額田王が分かる7つのトピック 二人の天皇に愛された天才女流歌人

日本

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額田王(ぬかたのおおきみ)は、日本最古の歌集である『万葉集』を代表する女性歌人です。
最初大海人皇子(天武天皇)に嫁ぎ、のちに天智天皇(大海人皇子の兄)に仕えました。
歌人としても、皇族としても有名な彼女ですが、出自や生年ははっきりとしていません。

額田王
記事アイキャッチ:額田王の人生を描いた漫画
藤田素子『額田王』(世界文化社)

しかし、天武天皇と天智天皇という二人の男性に愛された女性の謎めいた生涯は、現在に至るまで多くの研究がなされ、舞台、ドラマ化や漫画化もされています。

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額田王とは

額田王は今から約1300年前、飛鳥時代に活躍しました。出生については諸説ありますが、皇族から4〜5世離れた王族とされています。
630〜640年頃生まれ、最初は侍女として宮仕えをしていましたが、19歳頃、3歳年下の大海人皇子の妃となり、娘である十市皇女を産みます。

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額田王が大海人皇子と過ごした飛鳥京(奈良県高市郡明日香村)の遺構
By Saigen Jiro投稿者自身による作品, CC0, Link

額田王は先代の皇極天皇の頃から歌詠みの才能を発揮しており、それを中大兄皇子(大海人皇子の兄)がみそめたことから、三人の三角関係が始まります。

 

夫・大海人皇子の兄である中大兄皇子は、有名な大化の改新などでその政治的手腕が知られていますが、天智天皇として即位する前には、数々の策略で政治的ライバルを攻略した人物です。

兄は天皇に即位した後、額田王を側に置くために、弟に自分の娘4人と交換しようと持ちかけます。

辣腕で知られる兄の要望に逆らえず、弟 大海人皇子は妻である額田王を手放したとみられています。

額田王は16歳くらいから宮仕えを始めた

額田王の出生には謎が多く、家族である鏡王も、父か姉か、はっきりとしていません。

「王」と呼ばれるのは、天皇から二世~五世の皇族なので、彼女も王族の女性です。

ほぼ同時代に活躍した10歳下の持統天皇については、日本書紀に多くその記述が残っていますが、額田王は、天智天皇の后となったにも関わらず、ほとんど登場しません。

彼女の生涯は記録がないため、不明な部分が大変多いのです。

『万葉集』には、皇極天皇の行幸に従って詠んだ回想の歌で最初に登場します。

額田王は初め16歳くらいで宮廷に出仕し、のちに妻となる中大兄皇子と大海人皇子兄弟の母である、皇極天皇に選ばれて、側近歌人となっています。

京都にある風俗博物館のウェブサイトでは、当時宮廷仕えしていた女性の模型を見ることができます。

http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000015

額田王もこのような装いだったのでしょうか。

額田王(19歳)は大海人皇子(16歳)の后となる

当時、皇子など、身分の高い男子には、元服時に年長の女子を選んで、添い寝をさせる風習がありました。

その相手に選ばれた女性を「添臥(そいぶし)」といいます。添臥に選ばれた女性がそのまま正妻になることも多くありました。

額田王は最初の夫である大海人皇子より3、4歳年上と考えられており、后として十市皇女を産んでいることから、仕えていた皇極天皇から、息子の添臥に選ばれたと考えられています。

額田女王 (新潮文庫)
額田王の一生を描いた
井上靖『額田女王』(新潮文庫)

大化元年(645)、額田王19歳のころ、大海人皇子16歳の最初の后となりました。結婚して1~2年後には娘である十市皇女が生まれています。

出仕してわずか3年の間にこれだけ重用されるのは、数多の歴史小説で語られてきたように、美貌のためであったかもしれませんし、彼女の謎に包まれた生い立ちに秘密があるかもしれません。

天智天皇は娘4人と引き換えに額田王1人をもらい受けた

先述の通り、『日本書紀』は額田王に関して、

天皇、はじめ鏡の王の女額田の姫王を娶(め)して、十市の皇女を生みたまひき

と、たった1行しか記していません。

しかし、同時期に活躍した持統天皇については多くの記述が残っています。

『日本書紀』の編纂には、持統天皇の側近である藤原不比等(ふひと)が深く関わっています。

持統天皇は、もとは天智天皇の娘です。

天智天皇は額田王1人をもらい受ける代わりに、後の持統天皇を含む4人の姉妹を後妻として大海人皇子にさしだしたのです。

藤田素子『額田王』(世界文化社) 5ページ
額田王関係略図
藤田素子『額田王』(世界文化社) 5ページ

さらに額田王は、天智天皇と天武天皇双方から后として迎えられています。

正史である『日本書紀』に額田王についての記載が少ないのには、持統天皇の権威を重視した不比等の思惑があったのかもしれません。

藤原氏は物部氏に近い額田王を「正史」から消した?

