坂本龍馬が分かる32トピック 幕末の英雄は“落ちこぼれ”から始まった

日本

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幕末に活躍した侍として、最も現代の日本人に馴染みがある坂本龍馬。

様々な立場や意見がぶつかり合い、動乱の世となった幕末期に、持ち前の愛嬌と並外れた人脈で日本を動かしていった坂本龍馬は、一体どのような人物だったのでしょうか。

今回は、坂本龍馬の人物像と、その逸話についてご紹介します。

目次
  1. 坂本龍馬とは
  2. 坂本龍馬は下級武士だけどお金持ちの家に生まれた
  3. 坂本龍馬は背中に毛が生えていた
  4. 坂本龍馬の子供時代は寝小便が治らない落ちこぼれだった
  5. 坂本龍馬には体重113kgの最強お姉さんがいた
  6. 坂本龍馬は剣術の腕は凄かった
  7. 坂本龍馬は人を斬ったことがない?
  8. 坂本龍馬の婚約者は美人な女剣士
  9. 坂本龍馬は10代で世界を学んでいた
  10. 坂本龍馬は江戸でペリー来航を目撃していた
  11. 坂本龍馬は土佐勤王党の最初の加盟者だった
  12. 坂本龍馬が脱藩したときお姉さんが自害した?
  13. 坂本龍馬は勝海舟を暗殺するつもりだった?
  14. 坂本龍馬は平和主義だった?
  15. 坂本龍馬は神戸海軍操練所の塾頭だった?
  16. 坂本龍馬は超筆マメでユーモアもたっぷり
  17. 坂本龍馬は人斬り以蔵に勝海舟の護衛をさせた
  18. 坂本龍馬の奥さんは気が強い京美人
  19. 坂本龍馬の仲間は池田屋事件で殺されていた
  20. 坂本龍馬は超絶不仲の薩長に手を組ませた
  21. 坂本龍馬の亀山社中は日本初の株式会社
  22. 坂本龍馬はオシャレ好きだけど汚かった
  23. 坂本龍馬の命を救ったのは裸の奥さんだった
  24. 坂本龍馬は日本人で初めて新婚旅行をした人だった
  25. 坂本龍馬は長州藩の戦争に参加していた?
  26. 坂本龍馬はいろは丸事件で賠償金をぼったくっていた
  27. 坂本龍馬は船の上で新国家の構想を練った
  28. 坂本龍馬は大政奉還に人生を賭けていた
  29. 坂本龍馬はおでこを斬られて暗殺された
  30. 坂本龍馬死後の日本
  31. 坂本龍馬の名言集
  32. 坂本龍馬ゆかりの地 8選
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坂本龍馬とは

坂本龍馬(本名:坂本直陰、さかもとなおかげ、のちに直柔、なおなり)は、幕末期に活躍した土佐藩出身の脱藩浪人です。

当時の日本は「幕藩体制」といって、江戸に徳川幕府があり、その下に大名がいて、その大名それぞれが管轄している地域(=藩)がありました。つまり当時の日本は、現代のような一つの国ではなく、いくつもの「藩」に分かれていたのです。

ですから日本にペリーが来航して開国を求めてきたとき、それぞれの藩や立場によって意見が分かれました。

「自分たちは日本人である」という意識が薄かったため、日本全体のことではなく、自分たちの藩や組織のことを考えて動く人が大勢いたのです。

そんな中、生まれ育った土佐藩から脱藩し、「藩」ではなく「世界の中の日本」という広い視野を持った坂本龍馬は、敵対する薩摩藩と長州藩に同盟を組ませ、大政奉還へと導きました。

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坂本龍馬
By 上野彦馬写真館にて井上俊三が撮影。
– 高知県立民俗歴史資料館所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

最終的には、明治維新を見ることなく、33歳で暗殺された龍馬ですが、現代でも幕末のヒーローとして、多くの日本人に愛され続けています。

坂本龍馬は下級武士だけどお金持ちの家に生まれた

龍馬は1835年11月15日、土佐藩の下級武士、坂本家の次男として誕生しました。当時はどこの藩でも身分制度は存在しましたが、その中でも土佐藩の身分制度は厳しいもので、上士と下士にはっきりと差別化されていました。

土佐藩における上士と下士の差は非常に大きなもので、下士はどんなに有能な人物であろうと上士に逆らうことは許されず、下士の上士への反発心は相当なものだったといいます。

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坂本家家紋
By MjolnirPants (This file was derived from Kikyomon.jpg:) [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

坂本家は「才谷屋」という屋号を持つ商家で、曽祖父の代に、商人ながら郷士株(下士の中の身分の1つ)を買いました。つまり、商人あがりの郷士ということになります。

土佐藩の武家の中ではとても低い郷士という身分でありながら、坂本家は土佐有数の豪商で、かなりの経済力がありました。

坂本龍馬は背中に毛が生えていた

坂本龍馬の本名は「直陰(のちに直柔)」といい、「龍馬」は幼名で、通称としてその後も使われるようになりました。この「龍馬」という名前の由来には、次のような逸話が残されています。

龍馬の母・幸は、龍馬を産む前日に、龍が胎内に飛び込んでくる夢を見ました。次の日、生まれた我が子を見ると、背中一面に馬のたてがみのような毛が生えており、これを理由に「龍馬」と名付けられたといわれています。

背中の毛は大人になってからも健在だったようで、龍馬の奥さんは龍馬を風呂に入れるとき、背中の毛で石鹸を泡立てて洗っていたそうです。

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坂本龍馬誕生の地
By 663highland投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, Link

また、その他の容貌としては、身長172cm、体重80kg、ウエスト80cm、なで肩で左肩が上がり気味、顔には黒子(ほくろ)が多く、相当な色黒で天然パーマだったといいます。

表情は、いつもニヤニヤしていたという説と、常に仏頂面だけれどなぜか愛嬌があったという説があります。

坂本龍馬の子供時代は寝小便が治らない落ちこぼれだった

世間でのイメージでは「男らしくてかっこいい」印象が強い龍馬ですが、幼い頃の龍馬は意外にも「男らしい」とはかけ離れた子供だったようです。

幼い頃の龍馬は、鼻水を垂らしながら歩いている、臆病で泣き虫な子供だったといわれており、10歳を過ぎても寝小便(よばあ)が治らず、「よばあたれ」とあだ名をつけられ、いじめられていました。

