リシュリューを知る21トピック 三銃士の悪役は、偉大な宰相だった

フランス

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リシュリュー枢機卿といえば、アニメや小説の『三銃士』に出てくる悪役として知っている方もいるのではないでしょうか。

彼が実際に残した功績や人物像、生い立ちなどはあまり知られていないと思います。

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リシュリュー枢機卿とは

リシュリュー枢機卿(アルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリュー Armand Jean du Piessis de Richelieu、1585年~1642年)は強国フランスを築くべく尽力した政治家です。

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リシュリュー枢機卿の肖像
By フィリップ・ド・シャンパーニュ – National Gallery, London, パブリック・ドメイン, Link

強国フランスのためには国王の権力固めが必要だと考えたリシュリューは、封建貴族層の影響力を弱めるために、城代の地位を廃止し、貴族が所有する城塞をすべて破壊するよう命じました。

隣国にこれまた強大国のイギリスやスペインが控えている中、フランスとしては当然の政策であったでしょう。もっとも、圧政ともいうべき施策のために多くの敵を作ることにもなりました。

また、数々の文化政策を推進し、花の都パリを形作るのに貢献した人物の一人でもあります。

強権政治家リシュリューにも意外な一面があった

血も涙もない政治家のように見えますが、彼はふさぎ込むこともあったし、人前で大泣きすることもありました。

大泣きですから、本心にある感情が彼の神経を刺激しやすかったのだと思います。繊細な心の持ち主ともいえるでしょう。

彼のデリケートな一面をよく表した逸話があります。


食事用のナイフ 先端がみな丸い

現代の食事用ナイフは先端が丸いです。しかし当時のフランス社会では先端はとがっていて、それを食後、爪楊枝のように使う習慣がありました。なんとも醜いと特に女性たちは思っていたので、先端を丸くするようになりました。

その発端がなんとリシュリューだったのです。自宅に招いた身分の高い客が食事が終わって、ナイフで歯をつつきだすと、リシュリューが激怒、召使に命じて先端を丸く削らせたのです。
これが貴婦人たちにも伝わって、みんながナイフを丸く削りはじめました。

虚弱なリシュリュー少年、聖職者の道へ進む

リシュリューはフランス西部ポワトー地方に領地を持つ小貴族の家庭に、パリで生まれました。5人兄弟の4番目、三男でした。生まれた時は、虚弱で熱があり、生死を危ぶまれました。

父は軍人であり、国王アンリ3世につかえる身分でした。母は議員でもあった弁護士の娘でした。家柄自体は小貴族でしたが、非常に名誉ある家系に彼は生まれたのです。

しかし父はリシュリューが5歳の時に、カトリックとプロテスタントの対立戦争、いわゆるユグノー戦争で戦死してしまいます。

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ユグノー戦争「サン・バルテルミの虐殺」
Byフランソワ・デュボア , Musée cantonal des Beaux-Arts Lausanne パブリック・ドメイン, Link

残されたリシュリュー少年は9歳でパリの学校に入り、やがて軍人を目指すようになります。
しかし家庭の事情で彼には聖職者への運命が待っていました。もともとリシュリュー自身も学問は好きだったので、これを受け入れました。虚弱な体質が軍人には向かない、ともしかしたら彼自身思っていたのかもしれません。

リシュリューは22歳にして司教になった

リシュリューは22歳(21歳という説もあります)で、リュソンの司教に任命されます。本来ならば26歳にならなければなれない職です。それがなぜなれたのか。リシュリューの長兄アンリが国王の側近であり、働きかけたこともあったからです。
リシュリューはローマに行き、ローマ教皇から正式に司教の聖職位を授けられました。


リシュリューの任地、フランス・リュソン

当時のリュソンの街はユグノー戦争で破壊されつくしていました。リシュリューは町の再建に取り組みます。具体的には司祭の養成に励み、司牧と呼ばれる信徒を霊的に導く儀式を行うように努めました。

リシュリューはこの町で思い切った行動に出ます。それはカトリックによる教会改革です。リュソンはプロテスタントが強いところでした。この「教会改革」とはイタリアのトリエント公会議で決定された、プロテスタントの抵抗運動に対するカトリックの対抗策でした。

それをリシュリューはフランスで初めてやったのです。

全国三部会でリシュリューは頭角を現した

29歳の時、リシュリューはポワトーの聖職者たちの求めに応じて、ポワトー代表として、全国三部会に出席します。三部会とは三つの身分(聖職者・貴族・第三身分)ごとの国会みたいなものです。ルーブル美術館で有名な建物ルーブル宮で開かれました。

