司馬遷が分かる13トピック『史記』編纂の為の苦渋の決断、宮刑とは?

中国

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司馬遷は、中国の歴史書で二十四史の一つである「史記」の著者です。「史記」は日本でも古くから読まれていますが、完成するまでには簡単なものではありませんでした。

司馬遷の波乱万丈の人生は一体どのようなものだったのでしょうか。

今回は司馬遷の生い立ちから完成までの逸話をご紹介します。

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司馬遷とは

司馬遷(しば せん、前145年?〜前86年?)は、『史記』を書いた中国前漢の歴史家で、東洋一の歴史家の一人と言われています。

性は司馬、名は遷、字は子長。

父の司馬談は、国の記録を扱う仕事をしていました。

司馬遷は20歳頃に中国の東南部を中心に旅に出かけて見識を深めていきました。その後役人に登用され、武帝に従って各地の調査をしています。

父司馬談の意志を継いで、司馬遷は歴史書の作成に取りかかりました。

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司馬遷 パブリック・ドメイン, Link

前99年に苦難が訪れます。匈奴に降伏した李陵を弁護する意見を武帝に申し上げると、武帝の怒りを買い死刑を言い渡されました。

司馬遷は死刑を免れ、その後宮刑(性器を切り落とす)を選び、生き長らえて「史気」の完成に執念を見せました。

数年後に出獄し、52万6千5百字、「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻からなる紀伝体の歴史書「太子公書」を書き上げました。のちの「史気」です。

司馬遷は代々歴史・天文を司る一族に生まれた

東洋一の歴史家である司馬遷。司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績をあげた一族であると言われています。

父司馬談も天文・易・道論など、さまざまな師から教えられ、漢王朝に仕え司馬遷が3歳の時に元封までの30年間に渡り太史公の官職を務めていました。司馬談は先祖が取り組んでいた歴史書編纂に対して並々ならぬ意欲を持っていました。

 

司馬談を父に持つ司馬遷は前145年もしくは前135年に夏陽(陝西省韓城県)に生まれました。生まれた年については二説ありますが、武帝(前141〜前87)の治世に終始したと考えらています。

春秋左氏傳.jpg
孔子『春秋左氏伝』 パブリック・ドメイン, Link

司馬遷は6歳になるまで夏陽で過ごし、生活のために農耕や家畜の世話をしていました。その後長安に移住し、さらに茂陵に移り住んでいます。司馬遷は10歳の時には孔子の『春秋左氏伝』などの古文を暗誦していました。

司馬遷は旅行が大好きだった?

司馬遷は20歳の頃に父司馬談の命を受けて、江淮へ行き母の墓を訪ねてから、2年間で東南部や中原を巡り、伝統や風俗を探訪して数々の歴史に関する書を収集してまわりました。

なぜこんなことをしたのかと言うと、秦の始皇帝が天下統一後、秦以外の書物を焼き尽くしてしまいまったからです。

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秦の始皇帝
By 不明 – Yuan, Zhongyi. China’s terracotta army and the First Emperor’s mausoleum: the art and culture of Qin Shihuang’s underground palace. Paramus, New Jersey: Homa & Sekey Books, 2010. ISBN 978-1-931907-68-2 (p.140),
パブリック・ドメイン, Link

歴史家である父司馬談にとって貴重な史料が多く紛失してしまった思いから、息子である司馬遷を地方に向かわせ、残っている史料や伝承をかき集めさせたと思われます。

この時に父司馬談は中国ではじめて正しい歴史書を作ろうと決心していたのではないでしょうか。

司馬遷はこの時各地を巡りましたが、旅行が好きで出発したわけではなく、尊敬する父の命を受けてのことだと言えます。司馬遷もこの旅により強く歴史書編纂に意欲がわいたと言われています。

司馬遷は父の遺言により歴史編纂を決意した

司馬遷の父である司馬談は一流の学者であったが、夏陽で農耕によって生計を立てていました。

そんな司馬談が太史公に任命されました。太史公とは暦を作ったり、国家の祭祀をとりしまる仕事です。司馬家は周王朝の頃からの名家であり、「司馬」は官名からとったものでありました。