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龍馬の生まれたまち記念館
By 663highland投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, Link

12歳になって塾に通い始めると、勉強についていけず、仲間にバカにされては泣きながら帰る日々を送っていました。塾は結局半年で退塾してしまいます。

理由は上士の子との喧嘩で、この退塾以降、正式に学問を学ぶ機会はありませんでしたが、独学で歌や中国の古典を学んでいたといいます。

坂本龍馬には体重113kgの最強お姉さんがいた

龍馬には三人の姉がいました。その中でも龍馬を厳しく鍛え上げてくれたのが、「乙女」という名の3番目の姉でした。乙女のあだ名は「仁王様」で、身長175cm、体重はなんと113kgもあるかなり巨大なお姉さんでした。

乙女は薙刀、剣術、弓術、馬術、水泳をこなし、さらには琴、三味線、舞踊、和歌にも優れた、まさに文武両道の女性でした。ただし、縫い物や料理は苦手だったといいます。

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坂本乙女
By 不明霊山歴史館蔵, パブリック・ドメイン, Link

龍馬は塾を辞めたのと同じ12歳の頃に、母親を病気で亡くしています。その母親の代わりに、いじめられっ子だった龍馬をなんとか一人前の男に育てようと、乙女は龍馬の母親代わりとなって、剣術、馬術、水泳などを叩き込みました。

水泳の訓練では、泳げない龍馬を近所の川へ連れて行き、竹竿の先に龍馬をくくりつけて泳がせていたといいますから、かなりのスパルタ教育だったようです。

このように愛の鞭で育ててくれた乙女姉さんのことを、龍馬は相当慕っていたようで、脱藩後も乙女宛の手紙を大量に書き送っています。

坂本龍馬は剣術の腕は凄かった

気が弱くて学問も得意ではなかった龍馬ですが、剣術は得意だったといいます。

塾を辞めた2年後、城下にある日根野道場に通い、剣術の稽古を始めます。ここでの修行で鍛えられた龍馬は、弱虫のいじめられっ子から、強くたくましい男子へと成長していきます。

日根野道場では小栗流剣術を学び、19歳で「小栗流和兵法事目録」を授けられ、その頃には身長170cm前後、体重は80kgにもなっていました。当時の日本人男性の平均身長は155cmほどですから、かなりの大男に成長していたのです。

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By フェリーチェ・ベアト – 横浜開港資料館編『F.ベアト写真集2』, パブリック・ドメイン, Link

龍馬の剣の腕を見込んだ父親は、龍馬を15ヶ月間の江戸剣術修行に出します。

江戸に着いた龍馬が門を叩いたのは、数ある剣術道場の中でも名高い「北辰一刀流」の千葉定吉道場でした。

15ヶ月間の剣術修行を無事に終え、一旦土佐に戻った龍馬は、22歳のときに再び千葉道場に戻って修行をします。こうして最終的には「北辰一刀流免許皆伝」を受け、正真正銘「剣の達人」となったのです。

坂本龍馬は人を斬ったことがない?

龍馬は相当な剣の腕を持ちながらも、その生涯で一度も人を斬ったことがないといわれています。果たしてその噂は本当なのでしょうか。

結論からいうと、「詳細は不明だが、人を斬ったことはある」です。

龍馬は基本的に温厚な性格で、仲間が亡くなるたびに大声をあげて号泣していたという逸話や、切腹させられそうになった仲間をこっそり逃がしてあげた等のエピソードが残されていますが、

薩長同盟成立の数日後に起こった寺田屋事件(詳細は後述)で、高杉晋作から貰ったピストルで敵を撃ち殺しています。

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龍馬が愛用していたピストルと同じタイプのもの
By sandy – 投稿者自身による作品, CC BY-SA 2.0 fr, Link

また、海援隊士の1人は回顧録で、「(龍馬は)他人の妻と関係を持った水夫を斬った」と発言していたともいわれていますから、生涯で一度も人を斬ったことがないという噂は、真実ではないようです。

坂本龍馬の婚約者は美人な女剣士

19歳で江戸剣術修行に出た龍馬ですが、その千葉道場で恋に落ちます。

お相手は千葉定吉の次女、さな子という女性です。龍馬にとっては師匠の娘ということになります。

さな子は江戸では有名な美人で、道場の娘らしく武芸には大変優れており、北辰一刀流の免許皆伝で、その腕前は男顔負けだったといいます。

龍馬は乙女姉さんの影響もあってか、気が強い女性が好みだったようで、さな子も相当気が強かったとか。

龍馬は実家宛の手紙でさな子のことを紹介しており、そこには「顔は平井加尾(龍馬の初恋の相手)よりちょっと可愛い」と書いています。

かつて好きだった女性と容姿を比べるなんて、少々失礼な気もしますが、2人はやがて婚約します。

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千葉さな子の墓
By さかおり (talk) – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

しかし龍馬が江戸を離れて国事に奔走するようになると、2人の婚約は自然消滅し、やがて龍馬は別の女性と結婚してしまいます。

それでもさな子だけは龍馬のことを思い続け、龍馬の死後、他の男性と結婚しますが、生涯「私は坂本龍馬の婚約者でした」と言い続けたといいます。

そんなこともあって、さな子の墓碑には「坂本龍馬室」と刻まれています。

坂本龍馬は10代で世界を学んでいた

龍馬といえば、新しいもの好きで好奇心旺盛、外国のことにも興味津々で、どんどん西洋の良いものを取り入れようとしていたことで有名です。そんな龍馬が世界について学び始めたのは、10代の頃でした。

龍馬は幼い頃に母親を亡くし、その後、父親が再婚して継母ができます。その継母の実家にいた川島伊三郎という人のところへ船で遊びに行っては、外国の話を聞かせてもらっていたようです。