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1789年の三部会の様子
オーギュスト・クーデル作 パブリック・ドメイン, Link

この時の三部会で、トリエント公会議布告への同意が決定されました。その旗振り役となったのがリシュリューだったのです。三つの部会のうち、聖職者で構成される第一部会は、会議の最終日に請願などの演説をする役目をリシュリューにたくしました。

彼の演説は、摂政だったマリー・ド・メディシスやその寵臣の目を引きました。これにより、リシュリューは会議の後、ルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュの司祭として宮廷入りを果たします。

リシュリューは政界入りするも失脚を余儀なくされた

当時の宮廷は国王ルイ13世がまだ9歳だったので、母后のマリー・ド・メディシスが摂政となり、実権を握っていました。リシュリューはマリーの寵臣で大物政治家だったコンチーノに仕えて、政治に携わりました。

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マリーの寵臣コンチーニ
By ダニエル・デュモンスティアー
– Paris, musée du Louvre, D.A.G. Agence photographique de la Réunion des musées nationaux (RMN), http://www.photo.rmn.fr,
パブリック・ドメイン, Link

リシュリューは国務卿となって外交を担当しました。
ところが母后とコンチーニの政策は不人気で、たくさんの敵を持っていました。1617年、リシュリュー32歳の時、ついに彼らの政権は倒されてしまいます。

ルイ13世は新たにリュイヌ公を権力者として用いることにします。そして母后やコンチーニという後ろ盾を失ったリシュリューは政界から追放されてしまいました。

リュイヌ公の死により、リシュリュー再び権力を掌握する

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ルイ13世の寵臣リュイヌ公
By Photographed 2005-07-19 by Marc Baronnet, パブリック・ドメイン, Link

国王ルイ13世はリュイヌを寵臣として用いました。
一方、幽閉されていたマリー・ド・メディシスは脱獄し、貴族たちを集めて反乱の機会をうかがっていました。

リシュリューはこのころ国王の不興によりアヴィニョンへ追放されていました。
貴族たちの反乱を危惧した国王側はリシュリューに母后たちの説得に当たらせました。これを見事に彼は成功させます。結果、国王と母后は調停を成立させ、マリー・ド・メディシスは自由の身となりました。

この時期、国王の寵臣であったリュイヌ公はユグノー(カトリック側がプロテスタントを指すときの呼称)を攻撃に出向いていましたが、そこで自ら率いる国王軍にチフスが蔓延し、自らも死に至ってしまいます。

リュイヌ公が死ぬとリシュリューは再び権力を得ようと努めました。

嫌々ながらも国王がリシュリューを枢機卿に任命した理由

37歳の時、リシュリューは枢機卿に任命されます。任命権者は国王ルイ13世です。この時国王はリシュリューのことを悪魔のように憎んでいると思っていたそうです。
それなのになぜ、枢機卿に任命したのか。やはり母后の後ろ盾が大きかったからでしょう。母后マリー・ド・メディシスはルイ13世にリシュリューの国務会議入りを推薦していました。
ルイ13世は治世の初期は実権を母后マリー・ド・メディシスに握られていていました。

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ルイ13世 実権は母后が握っていた
By Philippe de Champaigne (1602-2015) – Europicture.de, パブリック・ドメイン, Link

また、ユグノー(プロテスタント)の反乱の危機が差し迫っており、助言者として国王にはリシュリューが欠かせない存在になりつつあったのです。

宰相リシュリューの施策① 王権の強化

枢機卿となった2年後、彼は首席顧問官に任命され、事実上宰相の地位を生涯続けることになりました。

宰相になってすぐ、彼には北イタリアのある渓谷でのスペインの攻撃に対処しなければなりませんでした。対抗策としてリシュリューはプロテスタントの拠点であるスイスの別の渓谷を支援し、軍事力を用いて、教皇軍を駆逐してしまいます。プロテスタントを支援したことはカトリックが強いフランスで多くの敵を作ることになりました。

また宰相リシュリューの二大政策の一つである王権の強化のため、剣を持っている貴族の反乱につながらないよう、貴族の悪習であった決闘を禁止し、違反したものを容赦なく処刑しました。

