島津家久の12トピック「最強」四兄弟の末弟による釣り野伏も図解

日本

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戦国時代、九州の薩摩(現在の鹿児島県)の大名として存在した島津家。
その島津家で知らない人はいないであろう、最強の四兄弟と言われた「島津四兄弟」の存在、島津家中興の祖で「薩摩の聖君」と言われた島津忠良の孫として生まれ、そして「軍法戦術に妙を得たり」と評された末弟・家久。
後に、永吉島津家の祖となる島津家久、そんな彼の生涯とエピソードを紹介していきます。

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島津家久とは?

島津家久は、安土桃山時代の1547年に薩摩国(現在の鹿児島県)に島津家第15代当主・島津貴久の四男として生まれ、その時代に活躍した島津家の武将です。

若い頃には、島津家中興の祖で「薩摩の聖君」と言われた祖父・島津忠良から、「軍法戦術に妙を得たり」と軍略に優れた評価をされる程で、後に大きな戦いではその才能を遺憾なく発揮していきます。


島津家久
画像・記事アイキャッチ:コーエーテクモゲームス 『信長の野望 創造』より

家久は、長男の義久、次男の義弘、三男の歳久とは母親が違い、さらには年齢も10歳以上離れてはいましたが、兄弟仲は凄く良かったそうで、現代でも珍しくはない兄弟不仲が無く、しかも末弟だったので3人からは可愛がられていたのでしょう。

家久の兄達も凄い才能を持っていた

家久の兄達もそれぞれ祖父・忠良からその才能を評されていました。

家紋
島津家の家紋 By Mukai, CC 表示-継承 3.0, Link

長男の義久は「三州の総大将たるの材徳自ら備わる」と政略に長けて、次男の義弘は「雄武英略をもって他に傑出する」と武略に長けて、三男の歳久は「始終の利害を察する知計が並なし」と知略に長けて評されている程で、このような3人の兄の姿を見て家久は育っていったのでしょう。
さらにお互いに張り合うような長所では無い上に仲が良く全員文武に優れるという、まさに、島津四兄弟が最強と言える所以が分かります。

異母の兄たちは、家久の為に一芝居打った

前述のとおり、家久は3人の兄とは違い母親が違うため、本人は幼少期からそれを気にしてはおりました。ただ、ある時兄弟4人で馬追を行い、それを終えた時のこと、三男の歳久が兄・義久と義弘に対して「こうして色んな馬を見ていると、馬の毛色の多くは母馬に似ていますから人間もきっと同じなんでしょうね。」と言いいます。

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長兄・島津義久像
(東京芸術大学大学美術館蔵)By Ginger1192, CC 表示-継承 3.0, Link

その事を察した義久は気を利かせて「確かにお前の言うことも分かるが、ただそうとは限らない、父馬に似る事も有り得なくは無いわけだ。 しかも人間は獣とは違って、言葉も話せるし道具も使え心の徳がある、そして学ぶことが徳を磨けば、親よりも優れることもあるし、逆に疎かにすれば親よりも劣ることは間違いないだろう。」と言いいました。

それから家久は、昼夜を問わず学問と武芸に磨きを入れ、数年の内に、四兄弟の優劣が無くなるほどにまで至ったといいます。

この話は、歳久がいつまでも馴染まない家久の為にと機転を利かせた言葉で、それを理解した上で一番の兄である義久に言うことによって家久をより馴染ませるために放った言葉なんでしょう。
これを見ると、いかに島津四兄弟が仲の良い兄弟なのかが分かります。

家久は初陣から大活躍した

そんな家久の才能は初陣の時から発揮されます。
1561年7月、家久15歳の時に行われた肝付家との廻坂の合戦ではなんと、いきなり敵将の工藤隠岐を討ち取るという初陣から大活躍をしていきます。
まさに、祖父・忠良が軍略に優れていると評しただけのことはあります。

廻坂の合戦跡

そして、その才能は8年後の1569年にも発揮されます、大口城での戦いで相良氏からの援兵として向かわれた際、家久は荷駄隊を装った300の兵を率いて麓の道を通り、城から出てきた兵達を誘い込み伏兵の襲撃によって136の首級を挙げるという大戦果を成し遂げたのです。
このとき家久23歳、着実に軍略の才能に磨きが掛かっています。

家久は信長の意外な姿を見かけていた

実は家久にはこんなエピソードがありました。
それが「家久君上京日記」という、家久が1575年に上洛した後、伊勢神宮などの寺社や聖地に三州泰平のご加護の為に参拝し薩摩国へ帰るというおよそ5か月に及ぶ家久の旅日記に信長を見たという文が記されている。

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織田信長 像
By 狩野元秀 (1551- 1601) – 東京大学史料編纂所, パブリック・ドメイン, Link

4月21日に京都で宿を取ったときに、織田信長が石山本願寺との戦いを終え帰る際の姿を見て、「母衣衆の色は統一していない」や「皮衣を着て、馬の上で信長が居眠りしてた」や「かなりの大軍勢で行軍していた」などと書き記していることから、実際にその姿を見た様子が分かります。
しかも、「皮衣を着て、馬の上で信長が居眠りしてた」という文は信長の意外な一面が記されており、しかもそれを見ている事からも家久は貴重な場面を見た目撃者でもあったと思われます。

家久は教養面に疎かった?