画像:Pixabay

伊三郎は「ヨーロッパ」というあだ名で呼ばれるほどの外国通で、下関や長崎に行き来して、世界地図や海外の資料をたくさん所有していたそうです。

龍馬の外国への憧れは、この頃に形成されたといわれています。

坂本龍馬は江戸でペリー来航を目撃していた

龍馬が江戸で剣術修行をしていた頃、ペリー率いる黒船が来航します。1度目の来航では、龍馬は土佐藩の命令で品川の沿岸警備をしており、その目で黒船を見ることはなかったといいます。

このとき、父親宛の手紙には「異国との戦争が起こった際には、異人の首を討って帰ります」という内容を書いています。当時の龍馬は、周りと同じ攘夷思想を持っていたということです。

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黒船来航
By Lithograph by Sarony & Co., 1855, after W. Heine – Library of Congress, パブリック・ドメイン, Link

それから半年後の黒船2度目の来航で、龍馬はついに黒船を目の当たりにします。巨大な鉄の塊である黒船を初めて見た龍馬は大いに驚き、外国の脅威を知ります。

「藩」ではなく「日本」を意識し始めたのは、この頃だったといわれています。

その後、龍馬は江戸で佐久間象山から西洋の砲術を学ぶようになります。日本の剣術だけでは、とてもあの黒船を作る外国には勝てないと考え始めたのです。

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坂本龍馬は土佐勤王党の最初の加盟者だった

龍馬は外国に対する興味を抱いてはいましたが、やはりまだ攘夷思想の持ち主でした。

当時日本国内では、ほとんどの人が攘夷論を唱え、勅許(天皇からの許し)がないままアメリカと不平等条約を結んだ幕府を非難する者が多かったのです。

龍馬が二度目の江戸剣術修行を終え、土佐に戻ったのが1858年の秋のことです。

この頃、江戸では幕府の井伊直弼による尊王攘夷派の弾圧(安政の大獄)が行われており、それに反発した攘夷派志士が井伊を暗殺します。安政の大獄から2年後の1860年のことでした。

井伊直弼が分かる17トピック 出生から安政の大獄・桜田門外の変とその後
1603年江戸に徳川家康が打ち立て265年間続いた江戸幕府。その終焉のきっかけとなったは安政の大獄という恐怖政治でした。それを行った井伊直弼が暗殺された桜田門外の変。井伊直弼という人物は、何を考え安政の大獄を行い、なぜ殺されなければならなかったのかを追っていきたいと思います。

井伊直弼が暗殺されたことで、尊王攘夷の機運の高まりを感じた龍馬の友人、武市半平太は「土佐勤王党」を結成します。当時「公武合体」派だった土佐藩の藩論を「尊王攘夷」に変えることを目指したのです。

半平太が土佐で最初に声をかけたのが龍馬でした。龍馬は土佐勤王党の最初の加盟者ということです。

武市半平太を知るための16トピック 土佐勤王党盟主は愛妻家
幕末の土佐藩において、強烈な尊王攘夷志士の集まりだった土佐勤王党。 この盟主となったのが武市半平太(たけいち はんぺいた)という武士。 彼は一体どんな人物だったのでしょうか。武市半平太の人物像と、その逸話についてご紹介します。

この頃の龍馬は、本をよく読み、多くの人物に会って話を聞き、どんどん政治活動に参加し始めた時期でした。

坂本龍馬が脱藩したときお姉さんが自害した?

最初に土佐勤王党に加盟した龍馬でしたが、およそ半年で勤王党を事実上脱退しています。その理由は、あくまでも土佐藩にこだわる武市半平太の思想に違和感を感じたからだといわれています。

既に「異国と対等に戦うには、日本はどうするべきか」と考え始めていた龍馬は、土佐藩という小さな枠で物事を考えることに限界を感じたのです。

そして1862年の春、龍馬は28歳で生まれ故郷の土佐を脱藩します。この少し前、龍馬の脱藩計画を察した兄の権平は、龍馬から刀を没収しました。

当時、脱藩といえば主君への裏切り行為であり、死罪にもなり得る重罪だったからです。これに関する逸話が残っています。

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龍馬最期の刀は二尺二寸の刀、銘「陸奥守吉行」
By 陸奥守吉行 – 坂本龍馬といろは丸事件(2008年,二葉印刷有限会社), パブリック・ドメイン, Link

武士にとって刀は命のようなものなので、刀を失った龍馬は困り果てました。そんなとき、龍馬に救いの手が差し伸べた人がいました。龍馬の姉、栄さんです。

栄さんは亡くなった旦那さんの形見である「陸奥守吉行」という名刀をこっそり龍馬に渡します。弟の脱藩に加担したのです。

後にこのことが露見し、問い詰められた栄さんは責任を取って自害したといわれています。

しかしこの逸話は、現在では作り話であったことが判明しています。龍馬が脱藩するよりずっと前に、栄が亡くなっていたことがわかったためです。

現在では、実際に龍馬に刀を渡した人物は乙女姉さんだったのではないかといわれていますが、真相は謎に包まれたままです。

坂本龍馬は勝海舟を暗殺するつもりだった?

脱藩後、江戸に到着した龍馬は、剣術修行で世話になっていた千葉道場に転がり込みます。そこで千葉道場の長男・重太郎に紹介してもらい、福井藩主・松平春嶽と出会います。

龍馬を気に入った春嶽は、龍馬に幕臣・勝海舟を紹介します。龍馬はこのようにして人脈を広げていきました。

こうして龍馬は、重太郎と一緒に赤坂にある勝海舟の邸を訪ねます。

勝は元々は身分の低い幕臣でしたが、黒船来航以降、優れた意見書を提出したことで出世し、軍艦奉行並という役職をもらっていました。

ちなみに勝は過去には咸臨丸という船に乗ってアメリカへ行ったこともあり、海外情勢には詳しく、「西洋かぶれ」と陰口を言われるほどの人物でした。

そんな勝海舟は、尊王攘夷派が主流だった当時、命を狙われることも多く、一説には龍馬と重太郎も、元々は勝を斬るつもりで会いに行ったとされています。勝は晩年の回顧録で龍馬のことを「俺を斬りにきた奴」と紹介しています。

Katsu Kaishū2.jpg勝海舟
By 不明。 – 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

しかし、自分を訪ねてきた龍馬たちを見るなり、勝は「俺を斬りに来たんだろう、まあ上がりな」と平気で家に上げ、世界情勢、攘夷の愚かさ、海軍の創設や貿易の必要性などを説き始めます。

その度胸と知識に感服した龍馬は、なんとその場で「あなたの弟子にしてください」と志願。

元々は勝を暗殺しに来た龍馬でしたが、こうして勝の弟子となり、活動を始めるのです。一緒に来ていた千葉重太郎も、さぞかし驚いたことでしょう。

坂本龍馬は平和主義だった?