司馬談と司馬遷は茂綾に移り、司馬遷は猛勉強を始めました。特に儒学を学び、さらに五経博士に「易」「書」「詩」「礼」「春秋」を学びました。

儒学を勉強している司馬遷
横山光輝『史記』1巻P11

司馬遷は二十歳の時に父の命を受けて世間を見て学ぶために旅に出ました。二年間の旅を終えて帰宅すると父司馬談の容態が悪く。

そこで父司馬談は息子司馬遷に2つの遺言を伝えました。

一つは父司馬談の代で名家司馬家が消えてしまうのが心残りなので、有力者に働きかけて太史公の役職について欲しいと伝えました。

もう一つは、司馬家の先祖は周の太史でさまざまな記録を記しているので、父司馬談はそれを真似て記していました。後世の人々の役に立つと書き続けていました。

しかし父司馬談はその思いを息子の司馬談に託しこの世を後にしました。

司馬談の死を嘆く司馬遷と娘
横山光輝『史記』1巻P31

この遺言を司馬遷は頑なに守り、この後起こる苦渋の選択も生きることを選択し、司馬遷は史記を完成する道を選びました。

司馬遷はカレンダーを作った

司馬遷は前108年に太史公に任命されました。太史公になった司馬遷は新しい暦を作ることを命令されました。

それまで秦の暦をそのまま使っていましたが、漢の七代皇帝の武帝が封禅の儀式を終えたことにより、新しい暦を作ることになりました。

司馬遷は歴史書を作ることに取り掛かかりたかったのですが、ここは一旦延期をして暦の作業を学者や天文官を集めて作業を始めました。

司馬遷 出典不明

秦では六の数を吉としていましたが、司馬遷が作った新しい暦は五の数を吉としました。また秦の暦は冬十月を元旦としていましたが、春正月を年の初めと定めました。

こうして司馬遷を中心に新らしい暦のプロジェクトは、前104年(太初元年)に完成し、この暦を太初暦と命名され、これが陰暦なのです。

 

太初暦は清王朝が滅亡する1910年まで約2千年も使われていました。もちろん中国だけではなく日本やアジアでも使われていました。

司馬遷の功績はもっと世の中に広まってもおかしくないと思うほどです。

司馬遷は匈奴が原因となり苦境を迎えた

司馬遷が仕えた漢王朝は紀元前202年に劉邦が項羽を倒して興した王朝でした。劉邦が興した頃は匈奴に何度も侵略され悩みのタネでした。その匈奴に和議を申し立て落ち着いて漢王朝は国内を成長させていました。

匈奴帝国.png
拡張する匈奴 By トムル投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

第7代武帝の時に漢王朝は最高潮に栄えていました。武帝は匈奴を追い払うことにしました。これに対し匈奴が抵抗し、武帝は李広利に3万と李陵に5千の兵で匈奴を討ち落としを命じました。

 

しかし李陵は数千の匈奴を討ってはみたものの多勢に無勢で、匈奴に降伏してしまいました。生きて捕らわれた李陵の行動に武帝は相当激怒しました。また李広利が三万の兵を連れていっても何の手柄もあげられなかったことに苛立ちもしていました。

武帝は司馬遷に李陵のとった行動を聞いたのです。司馬遷は李陵と同期であり、李陵をかばった訳ではなく、李陵の実力を知っていました。

「わずか5千の兵で八万の兵と戦い、数千の匈奴を討ち取りました。矢が尽きた時に李陵の部下は斬り死にしたと聞きました。このように命を惜しまないで戦う部下を持つ武将が今までいましたでしょうか。ここで悪口を言うのは可哀想です。一万の兵がいれば匈奴を蹴散らしたでしょう。」と司馬遷は武帝に答えました。