このように文武両道で、軍略面にも性格的にも優秀だった家久にも実は弱点がありました。
それは「教養面」です、「家久君上京日記」に織田信長を見たという供述と共に織田家の重臣・明智光秀と会っていた時のことです。

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明智光秀 像(本徳寺蔵), Public Domain, Link

5月14日、家久はお世話になっていた連歌師の里村紹巴と一緒に志賀を一通り見学していた時のこと、紹巴を迎えに明智光秀がやってきて、その縁で次の日、光秀から紹巴と共に坂本城に食事会で招待された際、家久は「茶の湯は不勉強なので」と遠慮して白湯を所望しており、さらに、風呂に入った際の連歌も遠慮して断っていることから家久が教養の面に疎かったことが頷けます。

家久が寡兵で圧勝し飛躍した「沖田畷の戦い」

家久が遂に総大将として出陣し最高の戦果を挙げた戦がありました。
それは家久38歳の時1584年3月、九州の三強の一角で「肥前の熊」の異名で知られる「龍造寺隆信」との決戦を繰り広げた「沖田畷の戦い」です。

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龍造寺 隆信 像
The Japanese book “Japan, Conutry of Beauty: Inaugural Exhibition (美の国日本:開館記念特別展)”, Nishinippon Shimbun-sha (西日本新聞社), 2005, パブリック・ドメイン, Link

龍造寺隆信は有馬家の君主・晴信の裏切りを知り旗揚げを行い、その危機に有馬晴信が島津に援軍を求め、その時に家久は送り込まれ、有馬・島津連合軍の大将として出陣することになりました。

しかし、その時送り込まれたのは僅かに5000人程で、有馬軍の兵と合わせても1万にも満たず、その一方で龍造寺軍は5万7000という大軍であり、連合軍は圧倒的不利な状況でしたが、家久はこの状況の中、「釣り野伏」と言われる戦法で大軍の龍造寺軍を湿地帯に引き込み潜ませた伏兵を用いて、龍造寺軍の多くを撃破し、さらに龍造寺軍大将・隆信や龍造寺四天王等、龍造寺家に関わる多くの武将を討ち取る等、寡兵であった状況の中、家久はただ勝利しただけで無く、多くの将を討ち取っていくという大戦果まで成し遂げたのです。
この戦いは、島津が最強と言える戦の一つとも言える戦いにもなりました。

家久が使った最強の軍法「釣り野伏」を図解

家久で欠かせないのが、「沖田畷の戦い」で使われた「釣り野伏」。
この軍法のおかげで、家久が勝利しさらに島津家を九州制覇へ大きく前進させることとなりましたが、そもそも「釣り野伏」というのはどんな軍法なのかここで説明しましょう。
まず野戦で、軍全体を三つの部隊に分け、そのうちの二つの部隊をあらかじめ左右に伏せて置き、そして残った中央の部隊が敵の主力と戦いつつ誘い込み状況に応じて敵を三方向から囲み包囲殲滅を仕掛けるという戦法です。


釣り野伏(つりのぶせ)図解 筆者作成

しかし、この「釣り野伏」は一見簡単そうに見えますが、実は高度で複雑な技術を必要とした戦法で、まず部隊を三つに分けるとすると、どうしても中央の部隊は確実に全部隊よりも少なくなってしまうため、圧倒的に不利になり、さらに敵に警戒されないような撤退を装うという高度かつ複雑な技術の為、「高い練度・士気を持つ兵」と「戦闘技術に優れ冷静に状況を見渡せる指揮官」と「兵と信頼関係がより高い」の3拍子が揃わないとこの「釣り野伏」は成功する確率が低くなってしまうのです。

まさに、家久は状況的に約10倍に及ぶ龍造寺軍の主力に立ち向かい尚且つ大勝利・大戦果まで挙げていることから家久の凄さがよく分かります。

家久は2倍の戦力があった豊臣秀吉をも破った

沖田畷の戦いで、龍造寺を破り勢いにのる島津家、その勢いで大友を攻めようとしますが、遂に、巨大な勢力として君臨した豊臣家が大友の援軍としてやってきたのです。
1586年、豊臣軍は仙石秀久を大将にした軍勢で攻めて行くこれが「戸次川の戦い」という戦です。

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豊臣秀吉像
By 狩野光信 , パブリック・ドメイン, Link

しかし、ここでも家久の軍略が冴えわたり、結果として島津軍は1万ぐらいの兵力で、2倍近くいた豊臣軍に大損害を与え、さらには長宗我部信親や十河存保という武将までも討ち取るというここでも大戦果を設けております。

家久が41歳で最期を迎えた理由は、毒殺?