龍馬は、あくまでも武力で幕府を倒そうとする薩長とは異なり、武力に頼らない平和的な「大政奉還」による倒幕を目指していたといわれています。

できるだけ犠牲者を出さずに日本を変えようとしていたので、「坂本龍馬=平和主義者」というイメージを抱く人が多い人物です。

しかし、時は幕末。戦いを完全に避けて事を成すことは不可能な時代でした。平和主義者で知られる龍馬も、「場合によっては武力行使も辞さない」と宣言しています。

例えば、「日本を今一度洗濯いたし申候」という有名な名言が記された手紙がありますが、実はその手紙には「幕府の卑劣な役人たちを撃ち殺す」とも書かれているのです。

この手紙が書かれたのは、勝海舟の一番弟子として日本中を駆け回っていた1863年の初夏です。

下関砲台 by 写真AC

その少し前、幕府は「5月10日に攘夷を決行する」と宣言しています。しかし当日、下関海峡を通過する外国船の攻撃で攘夷を実行する長州藩に、幕府は全く協力しないばかりか、砲撃された外国船の修理を手伝っていました。

その噂を聞きつけると、さすがの龍馬も怒り心頭に発し、このような手紙を書いたということです。結果的に龍馬がそれを実行することはありませんでしたが、「非常手段として、正義の武力は必要」と考えていたことがわかります。

坂本龍馬は神戸海軍操練所の塾頭だった?

勝海舟に弟子入りした龍馬は、海軍創設のために日本中を駆け回ります。まずは海軍創設のために、一緒に航海術などを学ぶ仲間を集める必要があったのです。

龍馬の呼びかけで集まったのは、土佐出身の望月亀弥太、高松太郎、紀州の陸奥宗光、越後の白峰駿馬などです。

こうして仲間も集まり、将軍の許可も得た勝は、神戸に海軍学校を設立します。「神戸海軍操練所」です。

当時の日本は、海に囲まれた島国でありながら海軍がなく、軍艦さえも持っていませんでした。このような状態では、いつ先進国に侵略されるかわかりません。それを避けるため、勝は海軍を設立しようとしたのです。

勝は晩年の回顧録で、「神戸海軍操練所の塾頭は坂本龍馬だった」と話していますが、脱藩浪人であった龍馬は操練所には入れず、勝の私塾で学んでいたという説もあります。

勝海舟と坂本龍馬の像
by 写真AC

この頃の龍馬は、操練所の設立資金を春嶽公に借りるなどして活躍し、勝に喜ばれています。師匠に喜んでもらえたことがよほど嬉しかったらしく、龍馬は乙女姉さん宛の手紙で、

「天下無二の勝麟太郎(海舟)大先生の門人となって、とても可愛がられています。エヘンエヘン」と自慢しています。

こうして龍馬は、神戸で航海術や外国語、数学などを学ぶようになるのです。

坂本龍馬は超筆マメでユーモアもたっぷり

坂本龍馬は33年間の生涯の中で、およそ600通にも及ぶ手紙を書いたとされています。その中で現存する手紙は約140通。

その手紙には龍馬の人柄がよく表れているとして、龍馬ファンの間では大人気。そんな龍馬の手紙の特徴としては、

  • 時候の挨拶は当然のように無し
  • 相手によって書き方を変える
  • 当時では珍しい「話し言葉」で書かれている
  • ひらがなカタカナを多用
  • 絵をつけてわかりやすく解説することも
  • 誤字脱字の量が凄まじい

などがあります。

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坂本龍馬の手紙
By 坂本龍馬 Ryōma Sakamoto – 京都国立博物館蔵 Kyoto National Museum, パブリック・ドメイン, Link

では、誰に宛てた手紙が一番多いのか?といえば、乙女姉さんです。

乙女姉さんは、龍馬が「こんな手紙が残ったら恥ずかしいから、読んだらすぐに燃やしてください」と書いた手紙も全て大事に取っておいたそうで、可愛い弟からの手紙はとても楽しみにしていたようです。

というのも、乙女姉さん宛の手紙は相当ユーモアたっぷりで面白い内容だったようで、

「風呂場で転んで金玉を割って死ぬ人もいるのに、私は運がいいのでなかなか死なない」と書いてみたり、

勝海舟の一番弟子となったことを自慢する手紙では最後に「この手紙は人に見せても良いですよ」と書いてみたりと、読み手がクスッと笑ってしまう手紙が多く残されています。

坂本龍馬は人斬り以蔵に勝海舟の護衛をさせた

龍馬の遠い親戚で仲良しの土佐勤王党盟主・武市半平太には、可愛がっている弟子がいました。「人斬り以蔵」の異名を持つ、岡田以蔵です。その以蔵に、龍馬は勝海舟の護衛を任せたといいます。

以蔵は土佐藩の足軽という低い身分でありながら剣術には長けており、土佐勤王党の活動として、佐幕派や開国論者を次々と暗殺していました。つまり以蔵にとって、勝は護衛の対象どころか、暗殺するべき敵ともいえる存在だったのです。

人斬り以蔵(新潮文庫)
司馬遼太郎『人斬り以蔵』 (新潮文庫)

しかし以蔵は本来政治には疎く、繰り返していた暗殺も、心酔する半平太の役に立ちたいという思いから行ったものだと考えられ、旧知の龍馬の頼みごとを断りきれなかったのでしょう。

