西川「五寸釘」寅吉。脱獄、脱獄、また脱獄…7回の服役とその活躍

日本

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西川寅吉という人物をご存知ですか?

テレビ番組で取り上げられたこともあり、ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。

明治から昭和にかけて生きた人物で、日本においてもっとも多くの脱獄を行った人物として知られました。またの名を「五寸釘の寅吉」といいます。

寅吉の人生を追いかけながら、脱獄の手口とその後の人生をご紹介していきたいと思います。

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西川寅吉とは


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明治時代の脱獄王ともいわれる西川 寅吉(にしかわ とらきち)は、三重・秋田・樺戸・空知などの監獄で6度にわたり脱獄を繰り返したことで有名な人物です。

五回目の脱獄の際には五寸釘を踏み抜き、そのまま12Kmにわたって逃げ続けたことから五寸釘の寅吉というあだ名を持つに至った人物です。

6度目の脱獄後に移送された網走刑務所で息子に叱責されて反省し、模範囚となり刑期を全うし70歳で出獄しました。出獄後は講演家として活躍しました。

寅吉は少年のころから男気があった。そして賭博好きだった

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西川寅吉は安政元年(1854年)に三重県の松坂市郊外に生まれました。貧しい小作人の4男として生まれました。幼いころから無鉄砲だった彼は、ケンカを繰り返していましたが、弱いものの味方をし、盗みをしたときは仲間と盗んだものを分け合うなど男気のある一面をもっていました。少年時代には仲の良かった叔父に連れられ、賭場に出入りするようになっていました。19歳で結婚し、長男を授かりました。

寅吉は叔父の敵討ちで初めて収監された

博物館 網走監獄

明治時代の監獄風景 網走監獄博物館

る日、寅吉をかわいがっていた叔父が全身傷だらけで帰宅しました。賭場でつくった借金を返済できずヤクザに半死半生の目にあわされてしまいまったのです。叔父はその時の傷がもとで亡くなります。寅吉は賭場に殴り込みをかけ、すでに賭場を閉めて酒を飲んでいたヤクザたちに殴りかかりました。乱闘のさなかに振り回していたこん棒が行燈にあたり賭場は炎上、寅吉は命からがら逃げ去りました。この事件のせいで、彼は放火犯として逮捕されます。放火は重罪で、寅吉は無期懲役の判決を言い渡されました。

寅吉の脱獄1回目 三重監獄で肥溜め桶に潜る

無期懲役の判決を受けた寅吉は、明治15年に三重監獄に投獄されます。投獄された寅吉は、自分は叔父の敵を討っただけなのになぜ自分だけが罰を受けるのかと納得できていませんでした。

そこで彼は1回目の脱獄を行います。寅吉は看守が居眠りしているすきをついて鍵を奪って逃走します。高い壁に阻まれた寅吉はあるところに身を潜めます。それが肥溜めの桶でした。彼は農民が肥溜めから糞尿を運び出す桶に身を潜め、農民が引き取りに来るまで隠れ、桶が牢獄から運び出されるのを待ちます。彼の狙い通り桶は農民によって監獄の外に運び出され、一回目の脱獄が成功しました。

脱獄成功後、彼は空き巣に入ります。そこで得た金を使ってバクチをしてしまいます。そして、寅吉はバクチの取り締まりに来た警官につかまってしまいます。

寅吉の脱獄2回目 秋田集治監の喧嘩に乗じて逃げる

明治17年、寅吉は秋田集治監に投獄されました。二度目の脱獄は明治18年です。今度は囚人仲間のケンカの混乱に乗じたものでした。しかし、わずか二日後に彼を追跡していた警官にあっけなく捕まってしまいました。

寅吉の脱獄3回目 東京小菅監獄で相方と歩調が合わず

明治18年、寅吉は東京の小菅監獄に投獄されました。明治19年、屋外作業中に鎖につながれた相方を説得し脱獄を試みました。しかし、相方は元人力車夫で足がとても速かったため、寅吉とは歩調が合わず、刑務所の3キロ先で逮捕されてしまいます。

寅吉の脱獄4回目 北海道、脱獄の神様はバクチで捕まる

明治19年、寅吉は北海道の空知集治監に投獄されました。このころになると寅吉は脱獄の神様として囚人たちからあがめられるようになり、彼らのまとめ役となっていました。明治20年、仲間の囚人が看守を羽交い絞めしているすきをついて脱獄に成功します。しかし、またもバクチに熱中してしまいます。その結果、バクチを取り締まりに来た警官につかまってしまいます。

