甲斐の虎・武田信玄の27トピック 海を目指して駆け抜けた53年間

日本

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「甲斐の虎」といわれ、周りの大名から恐れられた武田信玄。
武田信玄の武器は、多大な才能の持ち主であったことと信頼ができる家臣達でした。
最初は「海」が見たくて始まった天下統一の野望も心半ばで果たせませんでした。
信玄の死後、たった1代で滅んでしまった武田家。
なぜ、1代で滅んでしまったのか?その原因はなんなのか?
武田信玄の生涯を見ながらご紹介していきたいと思います。

サムネイル画像:武田信玄 [DVD]

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武田信玄とは

武田信玄(1521~1573)は、戦国時代に活躍した武将で甲斐武田家第19代目当主です。
幼名は太郎(又は勝千代)で、その後は元服し晴信、出家し信玄と名を変えました。

1521年に甲斐武田家18代当主武田信虎の嫡男として生まれました。母は大井夫人です。

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武田晴信像(高野山持明院蔵)
 The Japanese book “Fūrin Kazan (風林火山:信玄・謙信、そして伝説の軍師)”, NHK, 2007, パブリック・ドメイン, Link

信玄は20歳の時に父信虎を追放し当主となりました。

当主となった後は積極的領土拡大に努め、相模の北条氏康・越後の上杉謙信・三河の徳川家康・尾張の織田信長など、各地の大名と戦いました。

信玄が領土を拡大したかった理由は海が見たかったという事から始まり、その後は天下統一への野望を燃やしていきます。

しかし、夢を果せないまま53歳で亡くなってしまいました。

信玄が生まれた甲斐国について

中央政権が統治しにくい場所

甲斐国は山に囲まれていたため、中央政権(大和政権・鎌倉幕府・室町幕府など)の統治が届きにくに場所にありました。

そのため、国司や守護が赴任しても統治がうまくいかず、豪族や国人が自分たちで土地の支配をしていました。

信玄が領土を拡大した理由

甲斐国は周りを山に囲まれた盆地であったため、当時は大変貴重であった塩が手に入りづらかったこと、また、稲を育てるための農地が少なかったため、食料の確保や年貢を納めるのも他国よりも大変であったことが上げられます。

そのため、信玄は自力での塩の入手と食料確保のため領土の拡大を目指しました。

信玄が生まれた家「甲斐武田氏」について

甲斐武田氏とは、甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(甲斐源氏の祖)を祖とする諸家のうち武田氏(甲斐源氏本家)を名乗った一族のことです。

家紋

武田家家紋「武田菱」
Mukai – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

河内源氏・甲斐源氏・甲斐武田氏 略系図(筆者作成)

甲斐武田氏は最初から甲斐国を治めていた訳ではありません。

甲斐源氏は武田氏以外にも逸見氏や加賀美氏などがいました(他にも多数いる)。
中でも武田氏と逸見氏は嫡流(本家)を巡って度々争いました。
しかし、鎌倉幕府・室町幕府のもとで甲斐守護を持っていたことで、結果的には武田家が甲斐国で力を持つようになりました。
※甲斐国には穴山氏や小山田氏などの甲斐源氏以外の氏族(国人など)もいます。

そして信玄の父・武田信虎の時代にようやく甲斐源氏や国人などを抑えて甲斐国を統一しました。

信玄が生まれた日は、武田家にとってめでたい日だった

信玄は1521年12月1日(旧暦は大永元年11月3日)に、躑躅ヶ崎館(武田家の本拠地)に付属する要害山城(または積翠寺)で生まれました。
※幼名は太郎または勝千代

麓から望む要害山(2010年12月撮影)

麓から望む要害山(2010年12月撮影)
By さかおり  CC 表示-継承 3.0, Link

Entrance of the Sekisuiji.JPG

積翠寺入口(山梨県甲府市)
By Sakaori  , CC 表示 3.0, Link

信玄が生まれた頃、父・信虎は駿河今川家の家臣福島正成が甲斐に侵攻してきたため、今川勢を迎え撃っていました。
戦は武田勢が勝利しました。

そんな時に生まれた息子に信虎は、「勝」という字をつかって「勝千代」と名付けました。

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積翠寺にある、信玄公産湯の井戸
By Sakaori , CC 表示 3.0, Link

信玄は弟・次郎(信繁)の誕生によって、父から嫌われるようになった

勝千代が生まれた4年後に弟の次郎(武田信繁)が生まれました。

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甲陽二十四将之一個 武田左馬之介信繁(歌川国芳作)
パブリック・ドメイン, Link