勝の護衛を引き受けた以蔵は、しっかりとその任務を果たします。勝が京都の夜道で襲われた際、以蔵が相手を斬りつけ、勝を救っています。

そのとき勝は、「あまりむやみに人を斬らないほうがいいよ」と以蔵に忠告しますが、以蔵は「私が斬らなければ、あなたが斬られていましたよ」と言い返したといいます。

坂本龍馬の奥さんは気が強い京美人

龍馬が海軍修行に励んでいた頃、運命の女性と出会います。「おりょう」という、のちの龍馬の妻となる女性です。龍馬30歳のことでした。

京都の寺に潜伏していた龍馬の世話係として雇われたのが、おりょうの母親でした。その母親を通じて、龍馬とおりょうは出会います。

元々は裕福な医師の家に生まれたおりょうは、父親が病死したことで一気に貧しくなっていまいますが、持ち前の勝気な性格で困難を乗り越えたといいます。

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若い頃のおりょうと言われている写真
By 不明 – 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

あるとき悪人に騙され、妹が大阪へと女郎として売り飛ばされてしまったおりょうは、自分の着物を売って旅費とし、たった1人で大阪へ向かいました。

そこで妹を拐った悪人と摑み合いの喧嘩を繰り広げ、「殺すぞ」と脅されると「殺されにはるばる大阪まで来てやったんだから、殺してみろ!」と怒鳴り返し、無事に妹を取り返したといいます。

このように非常に気が強い女性だったおりょうですが、その容姿は大変美人だったといいます。

美人で気が強く、ピストルを撃つのが好きだったというおりょう。龍馬は乙女姉さん宛の手紙で、そんなおりょうのことを「おもしろき女」だと紹介しています。

坂本龍馬の仲間は池田屋事件で殺されていた

1864年6月、京都の池田屋で、尊王攘夷派が新撰組に襲撃される事件が起こります。池田屋事件です。

新撰組というのは、幕府が京都の治安を守るために、剣術に優れた浪士を集めた警察組織です。新撰組は、尊王攘夷派にとって恐るべき存在であり、敵でした。

この頃、尊王攘夷派の志士たちは、「京都の街に火を放って、その混乱に乗じて京都守護職の松平容保を殺害し、孝明天皇を連れ去る」という計画を企てていました。

その計画を知った新撰組は、実行される前に止めようと、尊王攘夷派志士の集会所である池田屋を襲撃したのです。

その日、池田屋には龍馬の仲間である望月亀弥太と北添佶磨は、龍馬の反対を押し切って池田屋での集会に参加し、新撰組の襲撃によって死亡しました。

池田屋跡(2010年4月)
現在は居酒屋になっている池田屋騒動跡(京都市)
By mariemon – moved from ja:ファイル:池田屋2774.JPG, CC 表示 3.0, Link

これをきっかけに尊王攘夷派による反乱(禁門の変)が起こり、幕府は過激な尊攘派の取り締まりを強化します。

それにより勝の海軍操練所も「危険分子を育てている」とみなされ、操練所は閉鎖へと追い込まれ、勝は謹慎処分を受けることになります。

勝の失脚により路頭に迷い、さらには共犯者として追われる身となった龍馬と土佐の仲間たちは、勝からの口添えもあり、大阪の薩摩藩邸に逃げ込みました。

薩摩藩は当時、薩英戦争で外国の強さを知ったばかりで、軍事力の増強を目指していました。なかでも海軍の充実に力を入れていたため、龍馬たちのように海軍の勉強をしている若者を、喜んで受け入れてくれたのです。

そのとき龍馬たちを薩摩藩邸に匿ってくれたのが、あの西郷隆盛でした。

坂本龍馬は超絶不仲の薩長に手を組ませた

西郷隆盛の計らいにより薩摩藩邸に身を寄せていた頃、すでに龍馬たち志士は雄藩連合という考えを持っていました。力を持った藩同士が、その力を合わせて日本の政治を動かそうという考え方です。

当時の西日本で最も力を持っていたのが薩摩藩と長州藩で、この両藩が手を組めば幕府と並ぶ勢力となり、日本を良い方向へ導けると考える者はたくさんいました。

しかし薩摩と長州はまさに「犬猿の仲」。これまで幕府が行ってきた長州征伐に、薩摩は幕府側の主力として参加してきたのです。「薩長が同盟を組めたら最高だけど、現実的にそれは無理」というのが、当時の常識でした。

しかし元来常識に囚われない性格の龍馬は、薩長同盟の実現に向けて動き出します。そのとき、ともに薩長の説得に回ったのが、同じ土佐藩出身の中岡慎太郎でした。

2人の奔走によって、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の会談が約束されましたが、直前になって西郷側がまさかのドタキャン。

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西郷隆盛肖像
By エドアルド・キヨッソーネ – Japanese book Kinsei Meishi Shashin vol.1 (近世名士写真 其1), 発行 : 1934 – 1935  Link

激怒した桂に対して仲介人の龍馬は、「私たちが薩摩名義で軍艦や武器を買って、長州に横流ししますから」と提案をします。

当時幕府によって貿易を禁止されていた長州にとってこれは願ってもない話で、さらに龍馬は、薩摩側に対しては「武器のお礼として、長州の米を薩摩に送ります」と言いました。

米が少なく、主食は芋ばかりだった薩摩にとっても、これはいい提案でした。

この後もなかなか折れない両藩をなんとか説得し、1866年、ついに薩長同盟が成立したのです。

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坂本龍馬の亀山社中は日本初の株式会社

薩長同盟成立の際、その条件として「薩摩側は貿易ができない長州のために軍艦や武器を購入すること」が挙げられ、薩摩名義で購入したそれらの品物を長州に横流しするのが龍馬たちの役割でした。

そこで長崎に設立されたのが、亀山社中という日本初の株式会社です。亀山社中は今でいう貿易会社で、長崎には以前から外国人の居留地があり、交易が盛んで何かと便利でした。

亀山社中の規模は20人程度で、そのメンバーは龍馬が土佐にいた頃からの顔なじみであったり、龍馬たちに賛同した各地の志士であったり、さらには町人や医者なども参加しました。

長崎市亀山社中記念館入り口

亀山社中を設立すると、龍馬たちはさっそくイギリス商人のトーマス・グラバーとの取引を開始し、薩摩名義で銃を購入します。亀山社中の仲介があったからこそ、薩長同盟は実現したということです。