Hidenaga Toyotomi.jpg
秀吉の弟・豊臣秀長像
奈良県大和郡山市春岳院所蔵品 Public Domain, Link

そして、その戦いの後、島津家は豊臣秀吉の弟・秀長と日向国での戦いの際に大敗北を喫してしまい、これに家久は独断で兄の義久・義弘が降伏する前に四兄弟の中では最も早く豊臣秀長と単独講和し、和睦を結ぼうとしますが……。

1587年、家久は四兄弟の中で一番早くして僅か41歳という若さでこの世を去ります。

「毒殺」で読む日本史
岡村 青『「毒殺」で読む日本史』
画像はイメージです

死因の一説には、豊臣秀長の毒殺という線もあり、実際に島津国史という書物には家久が毒を盛られたという記述が残っていましたが、秀長の側近が家久の兄・義弘に宛てた書状の内容に家久が病気で有ったこと記されていることと豊臣方に毒殺の魂胆が無いことから、死因には些か不明な点が多くみられます。

島津家を九州最強の勢力にまで押し上げ、その名を全国、そして天下人に知らしめた家久の軍略及び経歴はまさに彼が最強の武人であることを示すことになったことでしょう。

家久の長男・豊久も凄かった

ドリフターズ 1 (ヤングキングコミックス)
人気ファンタジー作品の主人公・豊久
『ドリフターズ』平野耕太

家久を語る上で、これまた欠かせないのは長男についてもです。

長男・豊久です、1570年に家久の長男として生まれ、そして1584年の「沖田畷の戦い」では、父と同じように僅か15歳で初陣を飾ったと言われ、まさに父・家久と同じように将来有望の武将でした。

そして、彼の最大の見せ場は1600年に天下最大とも言われた「関ヶ原の戦い」にて、彼は伯父・義弘と共に西軍の豊臣方につきましたが、結果として西軍は大崩れとなり大敗北、義弘が率いる島津隊は退路を断たれ絶体絶命を迎えていました。

しかし、そんな時に豊久は「島津には伯父の貴方が必要なのです、私の命ならば貴方が生きてさえいれば捨てても構いません。どうか生きて、島津を絶えさせないでください。」と言い、この言葉に心を決めた義弘は東軍の大将・家康の本陣に突き進む形で撤退する「島津の退き口」を行い、追撃する東軍を請け負って伯父・義弘を逃がし戦死、僅か31歳という生涯で終えました。

島津豊久の墓.jpg
岐阜県大垣市上石津の豊久の墓
By 恭パパ投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

その一方で義弘は無事に薩摩に帰還することができ、後に義弘は島津家の第17代当主となり、結果として島津は存続したのです。
家久、そしてその息子の豊久は島津を掲げる上で無くてはならない存在となったのです。

家久は二人いた?良い家久・悪い家久

島津家久を名乗った人物として、実はもう一人いるという記述がありますが、実はその正体は家久の甥であり、兄・義弘の三男で後の島津家第18代当主・忠恒です。

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島津忠恒(家久)肖像画
尚古集成館, パブリック・ドメイン, Link

家久が若くして亡くなったため、忠恒は1606年に叔父であるその名前を継承しますが、この忠恒はろくでも無い人物で当時の筆頭家老で重臣の一人だった伊集院忠棟を暗殺し、その家族までも次々と殺していく、まさに残虐非道の人物であり、しかも正室であり、伯父・義久の娘・亀寿を軟禁したり冷遇したり、その死後には墓すら立てないというもう人間的に欠陥だらけの人物だったと言われます。

その為、一部では「悪い方の家久」や「ろくでなしの家久」と島津四兄弟の末弟・家久と比べて記されるようになったのです。

あとがき

島津四兄弟の末弟として生まれた島津家久。
その生き様は、島津家の強さの象徴を作った第一人者としては最高の生き様であり、最強の経歴とも言えるでしょう。
しかし、彼の惜しまれるところは、僅か41歳という…早すぎた死。
もし彼があと10年、いや関ヶ原まで生きていたら…どうなっていたのか…それほどにまで彼の経歴は凄いものであるのです。

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