政治的な側面から見れば、額田王は藤原氏よりも、物部氏に近しい存在でした。

藤原氏が大化の改新で蘇我氏を倒すおよそ60年前、物部氏は、蘇我氏に内乱で敗れて政治の中枢から去っています。

このとき物部氏は仏教伝来を受け入れず、日本古来の神道を守る立場として戦いましたが、その60年後、額田王が活躍する時代には、天皇家の祭祀を担当する役割を担っています。

額田王の出自には諸説あります。

  1. 大和国(奈良県額田部)に由来のある、額田部氏に三輪山の巫女として養育された説
  2. 額田王の父とされる鏡王は、近江の鏡山の山麓にあった、鏡神社(滋賀県蒲生郡竜王町鏡)の神官であったという説

などです。

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『額田王の謎「あかねさす」に秘められた衝撃のメッセージ』
梅沢 恵美子(PHP文庫)

額田王と物部氏の関係は、はっきりとしていませんが、いずれにしても、額田王は、実際に公的立場で儀礼歌を多く作っています。祝いや祭祀の場で祈りをささげる、巫女的な役割を果たしているのです。

不比等からすれば、藤原氏の正当性を述べるチャンスでもある『日本書紀』に、藤原氏の対抗勢力の物部氏に近しい額田王については、あえて記載しなかった可能性もあるのです。

出生にも晩年にも謎の多い額田王

天智天皇(中大兄皇子)の死後、弟である天武天皇と、天智天皇の息子である大友皇子の間で内乱が起きます。古代史最大ともいえる、有名な「壬申の乱」の勃発です。

これは、額田王にとっては、元夫である天武天皇と、娘婿である大友皇子との争いという、痛ましい戦いでもありました。

結果、大友皇子は自害、その5年後、後を追うように娘である十市皇女も自害してしまいます。

額田王の晩年については、その消息を残す情報がありません。

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額田王の生涯を演じた『あかねさす紫の花』宝塚歌劇団

『万葉集』には額田王の長歌三首、短歌九首の合計十二首が記載されています。高市皇子、大海人皇子、弓削皇子から額田王への贈答歌や挽歌が残されており、少なくとも60代前後までは確実に生存していたと推測されています。

一説によれば、臣籍降下して、80歳近くまで生きたとする見方もあります。

彼女の波乱万丈の生涯がうかがいしれます。

額田王と大海人皇子は別れてからも想い合っていた

引き離された額田王と大海人皇子。

額田王は離れた元夫、大海人皇子に対して、このような歌を贈ります。

茜さす紫野ゆき標野行き野守は見ずや君が袖振る

第38葉(巻1・20 – 21)

これは天智天皇が臣下とともに狩をした際に、額田王が大海人皇子に向けた歌です。

歌の内容といえば、「こんなところで貴方がそんなに手を振ったら、野守に見つかってしまいますよ」といったもので、お兄さんにバレるから気をつけて、とたしなめているのです。

これに対して元夫・大海人皇子は

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾(あれ)恋ひめやも

第38葉(巻1・20 – 21)

「美しいあなたのことをなぜこんなにも恋しく思うのでしょうか。あなたは恋をしてはいけない人妻だというのに」と、堂々と恋心を返しています。

ただこの歌が詠まれたのは、額田王の歌の中にもある標野(しめの)で大きな狩のイベントを催したあとの宴会の席で、そこには額田王、大海人皇子はもちろん、兄である天智天皇も同席しているのです。
このとき三人は40歳ころ。
三人の関係は、人目の多い宴席の場で昔の恋を詠みあえるほど、笑って話せるおおらかなものだったのかもしれません。

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あとがき

『万葉集』の中で、皇室歌人の歌の数が最も多いのが、舒明天皇の時代から平城京遷都までの間で、それはすなわち、額田王の生きた時代です。

『万葉集』の中で額田王が歌人としての才能が最も優れていたといわれるのは、収められた歌の質と量ばかりではありません。

実に47年という長い年月にわたって歌を詠み続けていたことにあります。少女時代から晩年まで歌を詠み続けるというのは、並みの才能ではありません。

額田王の生涯は、現在も謎に満ちていますが、当時最高の権力者であった天皇や皇太子のそばで、政治闘争の間に身を置きながらも、第一線で活躍しつづけた、類まれなる女流歌人であったことは間違いないことでしょう。

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