坂本龍馬はオシャレ好きだけど汚かった

龍馬といえば、好奇心旺盛で新しいものには目がないことで有名です。ファッションにおいてもそれは同じだったようで、西洋文化も積極的に取り入れていました。

まず、龍馬の写真を見ればすぐにわかるのが、ブーツです。当時の日本人で靴を履いている日本人はほとんどいませんでしたが、走りやすく耐久性もあるブーツを気に入った龍馬は、すぐさま自分のコーディネートに取り入れます。

画像:写真AC

龍馬がブーツを履き始めたのは、おそらく亀山社中設立の頃だろうといわれています。

長崎では舶来品が手に入りやすく、外国商人との交流もあった龍馬は、ブーツのほかに、懐中時計や香水も愛用していたといいます。

龍馬が愛用していた香水はフランス製で、こちらもやはり長崎で手に入れたようです。

お気に入りの香水を、自分の着物にプシュッと付けていた龍馬ですが、その割に着物はかなり汚いものを着ていたようです。

妻のおりょうが晩年の回顧録で、「龍馬は着物を綺麗にすると機嫌が悪くなる」と証言していますし、長州藩の伊藤助太夫という人の奥さんも「坂本さんはいつも汚かった」と回想しています。

しかし着物自体は大変高価なものを好んでいたようで、中岡慎太郎曰く、「なんであんなにおしゃれをするのか、珍しい武士だ」だそうです。

つまり現代でいうと、超高級ブランドのスーツを垢まみれにして着こなして、香水を振りかけているようなものでしょうか。なんともシュールな光景ですね。

坂本龍馬の命を救ったのは裸の奥さんだった

薩長同盟が成立すると、龍馬は当時の定宿・京都伏見の寺田屋で、長州藩の三吉慎蔵と共に祝杯をあげます。三吉慎蔵は長州藩士で、槍の達人でもありました。

当時、まだ薩長同盟の成立は外部に漏れてはいませんでしたが、以前から薩摩志士の定宿だった寺田屋は目をつけられており、「近頃怪しい浪人が出入りしている」と、幕府の監視対象となっていました。

そしてその夜、ついに寺田屋の周りを幕府の役人が囲んだのです。その人数はおよそ100人にも及んだといいます。

そのときお風呂に入っていた妻のおりょうは、いち早く外の異変に気がつきました。

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現在の寺田屋
By Fg2 – 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, Link

そしてわざと2階の龍馬たちに聞こえる声で「誰だ」と叫び、幕府の役人だと知ると、衣服も着ないまま裸で2階へと駆け上がり、龍馬たちに危険を知らせたといいます。

このおりょうの咄嗟の判断があったからこそ、龍馬と三吉はそれぞれピストルと槍を持ち、敵を待ち構えることができたのです。

龍馬たちに危険を知らせたおりょうは、素早く衣服を身につけて、1人で薩摩藩邸へと走ります。100人の捕吏と戦う龍馬たちのために、助けを呼ぼうと考えてのことでした。

おりょうが走っている間、龍馬たちは幕府の役人と戦いますが、そこでピストルを構えた右手をざっくりと斬られてしまいます。

それでもなんとか寺田屋を脱出した龍馬と三吉は、薩摩藩邸に無事保護されました。おりょうがいなければ、龍馬はこのとき亡くなっていたかもしれません。

坂本龍馬は日本人で初めて新婚旅行をした人だった

寺田屋事件によって右手を負傷した龍馬は、その傷が深く、立ち上がると目眩を起こすほどになっていました。

しかし大事には至らず、おりょうのおかげで一命を取り留めた龍馬は、この頃おりょうと結婚します。龍馬32歳、おりょう26歳のときのことです。

西郷隆盛から傷の療養のためにと鹿児島旅行を勧められた龍馬は、おりょうを連れて鹿児島へ向かいます。これが日本人初のハネムーンといわれています。

2人は、鹿児島で傷によく効くと評判の温泉に入ったり、魚を釣ったりピストルで鳥を撃ったりして、のんびりと過ごしました。

霧島山に登ったときには、付き人が必死に止める中、2人は山頂に刺さっていた「天の逆鉾」を面白がって勝手に抜きます。仲の良いやんちゃな夫婦だったようです。

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天の逆鉾
By Yanajin – Yanajin, CC 表示-継承 3.0, Link

龍馬はこの霧島山の登山がよほど楽しかったようで、このときの様子を細かいイラスト解説付きの手紙にして乙女姉さんに送っています。

坂本龍馬は長州藩の戦争に参加していた?

龍馬が新婚旅行から戻った頃、薩摩藩から軍艦や武器を送ってもらい少しずつ力を回復していた長州藩は、再び幕府への反意を表し始めます。

そこで幕府は2回目の長州征伐を計画。全国の諸藩を集めて長州を攻撃しようというのです。

しかし、ここで幕府にとって想定外なことが起こります。長州征伐の主力として頼りにしていた薩摩藩が、出兵を拒否したのです。

これはもちろん、薩長同盟があったからです。幕府は止むを得ず薩摩なしで長州を攻撃し始めました。

薩摩の出兵ががないとはいえ、長州軍400人に対して幕府軍は10万人もおり、人数的には圧倒的有利でした。しかし、最新鋭の西洋式軍備を整えた長州側の力は大きく、互角の戦いが繰り広げられました。

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高杉晋作。長州側で軍艦の指揮をとった。
By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, Link

そして幕府側は不運なことに、この戦争のさなか、当時の将軍・徳川家茂が突然の病死してしまいます。

幕府は止むを得ず撤退することとなり、形式上ではあるものの、「長州が幕府に勝った」という事実が、日本中を驚かせました。

龍馬はこの戦争を見物したかったようで、長州の桂小五郎に「野次馬させてほしい」と手紙を書いています。

また、高杉晋作が指揮をとる船に乗り込んで、実際に幕府側への砲撃を行ったともいわれており、龍馬はこのときの戦争の様子を海戦図にして、お兄さんへの手紙で報告しています。

坂本龍馬筆 下関海戦図(複製)
坂本龍馬筆 下関海戦図(複製)
所蔵品|高知県立坂本龍馬記念館

坂本龍馬はいろは丸事件で賠償金をぼったくっていた

1867年1月、龍馬は以前は敵同士だった土佐藩上士・後藤象二郎と和解し、手を組みます。薩長に遅れをとりたくない土佐藩と、過去の因縁にこだわらず日本のために動きたい龍馬の利害が一致したためです。

