン国王グスタフ=アドルフ 三十年戦争への出陣
グローティウスは自然法の概念を普及させた
パリ亡命中に出版された「戦争と平和の法」で、グローティウスは、「正戦論」について触れています。「正戦論」とは、正しい戦争と正しくない戦争についてです。現在では、「武力行使」そのものが違法行為ですが、当時のヨーロッパは常に戦争があるような状態でした。グローティウスが「戦争と平和の法」を書くきっかけの一つは、ドイツ三十年戦争の悲惨な状況があったからと言われています。
ドイツ三十年戦争は、当時のドイツ人口が1800万人から700万人まで減少しています。それというのも、当時の軍隊は一時的に雇われる傭兵が多く、その傭兵による略奪行為や虐殺行為が頻繁に行われていたからです。
グローティウスは、人間の本性は「社会の中で生きたい、共同生活をしたいという欲求がある」とします。また、「他人の所有権を犯さない知性がある」とし、これを人間本来の法、つまり「自然法」としたのです。
この自然法を法根拠として、戦争でも守るべきルールを訴えたのが「戦争と平和の法」です。これは、出版当初からヨーロッパ社会で広く読まれ、1648年のウェストファリア条約に影響を与えてるといわれています。
グローティウスは海難事故で亡くなった
国際法の基礎を築いたグローティウスの最期は、あっけないものでした。フランスからスウェーデンへの旅の途中に、海難事故に遭いドイツのロストックに漂着します。それが原因で衰弱し、そのままロストックで62年間の生涯を終えています。
海上の自由を訴え、国際法の基礎を築いたグローティウスの最期が海難事故だと考えると、何かの因果を感じさせるとしか言いようがありません。
そして、グローティウスがパリに亡命してから、1631年に一度はロッテルダムの地を踏むものの、青春時代を過ごしたデルフトに生きて帰ることはありませんでした。
現代のロストックの街並み
グローティウスの名言・格言
多くのことを理解したが、何も完成しなかった
突然の死だったため、後世に多くの名言は残していませんが、哲学者であり、法学者、詩人、外交官でもあった万能なグローティウスらしい一言が残っています。
グローティウスゆかりの地
デルフト
グローティウスが青春時代を過ごした場所。
マルクト広場には、グローティウスの銅像が立ち、その後ろの新教会内はグローティウスのお墓があります。
デン・ハーグ
国際連合の主要機関である国際司法裁判所。別名、世界法廷の本拠地は、オランダのデルフトから電車で約20分のデン・ハーグに位置しています。
デン・ハーグの国際司法裁判所
グローティウスが後世に残したもの
グローティウスは、いったい私たちに何を残したのでしょうか。17世紀前半の時代に、公海や戦争の決まりを、「神学」ではなく「法学」に見出したのは、俊逸なことだったといってよいでしょう。
しかし、これはグローティウスが生まれた「17世紀のオランダ」が、宗教に対して寛容で、商売が上手く、合理的に考える風土だったからこそと言えるのかもしれません。
2005年クラクフで行われた万国国際法学会
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