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1603年江戸に徳川家康が打ち立て265年間続いた江戸幕府。
その終焉のきっかけとなったは安政の大獄という恐怖政治でした。
それを行った井伊直弼が暗殺された桜田門外の変。
井伊直弼という人物は、何を考え安政の大獄を行い、なぜ殺されなければならなかったのかを追っていきたいと思います。
- 井伊直弼とは
- 井伊氏とはどんな家か
- 井伊直弼は14男だった
- 井伊直弼は14男なのに彦根藩藩主になった
- 井伊直弼はさらに大老にまで出世した
- 井伊直弼が将軍の後継ぎを決めた
- 井伊直弼が主張した将軍になれる血統とは
- 井伊直弼が勝手に日米和親条約を断行した
- 井伊直弼の本音はあくまでも時間稼ぎだった
- 孝明天皇、勝手に開国した井伊直弼に激怒する
- 井伊直弼と対抗する攘夷派
- 井伊直弼が安政の大獄をはじめる
- 井伊直弼の大失敗!倒幕への火種を作ってしまった
- 偉人?トンデモ野郎?吉田松陰。井伊直弼を激怒させた人
- 井伊直弼暗殺計画を阻止しようとした水戸藩勢力もいた
- 井伊直弼の最期!桜田門外の変
- 彦根藩は井伊直弼死後に処分され、新政府軍についてしまった
- 井伊直弼という人
井伊直弼とは
徳川家康がまだ一大名だった時からの家臣は、関ヶ原の合戦以後に開かれた江戸幕府内において「譜代大名」と呼ばれ、政治の中枢をになうことになっていました。
井伊直弼は、そのひとつである井伊氏・近江彦根藩の第15代藩主です。
歴史学者の中では幕末のはじまりといわれる、アメリカよりペリー提督が黒船でやってきて、開国をせまってきました。
開国するか否かで混乱している時に幕府の大老となり、朝廷や他の大名たちの反対を押し切って「日米修好通商条約」に調印します。
井伊直弼
京狩野家第9代 狩野永岳 – 彦根城博物館所蔵品。 パブリック・ドメイン,Link
それに対して当然のように幕府の屋台骨を揺るがすような抗議が、朝廷をはじめ大名や有識者から起きてきます。
井伊直弼が、それらを謹慎や粛清したのが「安政の大獄」と呼ばれるものです。
恐怖政治ともいわれる中、水戸藩を脱藩をした武士達に暗殺されてしまいました。
幕末最悪の悪人ともいわれる井伊直弼は、本当に悪人だったのでしょうか?
井伊氏とはどんな家か
井伊直弼は、徳川家康の四天王と呼ばれた井伊直政の子孫です。
藤原道長の末裔と公式にはいっていますが、祖先は捨て子という伝説があり、駿河(静岡県)の国司だった三國氏に才能を認められて養子に入ります。
鎌倉時代までは捨てられていた場所といわれる井伊谷に城を建てて「井伊」と名乗り、豪族として土地をおさめます。
南北朝時代に南朝である後醍醐天皇の皇子である宗良親王をかくまったことで、北朝から攻められ落城し、井伊谷は守護の今川氏の支配下になりました。
平成29年大河ドラマ「おんな城主 直虎」
(井伊直虎と井伊直政)
今川氏はことあるごとに井伊氏をつぶそうと画策。
井伊氏は一度はつぶれますが、井伊直政の働きで家は再興され、武功をたてて徳川四天王となります。
このあたりは平成29年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』で描かれていましたので、観られた方もおられると思います。
井伊直政は関ヶ原の合戦で薩摩藩と戦い深手を負いますが、その傷を養生することもなく江戸幕府の基礎をつくり、石田三成の領地をもらい佐和山城をつぶして彦根城を建て、初代彦根藩藩主となり亡くなりました。
井伊直弼は14男だった
1815年、井伊直弼は13代目藩主の井伊直中の14男として生まれます。
通常ならば、世継ぎ以外の男子は他の大名などに養子に行くか、家臣の養子になりその家の後継ぎになるか、出家をするという井伊家の決まりがありました。
しかし井伊直弼は庶子だったのでどこからも養子の話もなく、父の死後の17歳から32歳まで「北の御屋敷」と呼ばれる屋敷に住むことになります。
北の御屋敷(埋木舎)
パブリック・ドメイン, Link
ここは、10代藩主の井伊直幸も25歳まで過ごしていて「ここに住む者は、自分のようになにが起きるかわからないから、ちゃんと教育をさせるように」と言い残している屋敷でした。
井伊直弼はここで老いて死ぬのだろうと思いながらも