これが武帝の逆鱗に触れ、牢屋に閉じ込められてしまいました。牢屋に閉じ込められている間はまさに地獄のようで、鞭で打ちひしがれていきました。

そんな中、司馬遷の刑は皇帝ぶ告罪で死刑を宣告されてしまいました。

司馬遷は武帝に聞かれたことを当たり前に答えただけだったのに、司馬遷は絶体絶命のピンチを迎えました。

司馬遷は歴史編纂を続けるために宮刑を決断した

死刑を宣告された司馬遷でしたが、当時死罪を免れる法が2つありました。

一つは五十万銭を国に支払うか、もう一つは宮刑(きゅうけい、「腐刑」とも)を受けるかでした。宮刑とは性器を切除する身体刑です。

刑の執行まで10日しかありませんでした。

司馬遷はこの時すでに歴史書の作成に取り掛かってもいました。ここで父司馬談の遺言を守るためには、ここで死ぬわけにはいかない。

しかし五十万銭はとても払えない。もう一つの宮刑を選ぶしかない状況でありました。司馬遷は一人牢屋の中で悩みに悩み、何度も父に問いかけ10日が経ちました。

牢獄に閉じ込められた司馬遷
横山光輝『史記』1巻P53

司馬遷は廷尉(司法長官)に宮刑を受けますと伝え、「孝」の道を選びました。「孝」の道とは父司馬談が死ぬ間際に司馬遷に託した孝経の一節の「孝」のことです。

孝経では「名を後世に挙げてもって父母の名を顕す。これ孝の大なるものなり」と説いています。つまり歴史書を作ると言う大きな仕事をし後世に司馬家の名を残してくれと言われたことです。

「孝」の道を選んで宮刑を受けました。宮刑とは性器を切除され宦官になることです。この時司馬遷は48歳でした。

宮刑を受ける司馬遷
横山光輝『史記』1巻P54

2000年以上も前の話ですから、麻酔薬もありませんし、多分大きな鎌や刃物でひと思いに切断されたのでしょうから、気を失うほど痛かったことでしょう。

それでも司馬遷は歴史書を作るために生き長らえたのです。

司馬遷は竹や木に史記を書いた

司馬遷が記した「史記」は中国の歴史書で正史ので、班固の「漢書」、范曄の「後漢書」そして有名な陳寿の「三国志」など二十四史の一つです。

史記には「本紀」と言われ君主や王朝の変遷を各年の流れに沿って記した年代記12巻と、「表」と言われる年表や王族・重臣たちの系譜を図にまとめた10巻、「書」と言われる各時代の礼制・暦法・天文・治水・経済活動などを政治報告のようなものをまとめた8巻、「世家」と言われる各地方を統治していた諸侯たちをまとめた30巻、「列伝」と言われる王や諸侯では無い一般人の個人の逸話や記録などをまとめた70巻、計130巻に及ぶ超大作です。

Manuscript from Shanghai Museum 1.jpg
竹簡
By Shanghai Museum – http://www.ce.cn/culture/list02/03/news/201002/01/t20100201_20899829.shtml,
パブリック・ドメイン, Link

文字数は52万6千5百字に及びます。

司馬遷はこの超大作を一体何に記したのでしょう。

この時代には紙はありませんでした。紙が誕生したのも司馬遷が死んでから200年くらい後のことでした。

当時は竹簡や木簡に書いていました。

竹簡に執筆する司馬遷
横山光輝『史記』1巻P57

司馬遷はこの長さは一尺22cmで幅は5分の木簡に20字前後の文字を書いていったのです。と言うことは2万5千片の木簡があったと言うことです。ちょっと想像できないですね。

 

司馬遷は本当は前135年に生まれた?

司馬遷は景帝中元五年(前145年)生まれと建元六年(前135年)生まれの二つの説が有力です。

前145年生まれ説の有力な一つは張守節の「史記正義」には太初元年に司馬遷は42歳と記載されています。と言うことは前145年に生まれたことになります。

また前135年生まれの有力な一つは司馬貞の「史記策隠」では司馬談が死去したのは元封元年(前110年)の3年後に28歳と記載されています。と言うことは前135年に生まれたことになります。

それでは前145年と前135年のどちらが真実に近いのでしょう。

まず「漢書」の「司馬遷傳」25条で友人仁安に手紙を書いています。若くして両親を失うと書いています。前145年に生まれているとすると、父司馬談が死去したのは司馬遷が36歳、全135年に生まれているとすると司馬遷は26歳となります。