寅吉の脱獄5回目 五寸釘寅吉誕生。そしてバクチで捕まる

明治20年、寅吉は北海道の樺戸監獄に投獄されました。樺戸監獄は石狩川上流の極寒の地に置かれた監獄です。この極寒の気候が寅吉に世界の脱獄史上、前例のない手口をあみ出させます。

ある日の作業中、寅吉は自らの上着を脱ぎ始めました。それどころか、近くにいた囚人の上着も奪います。なんと、その上着に小便をかけ始めました。そして両手に上着を持ち塀の前に立ちます。彼は上着を塀にたたきつけます。すると、上着は塀にべたりと張り付きました。上着が塀に凍り付き、その吸着力で寅吉は塀を登っていきました。塀を登り切った寅吉は5メートルの高さから地面に飛び降りました。

が、まさにその着地の時、地面にあった五寸釘が足の甲を貫きました。その激痛の中、寅吉は12キロも逃走したのです。足の傷が癒えたのち、寅吉は資産家の家を次々に襲い金品を強奪します。

しかし、またしてもバクチに熱中し警官に踏み込まれて捕まってしまいます。


『明治大正犯罪実話集 : 五寸釘寅吉・高橋お伝』より 国会図書館蔵

寅吉最後の脱獄(6回目) 鍵を作り上げる

明治23年、樺戸監獄へと戻された寅吉は脱獄の罰として厳しく責められます。この責めが彼を再び脱獄へと駆り立てます。今回は脱獄防止のため通常に2倍の鉄球をつけられました。

野外作業中、彼は柔らかい土を懐に入れて持ち帰ります。次に看守のカギに土をあてて鍵の型を取りました。その土の型に便箋用の和紙をより合わせて型にはめていきました。

しかし、これでは固さが足りません。そこで寅吉は食事の米粒を残して根気よく練り上げました。漆喰のように練った米で和紙の鍵を塗り固めていきました。表面には所内でくすねた菜種油を塗りつけました。こうして寅吉は固い鍵を作り上げてしまいました。この特製の鍵を使い足かせと監房の鍵を開けて脱獄に成功しました。

警察は威信をかけて必死の操作を行い寅吉を逮捕しました。

寅吉は「義賊・五寸釘の寅吉」となった

脱獄歴六回の記録保持者 五寸釘寅吉の生涯
山谷一郎『脱獄歴六回の記録保持者 五寸釘寅吉の生涯』

脱獄中、また資産家の家に盗みに入った寅吉でしたが、奪った金があまりに多かったのでその一部を貧しい人々にばらまきました。この噂が方々に広がり新聞が「義賊・五寸釘の寅吉」として書きたてました。この時、脱獄常習犯だった寅吉は庶民のヒーローとなりました。

寅吉は模範囚として網走刑務所で服役した

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網走刑務所 By 663highland投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, Link

明治30年、寅吉は網走刑務所に投獄されました。寅吉は6回の脱獄と窃盗の罪が加わり無期懲役を3回言い渡されていました。

そんな寅吉のもとに意外な面会者が現れます。20年ぶりに合う妻のゆきと20歳になった長男の松吉でした。松吉は父寅吉に「いつまでこんなことをつづけるんだ!」厳しく叱責しました。

これが、寅吉の胸に響きました。以後、寅吉は模範囚となりました。現在の国道12号線にあたる札幌~網走間の直通道路の工事では荒くれ者の囚人たちを統率して工事にあたったといいます。

寅吉は出獄後、劇団を結成した


巡業していたころの寅吉のプロマイド 北海道月形町公式サイトより

大正13年9月、寅吉は服役態度などが評価され刑の特別停止命令を受けました。これにより、晴れて出所することができました。

出所しても何をして良いかわからなった寅吉にある興行師が劇団を結成することを持ちかけました。こうして寅吉は五寸釘寅吉劇団を結成します。

戸締りの秘訣や自らの獄中談などを演目として講演しました。劇団はなかなかの人気を博し、中国・台湾まで巡業しました。

あまりの人気に1枚10銭の五寸釘寅吉ブロマイドまで発売されました。これは盗難除けの魔除けとして重宝されたといいます。彼が死ぬ前に言った言葉は「西に入る夕日の影のある内に罪の重荷を降ろせ旅人」でした。

まとめ

寅吉の人生はまさに波乱万丈でした。単なる脱獄囚として片づけるには惜しい人物ではないでしょうか。脱獄の奇想天外な手口もさることながら、同じ過ちを何度も繰り返して収監されてしまうその姿はなんだか人間臭さを色濃く感じてなりません。講談師として彼からは「自分の姿を人々に見せて、参考にしてほしい」という思いを感じました。

参考:たけし・さんま世紀末特別番組!! 世界超偉人111人伝説(1998年3月26日放送)

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