弟の次郎が生まれると、勝千代は信虎から嫌われるようになりました。

理由は勝千代と次郎の性格の違いさにあったようです。
勝千代は、岐秀元伯(臨済宗妙心寺派長禅寺の住職)というお坊さんのもとで学問を習っていました。そのため、秀才的で勉強ができる子に育ちました。
一方、次郎は兄と同様に勉強はできていましたが、人に気を使う子に育ち、特に気が荒い父に対しては嫌でも言うことを聞いていました。。

賢く利口だった勝千代が、戦ばかりしている父に意見を言うと、信虎は生意気だと思っていました。
そのため、なんでも言うことを聞いていた次郎の方を可愛がるようになりました。

※信虎は勝千代を跡取りにせず次郎を跡取りにすることを決めたと言われています。

信玄は妻を亡くし、初めての子も亡くす

勝千代は1533年に12歳で初めての妻を迎えました。

相手は扇谷上杉家当主で武蔵国河越城主上杉朝興の娘です。

この結婚は政略結婚でした。

当時、関東地方では新興勢力であった相模の北条家が勢力を伸ばしていました。
そのため、北条家に押されていた扇谷上杉家は武田家と同盟を結びました(武田家も北条家と敵対関係にあったため山内上杉家とも同盟を結びます)。

勢力図(筆者作成)

 

政略結婚ではありましたが、2人とも仲が良かったと言われています。

しかし、1年後の1534年に妻は出産の際に、難産であったためお腹の子とともに亡くなってしまいました(『勝山記』より)。

信玄は元服し、新しい妻を迎える

1536年に勝千代は元服しました。

元服する際に、室町幕府第12代将軍足利義晴から「晴」の字をもらい、名を勝千代から「晴信」と改めました。

また、従五位下・大膳大夫を叙位されました。

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足利義晴像(古画類聚)
Geneast , CC 表示-継承 3.0, Link

さらに、晴信は元服するとともに、継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えました(後に正室となる)。

この婚姻は今川家の今川義元の仲介によるものとされています。
※今川義元は花倉の乱で勝利し家督を継いだ時点で武田家と和解している

信玄は初陣で、父の命令に背く

晴信の初陣は、1536年11月の父・信虎による信濃佐久郡攻略の際の、平賀源心の海ノ口城攻めだと言われています。

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長野県佐久郡
By Shige3141, CC 表示-継承 3.0, Link

海ノ口城主郭部の巨石

海ノ口城主郭部の巨石, パブリック・ドメイン, Link

信虎はなかなか海ノ口城を落とせずいました。
さらに、11月ということもあって、雪が降っていました。そのため、武田軍は兵を引きます。

兵を引く際、晴信は初陣であったにも関わらず、殿軍(後退する部隊の中で最後尾を担当する部隊で全滅の可能性が高い)を率いるように父から命令されました。

晴信は殿軍の役目を果たし甲府へ引き返していましたが、父の命令に背き、再び海ノ口城を攻め、隙を突かれ混乱した平賀源心を討ち取り、海ノ口城を落としました。

命令に背いたことで、晴信はさらに信虎から嫌われるようになりました。

信玄は20歳で父を追放し家督を継ぐ

1541年、信虎が信濃侵攻から凱旋し、娘婿の今川義元に会うために河内路(駿州往還)に着いたところに、晴信が甲駿国境を封鎖し信虎を追放しました。

この時、信虎は抵抗せず素直に駿府へ向かいました。

理由としては、重臣の板垣信方や信虎の「虎」の字をもらった、甘利虎泰・飯富虎昌・原虎胤・諸角虎定らが晴信側についていたからでした。

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『富嶽三十六景 身延川裏不二』における駿州往還, パブリック・ドメイン, Link

この事件には、今川義元が晴信に協力していたと言われています。
また、義元は信虎の面倒を見る代わりに晴信に隠居料を払うように指示しています。

信虎は、隠居生活を満喫したと言われており、1574年まで生き信玄よりも長く生きました(81歳)。
※信虎は亡くなった年に信玄の後を継いだ武田勝頼と対面したといわれています。

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絹本著色武田信虎像(武田信廉画、大泉寺蔵), パブリック・ドメイン, Link

信玄は領土拡大のため信濃に侵攻する

晴信は当主となると父と同様に信濃に侵攻しました。

戦国甲信越.png

戦国時代の甲信とその周辺
GFDL, Link

妹が嫁いだ諏訪家を攻める

まず、攻めたのは諏訪頼重の居城上原城でした。

諏訪家には晴信の妹・禰々(ねね)が嫁いでいました。

戦は武田勢が優勢に進め、晴信は頼重からの降伏の申し入れを受け入れて開城させました(晴信は頼重自身と頼重の家族の安全を保障していました)。
しかし、晴信は約束を守らず、頼重を甲府へ連行し、幽閉した後に自害を命じました。