「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらぬ 心なき身は」
(世の中と離れて埋もれた木のような身の上だが、このまま埋もれている気はない)
と歌をつくり屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けていました。
それでも「私にはなすべき仕事があるはずだ」と歌のように思い、禅・居合・和歌・茶道などをして精進していたといわれています。
その頃に、近江市場村の医師である三浦北庵の紹介で、国学や和歌で有名だった長野主膳の弟子となりました。
井伊直弼は14男なのに彦根藩藩主になった
普通は14男なのに藩主になるということは、あまり考えられません。
1846年、14代藩主の次兄の井伊直亮(長兄は病弱だったので継がなかった)は子供がおらず、後継ぎになっていた11男だった兄の井伊直元が亡くなり、残っていた井伊直弼が養子となって、1850年にまさかの藩主となることができたのです。
彦根城
藩主となった井伊直弼は、藩の政治改革を精力的に推し進めて名君と呼ばれることになりました。
その影には師である長野主膳のアドバイスがありました。
直弼は、長野主膳を藩校である弘道館国学方にして、以後は懐刀として重用していきます。
さて、江戸時代の大名の常として藩主となると参勤交代があり、江戸に行くことになります。
江戸城には各大名によって控え室が決められていました。井伊家の控え室は、会津藩松平家・高松藩松平家のみが許されている「溜詰」というところで、将軍の臣下の中では最上位の扱いでした。
井伊直弼はさらに大老にまで出世した
井伊直弼が藩主になった頃の1853年は、アメリカよりペリー提督がやってきて「日米修好通商条約」を結ぶよう、幕府に求めていました。
老中筆頭の阿部正弘に意見を求められ、井伊直弼は「開国」を主張しました。
ペリー提督
パブリック・ドメイン, Link
阿部正弘は譜代大名だけでなく、お飾りだった朝廷や、今まで力はありながら関ヶ原の合戦で西軍についたために意見も言えなかった薩摩藩などの大名たちや、見識者、果ては庶民にまで意見を求めました。
その優柔不断さが災いして、国内では「開国派」と外国勢力を排除しようとする「攘夷派」と意見が真二つに分かれてしまいました。
そんな最中、阿部正弘が突然に病気で倒れて亡くってしまいます。
後をどうするかという時に、徳川幕府13代将軍の徳川家定が、井伊直弼を大老に指名しました。
大老とは国が緊急な時に老中の中から特別に設置される職で、徳川家定は「家柄や人物を考えると、井伊直弼しかいない」と判断したのです。
そうして、安政5年(1858年)4月23日に井伊大老が誕生したのでした。
井伊直弼が将軍の後継ぎを決めた
就任したばかりの井伊直弼を待っていたのは、アメリカとの交渉だけではありませんでした。
13代将軍・徳川家定は病弱で子供のいなかったので、家定の次の将軍を誰にするかということです。
徳川家定
不明(狩野派の絵師) パブリック・ドメイン,Link
まず御三家の紀州藩主・徳川慶福を推す、開国派の老中松平忠固をはじめ紀州藩・会津藩・高松藩など「紀州派」と呼ばれた人たちがいました。
将軍に「井伊直弼を大老に」と強く推薦してくれたのが紀州派でしたので、もちろん井伊直弼は紀州派につきます。
反対に「この国の難局に立ち向かえることができる将軍は、英明な一橋慶喜しかいない」と、水戸藩徳川家より御三卿である一橋家に養子にいっていた一橋慶喜を推す、攘夷派の水戸藩・尾張藩、開国やむなしと理解して強力な将軍を望んでいた薩摩藩・越前藩・土佐藩など「一橋派」と呼ばれる人たちがいました。
薩摩藩は養女の篤姫を家定の正室に輿入れさせ、一橋慶喜を将軍にすべく裏工作をしますが、結局は慣習どおりの「血統を重視する」という意見を通した井伊直弼の主張が通り、徳川慶福(14代将軍・徳川家茂)に決まりました。
井伊直弼が主張した将軍になれる血統とは
血統を重視といっても一橋慶喜だって徳川家康の子孫なのになぜ?という疑問があると思いますので、説明をしましょう。
徳川家康の子孫で将軍の後継ぎになれるのは紀伊藩と尾張藩のみで、後から御三家として加えられた水戸藩にはその権限がありませんでした。(そのかわり特別に将軍を選ぶ権限と、江戸内に屋敷を置くことが許可されていたので「天下の副将軍」と勝手に名乗っていました)