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アレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの決闘(1804年)
By Illustrator not identified. From a painting by J. Mund. – Lord, John, LL.D. (1902). Beacon Lights of History. Vol. XI, “American Founders.” (London: James Clarke and Co Ltd. Republished as a Project Gutenberg eBook, 2004-01-08. eBbook no. 10644., パブリック・ドメイン, Link

宰相リシュリューの施策② ハプスブルクへの対抗

宰相となっての二大政策のうちのもう一つがハプスブルグ家への対抗でありました。ハプスブルグ家は欧州に広大な領土を持つ王侯の家系です。

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フランス(ピンク)を取り囲むようにハプスブルク家()の領土が広がっている。
1600年のヨーロッパ GFDL, Link

ハプスブルグ家はいろんな王家と結びつき、フランスを包囲する形の領土を取っていきました。これに対してリシュリューはスペインに宣戦布告をしたのです。

これはフランス・スペイン戦争と呼ばれ、北イタリアの公国の跡継ぎが途絶えたのにつけこみ、フランスが北イタリアに侵入してきた戦争でありました。

リシュリューの生きているうちは叶いませんでしたが、フランスはこの戦争に勝利し、スペイン系ハプスブルグ家のヨーロッパでの覇権を失わせることに成功したのです。

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フランス・スペイン戦争 (1635年-1659年) ロクロワの戦い
By フランソワ・ジョセフ・ハイム, パブリック・ドメイン, Link

リシュリューは三十年戦争に必死に抵抗する

1630年ごろ、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世はドイツで抵抗するプロテスタントをほとんど壊滅状態にします。

これを恐れたスウェーデンにリシュリューは資金を与えたうえに、参戦したスウェーデンと同盟まで結びました。スウェーデンはプロテスタントが強い国です。その国を援助し同盟も結んだわけですから、リシュリューはローマ・カトリック教会から裏切り者と非難されました。
それもこれもフェルディナント2世の影響力を警戒したからです。

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フェルディナント2世 三十年戦争を引き起こした張本人とされる
By Georg Pachmann (c.1600 – c.1652)Kunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., パブリック・ドメイン, Link

フランス・スペイン戦争により三十年戦争に参戦したことになりますが、当初は劣勢でした。皇帝軍にパリの近くまで攻め込まれたほどでありました。

リシュリューの没後、アンギャン公とテュレンヌという彼が取り立てた二人の軍人が、フランス軍の先頭に立ち、活躍しました。

諜報網で身を守ったリシュリューも、病には勝てなかった

多くの敵を作ったリシュリューは数々の陰謀に巻き込まれそうになりました。彼も蜘蛛の巣のように諜報網を張り巡らしていたので、事前に察知して、陰謀者を処刑したりしました。

そんな彼も病にむしばまれていきました。担架に乗ってまで軍隊の指揮に出向いていたほどですが、それもかなわなくなり、後継者を指名することになりました。マザランです。


リシュリューの後継者マザラン枢機卿
By http://www.histoire-image.org/site/oeuvre/analyse.php?i=1272, パブリック・ドメイン, Link

リシュリューは浸食性潰瘍を患い、ほかにも様々な身体に不調を抱えながら、ついに臨終の床へ着きます。
1642年12月4日、リシュリューは57歳の生涯を閉じました。

バスティーユを始めて牢獄として使ったのはリシュリューだった

バスティーユ牢獄をご存知の方も多いと思います。フランス革命で襲撃された政治犯の収容所として有名です。

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後のフランス革命におけるバスティーユ襲撃
By Bibliothèque nationale de France, パブリック・ドメイン, Link

ここをはじめて政治犯を収容する牢獄として使ったのがリシュリューなのです。
リシュリュー以前にも、バスティーユ自体もともと刑務所としての役目を果たしていました。1370年に建てられた国立刑務所の一つで、パリを守る要塞としての役割もありました。
現代の日本人が持つ「バスティーユ」のイメージはそれから200年以上たってリシュリューが作り出したものなのです。

リシュリューは芸術家の有名なパトロンだった

リシュリューは現存するアカデミー・フランセーズを特許状まで出して創設し、自らパトロンとなりました。
アカデミー・フランセーズは当初、非公式の文人サークルでした。1626年ころから王室秘書の邸宅に文人たちが会合を持ったのが、きっかけでした。

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アカデミー・フランセーズ By Nitot , CC 表示-継承 3.0, Link