この時、妹の禰々には殺すことを伝えておらず、頼重の死を知った禰々は1年もたたずに亡くなってしまいます。

また、頼重の息子である寅王丸を今川家のもとへ送り出家させました(殺されたともいわれています)。

頼重には諏訪御料人という娘がいました。晴信はこの娘を側室に迎え入れました。
後に諏訪御料人は武田勝頼を産みました。

信玄は信濃侵攻を本格化するため、今川家と北条家を味方に付ける

晴信が信濃侵攻をスムーズにするためには、今川家と北条家を味方に引き入れる必要がありました。

特に北条家は父の時代から敵対しており、晴信は北条家の動きが気になっていました。

そこで晴信は今川家を利用することを考えました。

今川家と北条家は、駿河と相模の国境付近にある河東(静岡県東部)地域を巡り争っていました(河東の乱)。
晴信は今川の援軍として参戦し北条軍と戦い、その後、仲介し停戦させました。
※この時、北条家は関東で山内上杉家・扇谷上杉家連合軍に河越城(埼玉県川越市)を包囲されていました。

今川家と北条家に貸しを作った晴信は信濃平定に集中していきました(後に甲相駿三国同盟を結ぶ)。

志賀城攻めで敵兵の首3000を城の前に並べる

晴信は、今川・北条との関係が安定したことで、信濃平定を本格的に目指して行きます。

次に攻めたのは、佐久郡の笠原清繁が籠もる志賀城でした。

志賀城攻めでは、笠原清繁の援軍としてきた関東管領勢(山内上杉家・上杉憲政)に背後をとられ挟まれますが、家臣の板垣や甘利の活躍で山内上杉軍を壊滅させました(小田井原の戦い)。

晴信は、討ち取った関東管領勢の兵士の首を志賀城の周辺に並べ、城に籠もっている兵の士気を削ごうとしました。

しかし、清繁は最後まで諦めずに戦い、最後は城にいた300人ぐらいの兵と共に戦死しました。

晴信は戦が終わった後、乱取り(人や物を略奪する)を行い、男女問わず甲斐へ連行し人身売買をするなど残酷な行為に出ました。

この行為は信濃の人達を団結させ、信濃平定への大きな障害になります。

信玄が初めての大敗北を喫す

1548年2月、晴信が次に攻めたのは信濃北部に勢力をもっていた葛尾城の村上義清(信玄より20歳年上)でした。

葛尾城主郭部

葛尾城主郭部, パブリック・ドメイン, Link

晴信は今までの戦いは連戦連勝で負け知らずでした。そのため、今回の村上攻めも勝つだろうと思っていました。

晴信は葛尾城南部の上田原で村上軍と激突しました。


戦国佐久郡.png

GFDL, Link

戦は武田軍が優勢でしたが、先鋒を務めていた板垣信方が退却する敵を追って前進すると、板垣隊は敵に横槍を入れられ、信方は討ち取られてしまいます。
先鋒隊である板垣隊が壊滅したことで、後続も次々と崩れていきました。

敵の不意を突いた村上軍は、武田本陣へ突撃し旗本衆を後退させました。

村上軍の攻撃によって武田本陣は混乱し、晴信自身も傷を負いましたが、本陣近くにいた内藤昌豊や馬場信房の活躍もあり村上軍を退却させます。

この戦いは両軍とも甚大な被害を出したと言われています。

晴信は傅役の板垣信方以外にも重臣の甘利虎泰らも失いました。

晴信は負けを認められず、戦が終わっても約20日間上田原にとどまったと言われています。

信玄が信濃を平定する

村上軍に負けた後、甲府へ戻った晴信は湯村温泉で傷を癒やしたと言われています。

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By さかおり , CC 表示-継承 3.0, Link

この1ヶ月の間で態勢を立て直した晴信は、1548年4月、信濃守護小笠原長時が諏訪領に侵攻してきたため、晴信はこれを迎え撃ち撃退しました(塩尻峠の戦い)。

1550年9月、晴信は再び村上義清と戦うことになります。義清の支城砥石城を攻めました。
しかし、この戦いで晴信はまた義清に負けてしまいます(砥石崩れ)。
この戦いで家臣の横田高松などを亡くし、村上軍の10倍の犠牲者(約1000人)を出しました。