23条にある仁安への返事には天子に使えること20数年と書いています。この手紙は太始四年(前93年)に書かれていますので、司馬遷が郎中になったのは20歳から旅行に行った後の20歳代の前半ですから、20数年たったのは40歳代となる前135年生まれが自然だと思います。

郎中に任官した司馬遷
横山光輝『史記』1巻P14

司馬遷が故事を習った孔安国が博士になった時期を前134年から前129年と考証したのは王国維ですが、司馬遷は10歳のときに孔安国の教えを受けたとされていますので、前145年生まれで10歳となると前135年ですから、孔安国はまだ博士になっていませんので、前135年生まれが有力になります。

孔安国博士に学ぶ司馬遷
横山光輝『史記』1巻P10

司馬遷は「史記」大史公自序12条で20歳代前半までを年齢だけで書いています。13条では父司馬談の死去(前110年)に触れていますが、前145年に生まれているとすると35歳になるので、空白の10数年が出てきてしまいます。

また12条には郎中任命後すぐに武帝巡遊にしたがって旅をしたことを書いてありますので、空白が生じない前135年生まれが有力です。

 

郭解は国都長安に行ったことはないとされています。司馬遷は郭解を見たと言っています。

では二人の接点はいつなのかと言うと郭解が前127年に親族を司馬遷の生まれた夏陽に退避させたときなのではと考えられます。

前145年生まれだとすると司馬遷は18歳となるので、この時は長安にいます。これでは郭解と司馬遷は会えません。

前135年生まれだとすると前127年は8歳となり、長安には10歳に行っていますので、ここで会っている可能性はあります。しかし夏陽から6歳のときに茂綾に行っているのでこの話は信ぴょう性は薄いと思います。

 

これらの話だけでも司馬遷は前135年に生まれたのではないかと思われます。

しかし司馬遷が生まれた韓城市では前145年説を採用し2010年には生誕2155年記念行事を行いました。

 

司馬遷は孔子の影響を受けた

父司馬談から「第二の孔子たれ」と厳命された司馬遷は、子供のうちから儒学を学びました。司馬遷は「史記」を書いていく上で、人物や出来事の判断基準に多くの孔子の言葉を導入しています。

Confucius Statue at the Yushima Seido.JPG
湯島聖堂にある孔子像
By あばさー, パブリック・ドメイン, Link

司馬遷は孔子を大変尊敬し、孔子の「春秋」にならって物事を考えようとしました。

「春秋」は、人間世界を成立させている基本的、根本的な秩序原理から世の中のあり方について批判的ですが、司馬遷もそれにならい「史記」も倫理的な批判の書というものになっています。

司馬遷は、「春秋は礼の義の大宗なり」と語っています。人間世界を成立させている基本的な秩序原理、人間世界の秩序を成立させる根本から世の中を見ていくということです。世の中のあり方について批判的に解明していくという意味です。

 

司馬遷が書いた史記による故事3選

臥薪嘗胆

復讐を心に誓って辛苦すること。また、目的を遂げるために苦心し、努力を重ねること。

中国の春秋時代、呉王夫差が父の仇の越王勾践を討とうとして、いつも薪の上に寝て身を苦しめることを臥薪と言います。この臥薪は「史記」には存在しませんが、のちに「十八史略」で付け加えられました。

嘗胆とはその後夫差に敗れた勾践がいつか会稽の恥をそそごうと苦い胆を嘗めて報復の志を忘れまいとしたことを言います。

苦い胆(きも)を舐める勾践(こうせん)

横山光輝『史記』で学ぶ故事成語P93

完璧

春秋時代に楚に姓は「下(べん)」で名を「和(か)」という人物が山中で名玉の原石を見つけました。原石を当時の王「厲王」に献上したが、ただの石だと足を切られ、次の王「武王」に献上したが、ただの石だと足を切られました。