徳川吉宗
狩野忠信 パブリック・ドメイン,Link
ところが紀州藩士から8代将軍になった徳川吉宗が「自分の子孫から将軍を出したい」と、自分の子供たちが将軍になれるように御三卿というものを御三家の上に作ってしまいました。
御三卿の一橋家に水戸藩から養子に入った慶喜は本来ならば将軍になれる血筋ではなく、吉宗が出た紀州藩藩主の家茂が選ばれたのはそういうことでした。
井伊直弼が勝手に日米和親条約を断行した
幕府はアメリカからの開国要求に対して、鎌倉時代の蒙古からの国書が来た時の前例に従って朝廷に意見を求めていました。
今まではお飾りだけだった朝廷は色めき立ち、特に外国嫌いだった孝明天皇をはじめとした参議たちは反対を唱えます。
井伊直弼は天皇の勅許がないと結ばないことを主張していて、時間稼ぎに下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震をアメリカ代表のハリスのもとに派遣しました。
ハリスの元に行く前に、井上と岩瀬は「やむを得ない場合は調印していいでしょうか」と直弼に尋ね、直弼は「その場合はしかたないが、できるだけ時間稼ぎをせよ」と答えます。
しかし井上と岩瀬は調印の承諾を得たと思い込んで、その日のうちに勝手に調印してしまいました。
孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約が調印されたことは違勅調印だと、水戸藩をはじめとした攘夷派から攻撃を受けることになってしまいます。
勝手に調印した責任者として井伊直弼を処断したのは、朝廷との交渉に失敗した老中のひとり堀田正睦と、時間稼ぎを言った直弼を無視してゴーサインを出した老中のひとり、松平忠固でした。
この裏には井伊直弼はふたりに汚名を着せられたという説と、反対に着せて処断したという説がありますが、井伊直弼が悪いということで話はまとまってしまいました。
井伊直弼の本音はあくまでも時間稼ぎだった
海を渡ってやってきた蒸気船を見て「このまま戦争になったら勝目はない」と悟り、まずは植民地にされないように条約を結び、肩を並べられるようになったらまた鎖国をすればいいと朝廷への手紙に残しています。
黒船
そもそもアメリカはヨーロッパに比べて植民地政策が出遅れ、アジアに拠点がなかったために補給基地として日本に目をつけたといわれています。
そのため後には、これを機にアジアに植民地を広げているイギリスやフランス、はては何度も来ているロシアだけでなく、鎖国していた間も交流があったオランダとも改めて調印をしています。
余談ですが、オランダはペリーが来る前に「アメリカが来る」と忠告してくれたり(幕府は無視しましたが)、調印前のアメリカの脅威にさらされている日本に軍艦を造ってくれています。
孝明天皇、勝手に開国した井伊直弼に激怒する
安政5 (1858) 年8月に、井伊直弼が勝手に将軍の後継ぎを決めて、自分の勅許を待たないで勝手に外国と調印したことで、孝明天皇は激怒して譲位を表明してしまいます。
孝明天皇
博文館(Hakubunkan) – 雑誌『太陽(The Sun)』第3巻第4号、口絵, パブリック・ドメイン,Link
そこへ水戸藩などが働きかけたために、朝廷は幕府への抗議の文章と「他の藩と協力して公武合体をするように」という内容の「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」というものを幕府に出します。
これは幕府だけでなく水戸藩にも送られ、大名達にも回覧させるようにと書かれていたのです。
今までに前例のない幕府の頭の上を素通りして大名に送られたため、なんとか回覧は阻止したものの幕府の面目は丸つぶれとなり、幕藩政治においての社会秩序崩壊への第一歩になってしまいました。
井伊直弼と対抗する攘夷派
攘夷派では水戸藩が中心になった一橋派が、調印はやむを得なかったと思いつつも、勅許を取っていなかったということで一致し批判を強めます。
亡くなった老中・阿部正弘がアメリカの問題で色々な方面に意見を聞いたため、市井の学者や志士と名乗る者などまでもが声を大にして幕府批判をはじめます。
井伊直弼は、戊午の密勅の首謀者を激しく幕府批判していた儒学者である梅田雲浜であるとして、京都所司代に命じて捕縛しました。