砥石城に苦戦した晴信でしたが、この砥石城をわずか1日で落とした武将がいました。
その人物は真田幸隆です。

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真田幸隆 長野県長野市松代町長国寺所蔵 パブリック・ドメイン, Link

幸隆は村上勢の武将を調略し、内部から崩していきました。

幸隆の活躍により、晴信は砥石城を陥落させ、義清の本拠地葛尾城も落としました。

義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に落ち延びました。

村上家を倒したことで晴信は北信濃以外の信濃を平定しました。

信玄のライバル上杉謙信の登場と川中島の戦い

北信濃以外の信濃を手に入れた信玄は、北信濃も平定するために進軍します。

しかし、北信濃にいた村上義清を初めとする国人たちは越後の長尾景虎(上杉謙信)に助けを求めたため、景虎が北信濃に進軍してきました。

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上杉謙信像(上杉神社蔵)  パブリック・ドメイン, Link

この過程で起こったのが川中島の戦いです。

川中島の戦いは1553年から1564年の間に5回ありました。中でも1561年の第4次川中島の戦いは激しい戦いとなりました。

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第四次川中島の戦い
(岩国美術館所蔵「川中島合戦図屏風」左隻部分)
パブリック・ドメイン, Link

この戦いで、信玄は弟の武田信繁や山本勘助など多くの家臣を失いました。

武田軍は全兵力の5分の1、上杉軍は全兵力の4分の1が死傷しました。

上杉謙信との戦いは、結果的に晴信の天下統一への道を遅らせたといえます。

晴信は1559年に出家し名を晴信から「信玄」に改めました。

信玄は桶狭間の戦いによって外交方針を変える

信玄が上杉謙信と戦っている間に、駿河の今川義元が1560年に上洛を開始しました。

しかし、上洛の途中に桶狭間の戦いで義元は織田信長に討ち取られました。

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太平記英勇伝三:今川治部大輔義元(落合芳幾作)
東京都立図書館, パブリック・ドメイン, Link

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紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵), パブリック・ドメイン, Link

桶狭間の戦いによって、信玄は外交方針を変えることになります。

信玄は領土拡大のため、同盟国であったはずの今川家を攻めることを考えます(義元の後を継いだ今川氏真は政治をあまりせず、今川家が弱体化する)。

また、今川家を倒し美濃の斎藤攻めを考えていた織田信長に接近し、1565年に信長の養女を息子・勝頼の正室に迎え、織田家と同盟を結びます。

信玄の外交方針は北の越後から南の駿河に変わり、甲信越を初め関東でも影響を受けることになります。

信玄は長男の義信と対立する

信玄の駿河侵攻に反対したのが長男の武田義信でした。

理由は、義信の正室は今川義元の娘だったからです。

そのため、義信は傅役の飯富虎昌や側近の長坂昌国などの義信一派とともに信玄暗殺の密談をしていました。
しかし、この密談は飯富虎昌の実弟・飯富昌景(山県昌景)の密書により信玄にばれてしまいました。

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甲越勇將傳武田家廾四將:飫富兵部少輔虎昌(歌川国芳作)
大英博物館, パブリック・ドメイン, Link

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甲越勇将傳武田家廾四将:山縣三郎兵衛昌景(歌川国芳作)
ボストン美術館, パブリック・ドメイン, Link

密談がばれた義信と義信一派は信玄に捕らえられ、飯富虎昌を初めとする義信の側近は1565年1月に処刑され、80騎の家臣団は追放されました。
義信は同年10月に甲府の東光寺に幽閉され、1657年10月に亡くなりました(自殺とも病死とも言われています)。享年30歳でした。

武田家の跡継ぎ候補の死は、その後の武田家にとって大きく影響します。

信玄は同盟国であった今川・北条と戦う

義信の死によって、国内に反対する勢力がいなくなると、信玄は1568年に本格的に駿河に侵攻します。

信玄が今川攻めを始めたことで、甲相駿三国同盟が崩れます。

信玄は相模の北条氏康にも駿河へ侵攻することを要請しますが、氏康はこの要請に大反対し今川の援軍として駿河に出陣しました(今川氏真の正室は氏康の娘)。

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『集外三十六歌仙』の今川氏真
静岡県編『静岡県史』掲載の画像, パブリック・ドメイン, Link

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北条氏康像(小田原城天守閣所蔵模本品、原本は早雲寺所蔵)
小田原城天守閣所蔵品。http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/Leisure/Castle/j_kouen.html, パブリック・ドメイン, Link

信玄は氏康の対応に対して、北関東の佐竹家(武田家同じ河内源氏)などの反北条勢力と同盟を結び北条家を牽制し、越後の上杉謙信とは15代将軍足利義昭に仲介を頼み謙信と和睦します(甲越和与)。
さらに、三河の徳川家康にも遠江の割譲を約束し今川領へ出陣させました。