そんな下和は山中で泣いているところを次の王「文王」が助けてその石を磨いたところ、素晴らしい璧(へき)が出来上がりました。この璧を「和氏の璧」と名づけられました。

天下に二つと無い名玉「璧」
横山光輝『史記』で学ぶ故事成語P147

その後秦の王が璧と15城を交換してくれと申し出があり、趙は受けいるしかなく、秦が璧をとり城を渡さない場合もありえるので、使者として「藺相如(りんしょうじょ)」が秦に璧を持っていくことになりました。

秦の王が約束を守るなら、璧は置いてくることになり、秦の王が城を渡さない時は、璧を完うして趙に帰りますと約束しました。

このことから完璧という言葉が生まれました。

背水の陣

漢の名将韓信が趙の軍と戦ったときに、わざと川を背にして陣をとり、味方に退却できないという必死の覚悟をさせ、敵を破ったという故事から一歩も引けないような絶体絶命の状況の中で、全力を尽くすことのたとえです。

趙軍を破った韓信の「背水の陣」
横山光輝『史記』で学ぶ故事成語P244

 

司馬遷は史記を完成させ、娘と後世に託した

司馬遷は宮刑のあと前96年(太始元年)に大赦により釈放されました。その後、武帝は宮刑までにしてしまった司馬遷を気にかけていました。司馬遷の才能を買っていたので、何か菅職につけるように命じました。

そこで新しい官職で中書令に任命しました。司馬遷は史記を書くためにも宮廷の書簡を見れるために甘んじて受けました。

そこから取り憑かれたように史記の完成に向けてひたすら書いていきました。極刑を受けた屈辱を史記にぶつけていきました。

前95年からの3年間、司馬遷は武帝の巡遊につき従った。前93年に泰山から戻った司馬遷は友人の仁安からの手紙の返事を書いて送りました。

自分は死を恐れない。あの事件の時、死を選ぶのは実に簡単だったが、もし死んでしまっては自分の命など九頭の牛の一本の毛の価値すらなかった。死ぬことが難しいのではない、死に対処することが難しかったのだ。死んでしまえば史記を完成させることが出来ず、仕事が途中のままで終わるのを自分はもっとも恥とした。

今の自分はただ、『史記』の完成のためだけに生き永らえている身であり、この本を完成させることが出来たなら、自分は八つ裂きにされようともかまわない。

『漢書』「司馬遷傳」21-27

この手紙の内容から司馬遷が史記の執筆にかけた思いが伝わってきます。この手紙を送ってから4年後の前90年に「史記」は完成しました。

 

娘に「史記」を名山に隠すように託した司馬遷
横山光輝『史記』1巻P58

司馬遷は史記は武帝が逆鱗に触れる箇所もあるので、娘に名山に埋めて隠すように頼んだ。そして生き恥をさらして執筆した史記を後世の聖人君子にどう評価されるかにかけました。

司馬遷は長命だった?

司馬遷は生まれた年も死んだ年も明確に記載されているものがない。しかし「史記」に記述されたもっとも遅い事件の頃には生きていたと思われますが、「史記」には後になってから補筆が多いのです。

ひとつの考察として多く書かれているのが司馬遷は武帝のことをどのように表しているかを検証していくことから可能になる。

『封禪書』では司馬遷は武帝を「今の皇帝」という意味で使う「今上」と表記しているのである。これが何を意味しているかというと、武帝と記された『孝武本紀』はこの『封禪書』の写しであり、後から書き加えられた可能性を否定はできませんが、『衛將軍驃騎列傳』など補筆と考えにいく箇所でも「武帝」が使われる点から、司馬遷は武帝の死んだ後、謚号(しごう)が送られた時に生きていたと考えられます。

それではいつ死んだのかというと、前87年頃に死んだのではないかと言われています。

史記が完成し父司馬談に報告している司馬遷
横山光輝『史記』1巻P59

 

以上、司馬遷をご紹介しました。いかがでしたか。

司馬遷といえば「史記」。彼は「史記」の執筆に一生をかけました。「史記」は後世の歴史書や生き方にも多くの影響を残しました。彼の功績に多大な拍手を送りたいです。

 

参考資料:

Wikipedia 司馬遷 ほか

横山光輝『史記』

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