これによって亀山社中は「海援隊」と名を改め、土佐藩の支援のもと、より大きな活動ができるようになります。海援隊では、海外に関する書籍を出版したり、航海術や語学を学ぶ塾としての機能を果たしたりしました。

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海援隊(左から3人目が龍馬)
By 不明 – 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

この年の4月下旬、龍馬は小型蒸気船「いろは丸」を走らせて、長崎から大阪へと移動していました。しかしその航海中、紀州藩の巨大な蒸気船と衝突し、いろは丸は積荷と共に沈んでしまいます。

紀州藩の船が突っ込んできたせいで船を失った龍馬は、紀州藩が国際ルールを知らないのを良いことに、交渉に「万国公法」を持ち出します。

そして「国際ルール的に、悪いのは紀州藩のほうだ」と言い張り、多額の賠償金を要求しました。

しかしこのとき、実際にはその国際ルール上、違反をしていたのは龍馬たちいろは丸側だったといいます。それでも荷物も船も沈められた龍馬は、それを内緒にして大金を要求。

さらには、しぶる紀州藩に追い打ちをかけるように、花街で「船を沈めたその償いは 金を取らずに国を取る」という歌まで流行らせて世論を動かし、圧倒された紀州藩から賠償金をぼったくったのでした。

坂本龍馬は船の上で新国家の構想を練った

この頃、薩摩と長州はともに、武力によって幕府を倒そうという「武力倒幕」を目指していました。しかし一方で、龍馬は血を流さずに幕府を終わらせる方法を考えていました。それが大政奉還論です。

この大政奉還論を含む8つの新国家構想を、龍馬は船の上で後藤象二郎に提示します。その8つの構想を「船中八策」といいます。

船中八策の中身は、龍馬のオリジナルではなく、これまでに龍馬が人脈を駆使して出会ってきた優秀な人物たちの意見を取り入れ、まとめたものでした。

以下、船中八策の内容です。

  1. 幕府は政権を朝廷に返して、これからは朝廷がすべての法令を出しましょう
  2. 上院・下院の議会を作って、議員の話し合いで政治を進めましょう
  3. 有能な公家や大名には官職を与えて、能力が無いのに地位だけ高い者は排除しましょう
  4. 開国についてはよく話し合って、正当な条約を結びましょう
  5. 今までの法令を見直して、新しく憲法を制定しましょう
  6. 海軍を拡大して充実させましょう
  7. 天皇護衛の兵を置きましょう
  8. 金銀の交換レートを海外と均一にしましょう

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坂本龍馬最後の写真
By 不明または上野彦馬写真館にて撮影。福井で撮影されたとの説もある。 – 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

この龍馬の案に賛同した後藤象二郎は、土佐藩に大政奉還を提案し、それを採用した土佐藩は、将軍・徳川慶喜に進言します。ここで慶喜がどう決断するかに、日本の未来は懸かっていました。

坂本龍馬は大政奉還に人生を賭けていた

大政奉還は龍馬にとって、人生最大のテーマでした。武力で幕府を倒そうとすると、その戦いによる混乱に乗じて、諸外国が日本を侵略すると考えたからです。日本を外国から守り、世界と対等な国家にするための最善の策が、この大政奉還でした。

土佐藩が将軍・徳川慶喜に大政奉還論を進言すると、慶喜は10月13日、京都の二条城に諸藩の重臣を集め、会議を開くことにしました。

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大政奉還
By 邨田丹陵, Tanryō Murata – 明治神宮聖徳記念絵画館, パブリック・ドメイン, Link

この会議を開いた時点で、慶喜は大政奉還することを心に決めていましたが、龍馬は万が一大政奉還実現にならなかったときのことを考え、その後勃発するであろう討幕戦の備えも十分にしておいたといいます。

また、その会議に出席する後藤象二郎に対し、龍馬は事前に「大政奉還がならなければ貴方は切腹、私も将軍を討って死にます」と伝えていたといいますから、龍馬の覚悟は相当なものだったことがわかります。

こうして無事に大政奉還実現の報を受けた龍馬は、その決断を下した将軍・慶喜に感激し、「慶喜公のためなら命を捨てる」と涙を流したといいます。日本は、慶喜の決断のおかげで内乱を回避することができたのです。

ところで、徳川の世が終わったら、龍馬は何をしたいと考えていたのでしょうか。龍馬の同志である陸奥宗光曰く、「龍馬は世界の海援隊をやりたいとか何とか言っていた」そうです。

龍馬が大政奉還後に作った新政府の人事案に自分の名前を入れなかったことからも、龍馬は役人になるよりも自由に海を渡る生活を夢見ていたと考えられます。

坂本龍馬はおでこを斬られて暗殺された

「世界の海援隊をやる」と夢を抱いていた龍馬ですが、そんな夢は叶わないまま、突然この世を去ってしまいます。1867年11月15日、龍馬33歳の誕生日のことでした。

当時、龍馬は京都・河原町の近江屋に身を潜めていました。

その日の夕方、近江屋にいる龍馬の元へ中岡慎太郎が訪ねてきて、2人は日本のこれからについて熱く語り合います。

しばらく経った午後9時頃、近江屋に突然2人組の来客がありました。

藤吉という若者が応対に出ると、客は十津川郷士であり、龍馬に挨拶がしたいのだと伝えてきます。

坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地、近江屋跡

藤吉が客から受け取った名刺を龍馬に見せに行った矢先、その客が藤吉を斬り倒し、その物音を聞いた龍馬が「ほたえな(騒ぐな)」と一喝。

その声で龍馬の居場所を突き止めた2人が、龍馬と中岡に斬り掛かります。龍馬は最初に額を深く斬られ、脳漿が飛び出るほどの傷を負い、背中も大きく斬られます。

同時に中岡も全身をズブズブと刺され、瀕死の状態となりました。

そんな中岡に龍馬は、「俺は脳をやられたから、もう駄目だ」と言い残し、息絶えます。龍馬はほぼ即死、中岡もその2日後に亡くなりました。

2人を襲った刺客は誰だったのでしょうか。様々な説がありますが、現在でも明らかになっていません。

坂本龍馬死後の日本

龍馬の死後、その訃報を聞いた西郷隆盛は、龍馬を土佐藩邸で保護しておかなかった後藤象二郎を責め、大泣きしたといいます。

龍馬の仲間が悲しみに暮れている中でも、日本は急速に動いていました。

坂本龍馬・中岡慎太郎の墓

大政奉還後も政治の実権を握っていた慶喜に対し、薩長などの討幕派が「王政復古の大号令」を出し、明治新政府を設立しました。佐幕派の人たちを政界の中心から追い出そうとしたのです。