関東・甲信越勢力図(筆者作成)

信玄は、三増峠(現在の神奈川県愛甲郡愛川町周辺)で北条軍を撃退し、1569年10月には北条家の本拠小田原城を包囲しました(その後、北条家と和睦し撤退)。

信玄は1569年12月に駿府城を落とし今川家を滅ぼしました(氏真は数人の家臣と逃亡する)。

また、夢でもあった「海」を手に入れました。

信玄が織田包囲網に加わり上洛に動く

信玄が今川家を滅ぼす1年前の1568年9月、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛をしました。

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織田信長像 (神戸市立博物館蔵、重要文化財), パブリック・ドメイン, Link

Ashikaga Yoshiaki.jpg足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)“, パブリック・ドメイン, Link

当初、義昭は信長のおかげで将軍になれたため、信長の行いを黙って見ていました。

しかし、信長が暴走し始めると義昭と信長は次第に対立していき、義昭は信長を倒すべく各地の大名に御内書(将軍が送った公文書)を発給し、1571年に織田包囲網を完成させます。

信玄も織田包囲網に加わるとともに上洛に動きます。

信玄は、まず信長と同盟を結んでいた徳川家康を攻めました。

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徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵), パブリック・ドメイン, Link

武田軍は徳川軍を各地で破っていき、浜松城に籠もった家康を無視するなど、家康を挑発しました。
この挑発に乗り浜松城から出てきた家康を、1572年12月に三方原の戦い(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で破り大勝しました。
※この時、家康は命からがら浜松城に帰り自分の姿を部下に書かせました

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三方ヶ原の戦い, パブリック・ドメイン, Link

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『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵), パブリック・ドメイン, Link

信玄は家康に勝ったことで三河も手に入れ、武田家の支配地域を甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の6カ国と西上野・東美濃・東飛騨の地域まで広げました。

信玄は上洛の途中で亡くなる

信玄は家康を倒し上洛のため進軍していましたが、三方原の戦いの後に持病が悪化し吐血してしまいます。

そのため、武田軍は進軍を止め信玄は長篠城で療養しました。

しかし、信玄の容体は良くならず家臣達の話し合いにより、1573年4月に甲府へ引き返しました。

そして、甲府へ引き返している途中に現在の長野県下伊那郡阿智村あたりで亡くなったとされています(享年53)。

信玄は亡くなる前に遺言を残したとされています。

家臣に対しては

自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事

勝頼に対しては

信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事

これらの遺言は、信玄が自身が死んだ後の武田家を心配していると見られます。特に3年間の秘匿は織田や徳川などの勢力からの攻撃を恐れていたためだと言われています。

信玄死後の武田家

信玄の死後、後を継いだのが4男の武田勝頼です。

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 武田勝頼像 高野山持明院蔵
 高野山持明院蔵, パブリック・ドメイン, Link

勝頼は元々は諏訪勝頼と呼ばれており、武田家を継ぐ予定はありませんでした。

そのため、武田本家は義信が継ぎ、信濃を勝頼が継ぐという体制をとる事を信玄は考えていました。

しかし、長男の義信が死ぬと(次男は盲目、3男は夭折)、勝頼が武田家を継ぐことになりました。

 

勝頼は遺言の通りに、3年間信玄の死を隠し葬儀も行いませんでした。

一方、信玄の目標でもあった上洛を実現するため領土拡大にも動きます。

勝頼は信玄に引けを取らないぐらいの戦上手であったため、信玄が落とせなかった高天神城(現在の静岡県掛川市)を落とすなどしました。

 

しかし、1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、上洛を諦めることになります。

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長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵), パブリック・ドメイン, Link

長篠の戦いに敗れた勝頼でしたが、その後態勢を立て直し、上野(群馬県)や越後の一部を手に入れるなど、信玄の時代よりも領土を拡大させ、武田家の最大版図を獲得しました。
また、謙信の後を継いだ上杉景勝(正室は勝頼の妹)と同盟を結びました。

しかし、次第に織田・徳川の反攻の前に領土を縮小していき、家臣の離反(小山田氏や穴山氏など)などもあり、1582年に天目山(山梨県甲州市大和町木賊及び同大和町田野にある峠)で子の信勝とともに自害しました。