それがリシュリューの尽力により、いまではフランス学士院を構成する5つの団体の一角を占めています。
現代でも定員40人で終身資格を与え、小説家のみならず医師や科学者から軍人まで幅広い面々がそろっています。
リシュリューは学会の保護者となり、1672年以降は歴代のフランスの国家元首がこの地位についています。

強権政治ばかりでない、リシュリューの芸術政策

リシュリューは「芸術は君主の意向を示す有効な手段である」とみなしていました。カトリックの政治都市パリをローマ以上の芸術の都市たるべしとも思っていました。
また、ルイ14世の出生に伴い、それにふさわしくするべく、ルーブル宮殿の大回廊の装飾を画家に依頼しました。長さ約425メートル、幅約8.5メートルの巨大な空間でありました。残念ながら現存はしていません。


ルイ15世時代のルーブル大回廊
作者不明、引用元 望月典子「フランス古典主義の成立に関わるリシュリューの政策と画家プッサンの役割」

依頼された画家は装飾に当たり、現国王ルイ13世と彼につかえるリシュリューを称揚するようなデザインを意識していたようです。
リシュリューはパリ市内の城館であるパレ・カルディナルの建築も監督しました。この城館は現在パレ・ロワイヤルと呼ばれ、フランス憲法院、文化省、国務院が入っています。

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パレ・カルディナル(現在のパレ・ロワイヤル)
By Marie-Lan Nguyen, パブリック・ドメイン, Link

リシュリューは芸術のために自分の城と街をつくった~リシュリューゆかりの地

パレ・カルディナルを建てるよう命じられた建築家は、アンドル・レ・ロワールにあるリシュリュー一族の伝来の領地の城の建築と、市街の整備も任されました。
その結果完成したのがリシュリュー城とリシュリュー市街です。
この城にはミケランジェロやルーベンス、プッサンの秀作がそろっていましたが、フランス革命の時期におこった城の解体とともに、作品も散逸されました。

 

リシュリュー城とリシュリュー市街(いずれも作者マロ)
引用元 阿河雄二郎「幻のリシュリュー城」

 

ゆかりの地として、リシュリュー通りと名のつけられた街路がパリ市内にあります。

パリ中心部にあるリシュリュー通り
Googleマップより

 

パリ在住の料理研究家・宮内好江さんのサイトには、リシュリュー通りのいろんな写真が掲載されていて、雰囲気がわかります。

http://happy.ap.teacup.com/123789/1380.html

リシュリュー通りには日本人向けの不動産屋「パリ不動産」もあります。看板も日本語です。
ミッテラン通りなどパリ市内には著名人にちなんだ通りがありますが、リシュリューの名の通りもあるということは、やはり彼がフランス歴史上において重要な人物だったことがうかがえます。

『三銃士』のリシュリューには二つの顔があった

日本人がリシュリューを知っているのはやはり三銃士というアニメや小説があったからだと思います。
現実のリシュリューと小説などとでは脚色がされていますから、違うのは当たり前です。
では三銃士ではどのようにリシュリューは描かれているのでしょう。

アニメ三銃士(1987~1989)
©NHK

連続人形活劇 新・三銃士(2009~2010)
©NHK

まず、1980年代後半に放映されたNHKのアニメ三銃士では、リシュリューはやはり敵対するイギリスやスペインを警戒していました。そしてアンヌ王妃とルイ13世の仲をさこうと画策します。でもそれはフランスのためでありました。アンヌはスペインの出身だからです。

次に2010年ころに放映された連続人形活劇「新・三銃士」ではアンヌ王妃に横恋慕を抱いています。しかもデュマの原作では中年だったのに、この活劇では老人になっています。相変らず裏で謀略を練る黒幕として描かれています。

最後にデュマの書いた本来の「三銃士」を見てみましょう。これは正確には「ダルタニャン物語」として文庫本で11冊にも及ぶ大小説です。俗に「三銃士」とも呼ばれる部分と、NHKで放映された部分は前半のほんの一部にすぎません。鈴木力衛訳で講談社文庫から発売されていたのですが、絶版になっています。お読みになりたい方は古本やネットオークションなどで入手してください。

デュマの描いたリシュリュー像は前半ではダルタニャンの敵役、後半ではダルタニャン含む三銃士を認め、手下にしようと画策しています。
いずれにしろ、黒幕という側面と、国家のためを思った政治家としての側面を、併せ持った人物として描かれています。


『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』
(c) 2011 Constantin Film Produktion GmbH, NEF Productions, S.A.S.,and New Legacy Film Ltd. All rights reserved.