梅田雲浜
パブリック・ドメイン, Link
薩摩藩主・島津斉彬は井伊直弼のやり方に対して怒り、兵を率いて京にのぼり朝廷の兵として勅許を得て対抗しようとしましたが、突然急死してしまい計画はつぶれました。
島津斉彬が死んだために、薩摩藩の藩主は弟である島津久光の息子となり、政権は前藩主の父と、弟が仕切ることによって幕府に恭順する形へと変わります。
同じ年、井伊直弼は幕府の力を挽回するために、反抗的な一橋派や攘夷派の一掃をはじめます。
これが「安政の大獄」の始まりでした。
井伊直弼が安政の大獄をはじめる
安政5(1858)年、ついに安政の大獄が始まりました。
井伊直弼は、まず水戸藩には蟄居命令、一橋派をはじめ攘夷派や朝廷支持派などの大名や公家達は謹慎、同じく反抗的な者を一斉に弾圧していきます。
閉門の上自宅の一室に謹慎
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徳川斉昭(前水戸藩主) パブリック・ドメイン, Link | 岩瀬忠震(作事奉行) パブリック・ドメイン, Link | 永井尚志(軍艦奉行) パブリック・ドメイン, Link |
大名の中では一番きつい処分になります。
最大の政敵である、徳川斉昭はここでリタイアすることになります。
謹慎
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一橋慶喜(徳川慶喜) パブリック・ドメイン, Link | 徳川慶勝(尾張藩主) パブリック・ドメイン, Link | 松平春嶽(福井藩主) パブリック・ドメイン, Link | 山内容堂(土佐藩主) パブリック・ドメイン,Link |
徳川慶篤水戸藩主(一橋慶喜の実兄)・伊達宗城宇和島藩主・堀田正睦佐倉藩主など、勅許なし調印の責任を取らされた堀田正睦と松平忠固らを含め、一橋派と呼ばれる人たち達が一掃されます。
朝廷への処分
戊午の密勅に関わったということで、朝廷の人物にも処分がされました。
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尊融入道親王 青蓮院門主 隠居・慎・永蟄居 パブリック・ドメイン, Link | 近衛忠煕 左大臣 辞官・落飾 パブリック・ドメイン, Link | 三条実万 前内大臣 隠居・落飾・慎 パブリック・ドメイン, Link |
など、大名達に比べると少し手加減しているような気もしますね。
隠居・お役御免・左遷から追放までの処分
大名から家臣、有識者から町人にいたるまで大なり小なりの差はありますが、かなりの人々が処分されています。
名前が残っているだけでも隠居・お役御免・差控は5名、叱責・左遷は5名、遠島は7名、追放は10名、押込は36名、手鎖は3名、その他の中に坂本龍馬の妻・お龍の父親も入っています。
捕縛前に亡くなった人も数名います。
中でも有名なのは、京より薩摩に逃げたものの受け入れられず西郷隆盛と入水心中事件(西郷隆盛は息を吹き返した)を起こした月照という僧侶で、平成30年大河ドラマ『西郷どん』では、なんと!ふたりはBL(ボーイズラブ)という話になっているそうです。
井伊直弼の大失敗!倒幕への火種を作ってしまった
今まで紹介したのは安政の大獄の序の口ともいえるものです。
恐怖政治と呼ばれた安政の大獄といえばこの人達!という人たちを紹介しましょう。
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吉田松陰 長州藩家臣(斬罪) | 橋本左内 越前藩家臣(斬罪) | 頼三樹三郎 京都町儒者(斬罪) |
この人達あわせて13人という人が死刑や獄中で亡くなります。
有名順に画像は並べましたが、説明は右からやっていきます。
頼三樹三郎は、朝廷を軽視する幕府に対しての批判を家族が止めるのも聞かず唱え続けて、勤王志士の思想のお手本となった人でした。
この人は危険人物としてチェックされていたので、ある意味さもありなんという感じなのですが、他の2人がいけません。
橋本左内の主張していた考えは徳川幕府体制を維持しながら外国の先進技術を取り入れて外国からの植民地になることを防ぐという先進的なもので、井伊直弼と全く同じ考えでした。