武田家が滅んだのは信玄の死から9年後のことでした。

信玄のことが書かれている『甲陽軍鑑』について

ここまで武田信玄の生涯を紹介してきましたが、そのほとんどが『甲陽軍鑑』に書かれている内容です。

甲斐志料集成. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

この『甲陽軍鑑』は江戸時代初期に編纂された軍学書であり、書かれていることすべてが事実だったとはいえないといわれていて、一次史料としては信憑性に欠けています。

近年では事実と創作の研究が進んでいます。

父・信虎との関係

1541年に信玄は信虎を追放しますが、その追放理由が信虎が暴君であったからだと言われています。

たしかに、信虎は気が荒く戦ばかりしていたため、兵は疲れるし、農業する次期にいないといけない男達が兵として戦に出てしまっているため、甲斐は厳しい状況でした。

そんな信虎を良く思っていなかった信玄は父を追放しますが、その理由を信虎が暴君だったからと決め、追放を正当化するための言い訳にしたかったのではないかと言われています。

軍師山本勘助の存在

大河ドラマでも登場する山本勘助ですが、本当に存在したのか疑問視されています。

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山本勘助(松本楓湖作、恵林寺蔵)
松本楓湖 – http://tabikoborebanashi.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_b236.html, パブリック・ドメイン, Link

山本勘助は『甲陽軍鑑』以外の史料には全く出てきていないため、実在したかわからないとされています。

しかし、1969年に放送された大河ドラマ『天の地と』を見ていた視聴者が持っていた古文書に、字は違うが「山本菅助」という名の人物が書かれていたため、近年では軍師ではなく、信玄の家臣の家臣(山県昌景の一兵卒)という位置づけがされています。

川中島の戦いの一騎打ち

川中島の戦いの1番の見所と言えば、信玄と謙信の一騎打ちシーンだと思います。

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武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討像 長野市八幡原史跡公園, Link

しかし、この一騎打ちは後世の創作とされています。

この戦いで、謙信は馬に乗って戦っていたと言うことと、信玄の本陣に白い布を巻いた兵(謙信の影武者?)が馬に乗って突入してきたという伝承が合わさってできたのが、この一騎打ちのシーンであると言われています。

信玄の領国経営

信玄は戦の他にも、領国の経営にも高い能力を発揮しました。

治水工事

信玄の本拠地である甲府は平野部で周囲を山に囲まれた盆地でした。

そのため、山から流れて来る川が多く、大雨の後や冬が終わる頃になると河川の氾濫が甲斐各地で起こり、稲や作物を育てる田畑がなくなってしまっていました。

信玄は当主となると治水工事を積極的に行いました。

代表的なのが御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(現甲斐市)に築かれた「信玄堤」です。

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信玄堤
 さかおり 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

信玄堤のおかげで河川の流れを変え、田畑を耕せることができました。

この治水は武田家が領土を広げられるようになった要因の1つといえます。

甲州金

甲斐は塩などが採れませんでしたが、黒川金山や湯之奥金山などの金山が存在し、これらの金山から採れる金を鋳造し流通させていました。

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甲州一分金 背重
By As6022014, CC 表示 3.0, Link

武田家滅亡後、甲斐は徳川家康の領地となり秀吉時代を経て、江戸幕府の直轄地となります。

江戸時代になると貨幣発行は幕府が独占していましたが、甲斐金は領国貨幣として認められてました。

近世では、甲州金は大小切税法(だいしょうぎりぜいほう)、甲州枡と併せて「甲州三法」と呼ばれています。

信玄を支えた家臣達①

信玄には「武田二十四将」を初めとする優秀で信頼できる家臣が数多くいました。

何人かご紹介したいと思います。

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武田二十四将図(武田神社所蔵品)パブリック・ドメイン, Link

信玄の若い頃を支えた板垣信方と甘利虎泰

板垣信方と甘利虎泰は甲斐武田家と同じ甲斐源氏の分家の出です。

信方と虎泰は信虎の時代から武田家に仕えており、信玄の代になると武田家最高職の「両職」になります。

特に板垣信方は信玄の守役を務め、信玄は父親のように接していました。

信玄が信濃侵攻の際に連戦連勝し調子乗っていると、信方と虎泰は説教をするようになりました。
しかし、信玄は聞く耳を持ちませんでした。

そして、上田原の戦いで、信方と虎泰は先鋒となり討ち死にしてしまいます。

信玄はすごくショックを受けたといわれており、その後の言動を改めるようになりました。

策略で信玄を助けた真田幸隆

真田幸隆は信虎の時代に故郷の小県郡を奪われており、武田家を恨んでいました。

しかし、信玄が当主となると旧領を回復し信玄の家臣になります。

幸隆は知略にかけており、信玄が落とせなかった砥石城を調略でわずか1日で落とす活躍を見せました。

その後は、信濃の先鋒として対上杉家に備えました。

子には真田昌幸、孫には真田信繁(幸村)がいます。

内政・外交で活躍した駒井政武(高白斎)

