弘法大師・空海の生涯が分かる11トピック 

日本

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高野山を拠点とし、それまで日本になかった仏教である真言宗を広めたのが空海です。

今でも多くの人々が高野山を訪ね、その教えに救いを求めて止みません。

四国には空海ゆかりのお寺が数多くあり、八十八ヶ所参りのお遍路さんたちが後を絶ちません。

そのように現代の人々に親しまれている密教という神秘的な宗教を世に広めた空海とはどのような人だったのでしょう。

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空海とは

空海は国内で仏教についての修行を重ねていました。しかし空海にはその教えがしっくりこなかったのです。

そこで留学生として唐に渡る機会を得るとそこで密教について学びます。

空海は密教の第一人者である恵果和尚の弟子となることを許されます。

不思議なことに恵果和尚は日本からひとりの僧が密教を求めてやってくることがわかっていたと言います。

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空海の肖像(真如様大師), パブリック・ドメイン, Link

ですから空海はすぐに弟子になることができたのです。

恵果和尚は密教の全てを空海に教えてこの世を去りました。

空海はその教えを持って、留学生としては異例のわずか2年という短期間で帰国したのです。

その後、高野山を中心に真言密教を広めて行くことになりました。

「虚しく往きて実ちて帰る」

この空海の言葉は、まさに名も無い留学僧が、大きな教えを授かって戻ってきたということを如実に現しています。

中国密教の大成者「不空三蔵」の生まれ変わりと言われた空海

774年讃岐国(現在の香川県善通寺市)で空海は生まれました。

誕生した日が「不空三蔵」が入滅した6月15日と重なることから、空海は「不空三蔵」の生まれ変わりだとも言われています。

これは空海が日本で密教を広めた第一人者であるために後から無理矢理こじつけたものだという意見もあります。

ですから空海の生まれた日は実際のところはっきりとはしていないというのが事実です。

しかし空海の偉業を考えると「不空三蔵」の生まれ変わり説も全くないとは言えないでしょう。


By 663highland [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY 2.5], from Wikimedia Commons

さて、その空海は幼名を佐伯真魚(さえきのまお)といいました。

空海の父は、国司の下で郡を治める地方官をしていた佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)という役人でした。

それなりの家柄でしたから幼い真魚少年は様々なことを学ぶことができました。

論語や孝経などを学び、792年18歳になると大学へも行き儒学を中心に学びました。

ですがそれだけでは飽き足らず、19歳になると山林での修行をするようになります。

この時から、修行僧「空海」としての彼の人生が始まったのです。

空海と最澄はどのような関係だったのか

比叡山で天台宗を広めたことで有名な最澄は、空海と浅からぬ縁がありました。

空海が一介の修行僧だった頃、最澄はすでに宗教界のエリートとして君臨していました。

しかしこの2人は同じ時に遣唐使として中国へ渡ることになったのです。最澄は当時の天皇から推挙された特待生として。

最澄像 一乗寺蔵 平安時代.jpg
最澄, パブリック・ドメイン, Link

一方空海は名も無い留学生の僧侶でした。

最澄は唐で天台宗を、空海は真言宗を学び日本に持ち帰りました。

最澄も密教を学んだのですが、留学期間が短く空海のように完全にマスターすることができなかったのです。

帰国後、最澄は密教を学ぼうと空海に弟子入りまでしますが、経典の貸し借りを巡って2人は仲違いしてしまったのです。

密教とは経典を読むだけでマスターできるものではないと空海は言いましたが、最澄はこれに理解を示さず決別することになったのです。

一説には一緒に密教を学びに行った最澄の弟子が、空海に惚れ込んで最澄の元を去ったことも原因の1つだと言われています。

仏教界の大きな力を持つ2人が仲違いしたことは非常に残念なことです。

空海の書の力は唐の役人を動かした

空海は唐に渡り書も学びましたが、すでに能書家として優れた力を持っていました。

能書家とは字の上手な人のことを言い、嵯峨天皇・橘逸勢とともに三筆の1人とされています。

その技法は、中国の有名な書家である王羲之などの影響を受けていました。

空海が唐に渡った時彼の乗った船は遭難し、予定の港に着くことができませんでした。

そこでは上陸の許可がなかなか下りず困っている時、遣唐大使に代わって空海が達筆な文字と文章で嘆願書を書き無事上陸が認められたのでした。

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空海の書があまりに見事だったため、相手の心を動かせたのです。

空海の書にまつわる諺もあります。

「弘法筆を選ばず」などは、どのような筆を使っても、空海の書は見事だったということですね。

また「弘法も筆の誤り」という諺もあります。これは空海が文字を間違えて書いてしまったことから、有名な書家も間違いはあるのだという意味に思われがちですが、実のところはその間違えた文字を見事に書き直したことを讃えるものだと言います。

空海は文人として多くの書物を残した

空海は文人としても若い頃から優れていました。

彼が大学へ通っている頃「聾瞽指帰(ろうこしいき)」という当時の儒教や道教を比較したものを書いています。

これは「三教指帰(さんごうしいき)」の初稿本で、現在も高野山金剛峰寺に所蔵されています。

また、空海が高雄山で金剛界・胎蔵界の両界で灌頂を授けた時の人名を記した「灌頂歴名(かんじょうれきめい)」という書物も残っており見事な筆を見せています。

こちらは京都の神護寺に国宝として所蔵されています。

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『風信帖』(第1通目)空海筆
尾上八郎 – 和様書道史, パブリック・ドメイン, Link