しかし、そのために英明な一橋慶喜を将軍にして幕府の力を強固にしようとした働きをしたために、捕縛されて死刑になってしまったのでした。
一橋派でなかったら、井伊直弼のために精力的に働いてくれたのかもしれません。
この中で、いちばんやっかいな人が、吉田松陰です。
偉人?トンデモ野郎?吉田松陰。井伊直弼を激怒させた人
吉田松陰は長州藩の藩士で、9歳のときに長州藩の藩校である明倫館の兵学師範に就任されるほどの秀才で、日本の兵法をすべて修めた人です。
しかしアヘン戦争で外国の戦力を知ると、日本の兵法では時代遅れだと長崎に留学し、江戸の西洋兵学者である佐久間象山などに師事します。
どうしても外国の技術や兵法を知りたくなり、日米和親条約を結ぶためにペリーが2度目の来日をしたときに、金子重之輔と海岸にあった漁師の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に乗り込みます。
しかし、日本とのいざこざを嫌ったアメリカに拒否されて、伝馬町牢屋敷に投獄されてしまいました。
幕府は「とんでもない奴だ」と怒って吉田松陰と師匠である佐久間象山を死刑にしようとしますが、(佐久間象山を失うのを嫌った閣僚がとめたので)許され、国許の長州の野山獄という牢屋に入れられます。
牢屋から出た吉田松陰は、叔父が開いていた「松下村塾」の名を引き継いだ私塾を開きます。
松下村塾
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そこでは勉学だけでなく水泳や登山などの修練を行った新しい教育をしていたため、藩校教育にあきたらなかった若者達が集まってきました。
吉田松陰は、日米和親条約が天皇の勅許なしで行われたことに激怒して「朝廷に弁解にくるという老中の間部詮勝を拉致し条約を破棄するように訴え、断られたら殺す!」という計画を立てて、大砲などの武器弾薬を買うことを長州藩に訴えますが断られます。
そこで「藩主が参勤交代の途中に京に寄るときに、直接かごの前で訴える!」という計画を立てますが、桂小五郎や門下生の高杉晋作らに止められました。
ここに至って吉田松陰は「もう幕府などいらない!」という倒幕思想を提唱し、藩もあてにならないから「これからはゲリラ作戦を行わなければならない!」と言い出しました。
長州藩は吉田松陰をこのまま放っておくと大変なことになると、再び野山獄にいれます。
その時に安政の大獄がはじまり、かごの前で訴えるという計画を一緒に立てていた門下生が捕まり、吉田松陰は江戸へ運ばれます。
幕府はどういう訴えをするつもりだったのかという確認だけだったといいますが、吉田松陰が自らこれまでの老中暗殺計画などを全部述べたために、井伊直弼は「これはとんでもない奴だ」と激怒して処刑してしまったのでした。
吉田松陰の門下生には、久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文・山縣有朋・吉田稔麿・入江九一・品川弥二郎・山田顕義などがおり、まさに幕末の京都で、吉田松陰が提唱したゲリラ作戦をくりひろげ、徳川幕府は倒れてしまう原因となってしまったのでした。
もしペリーが吉田松陰をアメリカに連れて行っていたら、徳川幕府は倒れなかった可能性もあったのかもしれません。
井伊直弼暗殺計画を阻止しようとした水戸藩勢力もいた
幕府は、安政の大獄でおとなしくなった水戸藩に、戊午の密勅を返納することを求めます。
水戸藩内は賛成と反対の二つに分かれ決着がつかないままでいると、井伊直弼が「いつまでも出さないと、水戸藩を改易(つぶす)」と迫ったといいます。
これに怒った尊王攘夷急進派(天狗党)が井伊直弼暗殺を企てます。
桜田門外の変を計画した者達が集結したという愛宕山の碑
By MAKIKO OMOKAWA, CC 表示-継承 3.0, Link
察知した水戸藩は計画の首謀者と思われる藩士の高橋多一郎と金子孫二郎を呼び出し、それを聞いた20人あまりが集まり水戸藩兵たちと斬り合いになりました。
これを逃れた(この時点で脱藩している)金子孫二郎たちは江戸へ逃れて、薩摩藩士の有村雄助と有村次左衛門兄弟の計らいで三田にある薩摩屋敷に潜伏します。
決行がなぜ3月3日なったのかというと、この日は雛の節句の日ということで大名達は祝いに全員集まるという日でしたので、確実に登城する時間も察知できたからです。