あまり有名ではありませんが、駒井政武は信玄の側近として若い頃から仕えていました。

内政では、所領安堵などの各種文書の発給を行っていました。また日々の用務を日記にした『高白斎記』を残しており、『甲陽軍鑑』よりも信憑性があるとされています。
また、武田家の分国法である『甲州法度之次第』を起草し信玄に出しました。

外交では、今川家と北条家が争った河東の乱で仲介役として活躍し争いを終わらせ、後の甲相駿三国同盟締結に大きな影響を与えました。

信玄を支えた家臣達②

次は武田二十四将の中でも特に有名な「武田四天王」を紹介したいと思います。

信虎時代にも「武田四天王」はいましたが、今回は信玄時代の「武田四天王」を紹介します。

※武田四天王は後代の人が作ったもので、武田家を支えた中心的家臣です。

「鬼美濃」と呼ばれた馬場信房

馬場信房は信玄よりも5歳か6歳ぐらい上で、信虎の時代から武田家に仕えていました。

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馬場美濃守信房(部分)(恵林寺蔵、松本楓湖筆)
恵林寺所蔵品。信玄公宝物館保管品。, パブリック・ドメイン, Link

信房は元々甲斐国の教来石村に住んでいたため、教来石景政と名乗っていました。
※馬場氏と教来石氏は同族

馬場氏は信虎の時代に一度滅ぼされましたが、信玄の時代になると名門であった馬場氏を景政が継ぎ、馬場信房と改名しました。

板垣信方が亡くなると、後を継ぎ信濃方面を担当します。

勝頼が当主となると疎まれるようになり、長篠の戦いで討ち死にしました(享年61)。

 大河ドラマにも出てこない地味な四天王・内藤昌豊

内藤昌豊は馬場信房と同じく、信虎の時代から武田家に仕えていました。

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内藤修理昌豊肖像画 CC0, Link

昌豊が生まれた家は内藤家ではなく工藤家でした。

工藤家は信虎の時代に昌豊の父が反乱を起こしたため、昌豊は兄と共に追放されてしまいます。

信玄が当主となると、信玄は昌豊を呼び戻し昌豊に謝罪したと言われています。
※兄が工藤家、昌豊が内藤家を継ぐ

昌豊が地味だと言われているのは、「小荷駄隊」と呼ばれる補給部隊を率いていたためでした。
また、対上杉や対北条ではなく上野(群馬)方面を任されていたため、大きな戦とは縁がありませんでした。

勝頼が当主となると、馬場信房と同様に疎まれるようになり、長篠の戦いで撤退中に討ち死にしました(享年53)。

「逃げ弾正」の名で知られる高坂昌信

高坂昌信(弾正)は、元々春日虎綱という名前で武士ではなく百姓の出身でした。

父が亡くなると姉夫婦との遺産相続で敗訴してしまい、身寄りが無くなってしまいますが、そんなときに信玄に召し抱えられます。

信玄からは海津城の城主を任され、上杉家への対策を行っていました。

勝頼が当主となり長篠の戦いが起こると、昌信は参戦しませんでしたが、武田軍の敗戦を聞くと勝頼を出迎えたといいます。

謙信の後を継いだ上杉景勝と甲越同盟を締結させるなどし、亡くなるまで上杉家との取り次ぎ役として活躍しました(享年52歳)。

ちなみに「逃げ弾正」とは、戦が嫌で逃げるのではなく、戦での撤退戦が得意だったため昌信は「逃げ弾正」と呼ばれました。

「赤備え」で有名な山県昌景

山県昌景は四天王の中でも1番年下でしたが、信玄の側にずっといた人物で、武田家の副将と呼ばれていました。

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甲越勇将傳武田家廾四将:山縣三郎兵衛昌景(歌川国芳作)ボストン美術館, パブリック・ドメイン,Link