軍艦になったリシュリュー

1935年、フランスのブレスト工廠で起工し、1939年に進水した海軍の戦艦がありました。イタリア海軍への対策として建造された、この戦艦はリシュリューと名付けられました。言うまで間でもなく、リシュリュー枢機卿にちなんで名づけられたものです。

竣工当時のリシュリュー。まだ前部測距儀が三段である。
戦艦リシュリュー パブリック・ドメイン, Link

この軍艦はリシュリュー級戦艦の一番艦でした。リシュリュー級戦艦とは第一次世界大戦後の条約により、排水量を規制されたフランスの戦艦のことです。排水量の規定を守りながら装甲と射撃能力を維持することにはイギリスも悩み、フランスも同じように模索した結果生まれたのがリシュリュー級戦艦でした。

戦艦リシュリューはイギリスとの闘いであるダカール沖海戦やインド洋での戦い、そして戦後は第一次インドシナ戦争に参加するなど、目覚ましい活躍を遂げました。大統領をのせて航行したほどであります。
現存はしていません。1958年に予備役となった後、1968年に解体されました。

「ペンは剣よりも強し」はリシュリューが言った?

「ペンは剣よりも強し」という格言は誰もが耳にしたことがあると思います。これは実はリシュリューが言った言葉なのです。といっても、劇中のリシュリューです。
イギリスの作家エドワード・ブルワー=リッドンが1839年に書いた歴史劇『リシュリューあるいは謀略』という劇の中です。
自分の暗殺計画に対して部下が武器を持っていることを強調すると、「ペンは剣よりも強し」と言って、相手側に剣を捨てるよう促したのです。
これは自分の署名によりあらゆる権力を行使してきたリシュリューの経験から出た言葉でしょう。

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「ペンは剣よりも強し」の言葉を残したエドワード・ブルワー=リットン。
しかしいまの用法はリットンの意図したところではない
パブリック・ドメイン, Link

リシュリュー名言集

現実のリシュリューには様々な発言が残っています。一部を紹介します。

リシュリューの名言 その1

 

政策は必要なものを可能にすることである

リシュリューの名言 その2

 

あなたが高く評価されるほど、謙虚で敬意を払う必要があります

リシュリューの名言 その3

 

私たちは低所得の人々を使用してはならない。彼らはあまりにも厳しくて難しい

リシュリューの名言 その4

 

当局は服従を強いるが、理由はそれを説得する

リシュリューの名言 その5

 

すぐに祝福の記憶を失うのはフランス人の悪です

リシュリューの名言 その6

 

計画をゆっくりと追及し、それをもらすことは、それをしないことについて話すのと同じです

 

リシュリューの名言 その7

 

秘密はビジネスの塊です

 

リシュリューの名言 その8

 

国家の政府に良い仕事をするには、多くの意見を聞き、話す必要があります

 

リシュリューの名言 その9

 

国家犯罪の問題では、同情の扉を閉じる必要があります

 

リシュリューの名言 その10

 

もっとも高貴な征服は心と愛情の征服です

 

リシュリュー枢機卿が登場するゲーム

モンスターストライク

モンスターストライクというスマートフォンのゲームがあります。あらゆるモンスターと闘いながら、自分のモンスターを育成してだんだんと強くしていくゲームです。
そのゲームにリシュリュー枢機卿が登場しています。
それほど強い敵ではありません。強さを数値化して言うと、最も強いモンスターは15なのに比べ、リシュリュー枢機卿は3です。
闘うにはスタミナという要素がいるらしいですが、リシュリュー枢機卿を相手にすると50くらいのスタミナを必要とするようです。

 
モンスターストライクでのリシュリュー枢機卿との戦闘場面 ©XFLAG/mixiグループ

相変わらず敵役として出てくるのは、小説やアニメなどのイメージが強いからかもしれません。

まとめ

以上ご覧になってリシュリュー枢機卿の意外なイメージを感じ取っていただければ、幸いです。権謀術数にたけた政治家でもありましたが、それも故国フランスを思ってのことでした。また芸術にも関心を示し、小説やアニメには出てこない一面もありました。
小説などに登場するということは裏を返せば、それだけ存在感があった証拠だと思います。彼は名宰相の部類に間違いなく入るでしょう。
読者の皆さんがますますリシュリューについて関心を持っていただければ書いた甲斐もあったというものです。

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