かたや井伊直弼の方はというと、すでに暗殺計画があるという情報はつかんでいて2月下旬には松平信発が「大老を辞職して彦根に帰り、政情が落ち着いてから出仕すべき。それが嫌ならば供の者を増やしたほうがいい」と警告しますが、井伊直弼はそれを断っていました。
井伊直弼の最期!桜田門外の変
その日は今の暦でいうと3月24日で、季節外れの大雪が降っていました。
午前8時から登城がはじまり、往来には大名達のガイドブックを持った見物の観衆たちが集まっており、狙撃者たちはガイドブックを手に持ち人混みにまぎれて井伊直弼を待ちます。
午前9時、襲撃の恐れがあるという手紙をもらっていながら、兵を連れて行くのはみっともないことだと、井伊直弼は通常通りの総勢60人ほどのこしらえで彦根藩邸を出発しました。

桜田門外襲撃図
大洗町 幕末と明治の博物館 パブリック・ドメイン link
まず最初に水戸浪士・森五六郎が駕籠訴のふりをして行列の供頭に出ていき、それを制した彦根藩士に斬りつけます。
それに驚き皆が注目したところを、水戸浪士の黒澤忠三郎(関鉄之介という説もあり)が合図のピストルを駕籠に向って撃ち、全員が配置されていた各方面から襲いかかります。
それに対して彦根藩士達は、大雪だったために雨合羽を着て動きにくく、刀が雪で濡れないようにと袋に入れて持っていたためにとっさに抜くことができません。
袋のまま振り回す者や素手で刀に向った者、逃げ出す者などパニック状態になりましたが、それでも奮戦して狙撃者たちを打ち倒したり大ケガを負わせます。
しかし肝腎の井伊直弼というと、駕籠をかつぐ人足などは真っ先に逃げてしまい、ピストルが命中したため逃げることもできず、駕籠はポツンと襲撃の中で取り残されます。
そこへ襲撃者たちは、駕籠に何度も何度も刀を突き立てて、虫の息になった井伊直弼を引きずり出して首をはねてしまいました。
勝ちどきをあげた有村雄助は、井伊直弼の首を刀の切先に刺して逃げ出しました。
実に襲撃からそれまでの時間は、たった十数分だったといわれています。
逃げ出した有村は、昏睡状態から醒めた彦根藩士の小河原秀之丞に斬りつけられますが、それでも首を引きずりながらも逃げて、若年寄の遠藤胤統の邸の門前で力尽き自決しました。
井伊直弼の首は検視が終わるまで遠藤家におさめられ、井伊家・遠藤家・幕閣との話し合いの末に、その首は体格がよく似ていた藩士のもので、「井伊直弼は襲撃された傷が元で亡くなった」ということにしたのでした。
享年は46(満44)歳でした。
直弼にとどめを刺した有村については、こちらの記事が詳しいです。

彦根藩は井伊直弼死後に処分され、新政府軍についてしまった
文久2年(1862年)5月、孝明天皇の勅命を受けて一橋慶喜が将軍後見職になり、後に最後の将軍徳川慶喜となります。
一橋派が政権を担うことになった幕府は、井伊直弼が行なった大獄は独断の恐怖政治だとして、以下の処分を行います。
- 彦根藩は10万石削減の追罰
- 弾圧の取調べをした役人の処罰
- 大獄で牢獄に幽閉されていた者の釈放
- 桜田門外の変などの尊攘運動の遭難者を、14代将軍徳川家茂に孝明天皇の妹である和宮が降嫁したことの祝賀として大赦
毛理嶋山官軍大勝利之図(部分)
歌川国広画(個人蔵)パブリックドメイン Link
そのため彦根藩は、戊辰戦争が始まるやいなや新政府軍につきます。
徳川家康が関ケ原の戦いで西から攻め込んだ時に砦になるようにと、井伊直政に与えた彦根藩が、新政府軍についたことは、致命的なことになったのでした。
井伊直弼という人
井伊直弼という人は、元々は茶道と禅を愛する平穏な人物でした。
それが運命のいたずらか、藩主になり、大老にまでなってしまいました。
井伊直弼
By 井伊直安(1851-1935) – 世田谷区ホームページ 文化財 井伊直弼画像, パブリック・ドメイン, Link
井伊直弼は天命だと思い、幕府に命を捧げることを誓います。
しかし不幸だったのは、思いもよらない出世のため、親身に味方になってくれる人や、本当に心を許せる人がいなかったことでした。
もしあのまま埋もれ木のように過ごしていたら、一流の文化人として名が残ったのかもしれません。
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