詩人としても優れていた空海は平安初期に淳和天皇の命により編纂された漢詩集の「経国集」に8首もの詩が選ばれています。

また多くの若者から詩作の教えを請われたため「文鏡秘府論」を書き、詩の作り方や作文の仕方を解説しました。

空海は弟子の話によると、詩や願文などを草稿なしにすぐに書き上げることができたと言います。

たとえ教本があっても、空海のように書も文も優れたものを作り上げることは容易ではなかったでしょう。

空海が発見したという温泉がたくさん存在する

空海の伝説は北海道を除く各地に存在していると言います。

空海が持っている杖をつくと、水が湧き池となったという話などがよく聞かれます。

水だけではなく、空海は温泉も見つけたと言われています。

代表的な温泉には伊豆修善寺温泉があります。

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修善寺川と独鈷の湯, パブリック・ドメイン, Link

これは空海が修善寺を開いたということから歴史が始まります。

河原で病気の父親の体を洗う少年のために、空海が持っていた独鈷で岩を砕くとそこから温泉が湧出したという伝説が残っています。

また熊本県の杖立温泉なども有名です。

杖をついてやってきた病人が、杖なしで元気に帰れるという空海の力を効能として伝わっている温泉です。

空海の神通力が温泉の効能と相まって様々な伝説を誕生させたのでしょう。

空海は建築家としての才能を発揮した

空海は建築土木の上でも卓越した才能を発揮しています。

高知県にある農業用のため池である「満濃池」の改修工事も空海が手がけています。池からの洪水に悩まされていた民衆のために行ったのです。

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満濃池, パブリック・ドメイン, Link

この時の技術が現在のダム工事にも影響していると言います。

空海は中国に渡っていた間に、土木技術も学んでいたのです。

それだけではなく薬学など多くの分野において学び帰国したのでした。

日本で最初の学校でいろは歌によってひらがなを広めた空海

空海は多くの人が学ぶ必要があると考えました。

そこで日本で最初となる学校「綜芸種智院」を作りました。

身分に関わらず、誰でも仏教や儒教などを学ぶことができたのです。

綜芸種智院があったと思われる九条弘道小学校のあたり

 

その上この学校には、なんと給食制度まであったのです。

生徒も教える者も食べることができたそうです。

時代の先端を行っていたとしか言いようがないですね。

しかし空海の理想も虚しく彼の死後存続が難しくなり売却されてしまったのでした。

人間空海としての死とは

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金剛峯寺(和歌山県高野町), CC 表示 2.5, Link

空海は835年に病気によりこの世を去りました。享年62歳(満60歳)でした。

しかしこれは一般論であり、空海は入定したという説があります。

入定とは生きながら食を断ち、自然に死に至る即身成仏になることを言います。

空海の入定後、四十九日を過ぎても容姿は変わらず髪やヒゲも伸びていたと言われています。

真言宗を信仰する人々や高野山の僧たちは、空海は入定しても生きておられると言います。

ですから高野山では毎日空海の入定したという御廟に食事を運んでいるのです。

人間空海はこの世を去っても、仏として今尚生き続けているのです。

密教界のスーパースター空海なら、この伝説はあって当たり前のことのように思えます。

入定後贈られた「弘法大師」の諡号

空海は没後の921年に醍醐天皇から「弘法大師」の諡を贈られました。

「弘法大師」は空海を超えた存在となっています。

実は天皇から「大師」の諡を贈られた人は27名もいるそうです。

例えば最澄も「傳教大師」の諡があります。

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遍照院内に建つ弘法大師像 By Histwr [GFDL or CC-BY-SA-3.0], from Wikimedia Commons

しかし、「お大師さん」といえば、「弘法大師」空海のイメージが圧倒的に強く、現代でも親しみを込めて「お大師さん、お大師さま」と呼ぶ人々がとても多く見られます。

「お大師さま」として今も高野山の奥の院で生き続けているありがたい存在となっているのです。

空海を信仰する人は「南無大師遍照金剛」とお大師さまを思い唱えながら、高野山や四国の巡礼を続けているのです。

多くの弟子たちにより今も生き続ける空海の教え

空海は多くの弟子たちに囲まれていましたが、その中でも真済をはじめとする10人の優れた弟子を持っていました。

この10人はのちに空海の十大弟子と呼ばれるようになります。

この10人を除いても70人は弟子を持っていたのではないかと言われています。

その弟子たちが、空海の教えを次の世代へと送り続け、現在の「お大師さん」の信仰があるのです。

人は生きながら仏になれるという「即身成仏」などの奥深い密教の教えを、人々に語り継いでいるのです。

空海の広めた「真言密教」は、これからも多くの弟子や信仰する人々によって語り継がれていくことでしょう。

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御廟橋 奥の院・弘法大師廟 聖域への入口
By Reggaeman [CC BY-SA 3.0 or GFDL], from Wikimedia Commons

 

 

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