しかし旧幕府側もこれに抵抗し、旧幕府軍VS新政府軍の戦争が起こります(戊辰戦争)。

この戦争は新政府軍の優位に進み、やがて旧幕府軍側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛による会談が行なわれます。

この会談で旧幕府軍側の勝が新政府軍側の西郷を説得し、当初予定されていた江戸総攻撃が中止となり、江戸城無血開城が実現します。

その間に宣布された五箇条の御誓文は、新政府の基本政策として掲げられたもので、その中身は龍馬の船中八策を基にして作られました。

そして、江戸無血開城後も、旧幕府軍の残党や東北諸藩は新政府軍に対する抵抗を続け、函館で旧幕府軍が降伏し、戊辰戦争が終結したのは、勃発から1年半後のことでした。

なるべく血を流さずに日本を変えようとしていた龍馬がこの様子を知ったら、何を思うでしょうか。もしも龍馬が生きていたら、どう動いたでしょうか。現代に生きる私たちは、想像を膨らませるしかありません。

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坂本龍馬の名言集

生涯でたくさんの手紙を書いた龍馬。その分、残した名言も多くあります。ここでは数多くの名言の中から、有名なものをご紹介します。

世の中の人は、俺をなんとでも言えばいい。俺の志は俺だけが知っている。

(世の人は我をなんとも言わばいえ 我が為すことは我のみぞ知る)

生きるということは、何かを成し遂げるということだ。

(世に生を得るは事を成すことにあり)

世の中なんて、三文五厘の価値しかないのだから、屁が出るほど頑張ってみなさい。

(なんの浮世は三文五厘よ。ぶんと屁の鳴るほどやってみよ)

丸い心を持っていても、少し尖っていたほうがいい。丸すぎると他人に流されてしまう。

(丸くとも一かどあれや人心 あまりまろきは転びやすきぞ)

もう一度、日本を一新します!

(日本を今一度、洗濯致し申し候

坂本龍馬ゆかりの地 8選

桂浜(高知県高知市)

住所:〒781-0262 高知県高知市浦戸桂浜

龍馬がよく見ていた海です。龍頭岬の丘には有名な龍馬像が立っています。

龍馬歴史館(高知県香南市)

住所:〒781-5233 高知県香南市野市町大谷928−1

龍馬33年の生涯を蝋人形180体も使って再現しています。歴史的名場面を迫力満点で表現しています。

http://actland.jp/museum/ryouma.html

高知県立坂本龍馬記念館(高知県高知市)

住所:〒781-0262 高知県 高知市浦戸城山830

龍馬の手紙、愛用していたピストル、暗殺のときに飛び散った血痕がついた屏風などを展示しています。

高知県立坂本龍馬記念館|高知県立坂本龍馬記念館

寺田屋(京都府京都市)

住所:〒612-8045 京都府京都市伏見区南浜町263

龍馬が三吉慎蔵と襲われた宿です。当時の寺田屋は火事で焼けてしまったので、再建したのが現在の寺田屋です。内部も公開しており、実際に泊まることもできます。(要予約)

近江屋跡(京都府京都市)

住所:〒604-8033 京都府京都市中京区 河原町通蛸薬師下ル塩屋町

龍馬と中岡慎太郎が暗殺された場所です。現在は回転寿司屋となっており、石碑が建てられています。

坂本龍馬・中岡慎太郎墓(京都府京都市)

住所:〒605-0861 京都府京都市東山区清閑寺霊山町1

霊山護国神社内にある、龍馬と中岡慎太郎の墓です。他にも数多くの志士が眠っています。すぐ近くには霊山歴史館があり、ここは日本で唯一幕末維新をテーマにした博物館です。

長崎市亀山社中記念館(長崎県長崎市)

住所:〒850-0802 長崎県長崎市伊良林2丁目7−24

亀山社中の建物を復元し、中には龍馬の手紙や海援隊の日誌などが展示されており、二階の隠し部屋も公開しています。近くには龍馬のぶーつ像があり、実際にそこに足を入れて記念撮影をすることもできます。

長崎市亀山社中記念館
長崎市亀山社中記念館は、坂本龍馬ゆかりの亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を長崎市が当時の姿により近い形で整備したものです。平成21年8月1日から公開し、亀山社中ゆかりの品々を展示しています。

グラバー園(長崎県長崎市)

住所:〒850-0931 長崎県長崎市南山手町8

イギリス商人・トーマス・グラバーの邸があります。グラバー邸には天井に隠し部屋があり、緊急時に幕末志士を隠していたといわれています。龍馬も隠れた事があるかもしれませんね。

【公式】グラバー園
冒険商人トーマス・グラバーをはじめ居留地時代から残る外国人の住宅と長崎市内に点在していた洋館が集まるこの地では、幕末から明治の長崎の歴史を感じることができます。 石畳や石段、長崎港を一望できるロケーションと共に、歴史、文化の香りに包まれた場所です。

 

以上、幕末の英雄・坂本龍馬についてご紹介しました。いかがでしたか?

自由で柔軟な発想と行動力で日本を新国家へと導いた、まさに風雲児・坂本龍馬。彼がいつの時代も愛され続けてきた理由は、史的偉業だけではなく、これまで紹介した数々の人間的魅力があったからだと考えられます。

「俺はブサイクだけどモテるんだ」と発言したことがある龍馬ですが、きっと彼が現代にタイムスリップしたとしても、龍馬の周りには多くの老若男女が集まってくる事でしょうね。

 

参考資料:

木村幸比古「坂本龍馬」(2009)主婦の友社

勝海舟/松浦玲・江藤淳編「氷川清話」(2000)講談社

一坂太郎「わが夫 坂本龍馬」(2009)朝日新書

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