山県昌景で有名なのが「赤備え」という甲冑をすべて赤色(実際は朱色)に統一した部隊です。

赤糸威赤桶側二枚胴具足(あかいとおどし あかおけがわ にまいどうぐそく).JPG

赤糸威赤桶側二枚胴具足
中田真人, CC 表示-継承 4.0, Link

なぜ昌景が甲冑を赤色にしたのかというと、敵にわざと見せつけて恐怖を与えるためだったと言われています。

昌景が率いた赤備え部隊は精鋭部隊であったため、諸大名から見ると「赤備えは最強部隊だ」というイメージがついていきました。

昌景は信玄の上洛に付き従い三方原の戦いなどで活躍しました。

信玄の死後は勝頼のもとで活躍し、長篠の戦いでは唯一織田軍の馬防柵を突破し、織田軍を怖がらせますが、あと一歩のところで討ち死にしてしまいます(享年46歳)。

昌景の赤備えは真田信繁(幸村)や井伊直政など、他の武将も真似るようになりました。

武田信玄の名言・格言

武田信玄の名言・格言①

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

どれだけ城を強固にしても、人の心が離れてしまえば世の中を収めることができない。
熱い情を持って接すれば、強固な城以上に人は国を守ってくれるし、仇を感じるような振る舞いをすれば、いざという時自分を護るどころか裏切られ窮地にたたされるという意味です。

信玄の名言・格言②

自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ。

嫌なことを先にするというのは、困難に率先して立ち向かっていくという意味です。この名言が教えてくれるのはそのような心構えがあればこそ、困難に挫けずに前に進めるということです。

現代人にも言えることだと思います。

信玄の名言・格言③

疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し

この言葉は『孫子(そんし)』という、中国の兵法書に書かれた、軍隊を動かす時の心得を示したものです。

武田軍の軍旗にも使用され、この旗が見えると味方は士気が上がり、敵は恐れました。

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風林火山の旗
 パブリック・ドメイン, Link

信玄が与えた後世への影響

徳川家康が信玄を尊敬していた

江戸幕府を開き戦国の世を終わらせた家康は、敵であった武田信玄をすごく尊敬していたといわれています。

勝頼の死で武田家が滅んだ後、家康は武田家の遺臣を引き取ったと言われています。
また、山県昌景が率いていた赤備え部隊を家臣の井伊直政に引き継がせました。

さらに、家康は5男の松平信吉に武田氏の名跡を継がせ武田信吉に改名させました。

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武田晴信像(高野山持明院蔵), パブリック・ドメイン, Link

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徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵) 大阪城天守閣, パブリック・ドメイン, Link

江戸時代になると『甲陽軍鑑』がベストセラーになる

江戸時代になると、家康が信玄を尊敬していたこともあって、武田家に関する書物が流行ります。

その例が先程も書きましたが『甲陽軍鑑』です。

事実・創作関係なく、江戸時代に武田家のことがこれだけ知られていなければ、現在の人が知っている武田信玄は存在していなかったでしょう。

武田信玄ゆかりの地

武田神社

武田神社は武田信玄を祭神とする神社で、躑躅ヶ崎館の跡地(武田氏館跡)に建てられています。

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武田神社(2014年5月8日撮影)
 江戸村のとくぞう, CC 表示-継承 4.0, Link

乾徳山恵林寺

恵林寺は甲斐武田氏の菩提寺で信玄公の墓があります。また「風林火山」の旗もあります。

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三門
 さかおり , CC 表示-継承 3.0, Link

信玄に関係する書籍

 新装版 武田信玄 風の巻(林の巻、火の巻、山の巻)  (文春文庫、新田次郎 著 )

武田信玄の生涯を「風林火山」にちなんで風・林・火・山の各巻きに分けて書かれています。

武田氏年表―信虎・信玄・勝頼 (武田氏研究会 編集)

甲斐武田氏を信虎・信玄・勝頼に分けて書かれていて、戦国大名武田氏の一連の流れがわかる本です。

戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち (丸島 和洋 著)

前半は信虎・信玄・勝頼を中心に武田家のことが書かれていて、後半は武田二十四将をはじめ武田家家臣のことが書かれています。
家臣達がどんな仕事をしているのかが書かれており、武田家をもっと勉強したい人にオススメの本です。

まとめ

ここまで武田信玄についてご紹介してきましたがいかがでしたか。

信玄は当時弱小国だった甲斐国に生まれましたが、多大な才能を発揮し領土を拡大してきました。
また、父の時代に滅ぼされた家を家臣に継がせるなどし味方を増やしました。これによって家臣との信頼関係が生まれました。

信玄の死後武田家は1代で滅んでしまいます。信玄の死によって一家の大黒柱がいなくなってしまったため、偉大だった信玄が死んだことは、勝頼と家臣達に大きなプレッシャーがかかってしまったのかもしれません。
また、勝頼はこのプレッシャーのなか武田家の当主になり、大変難しい時期のなか父を超えようとして焦ってしまったのかもしれません。
ある意味信玄自身が武田家を滅ぼしてしまったという見方もできます。

武田家は滅んでしまいましたが、武田信玄が現在まで伝えられ人気があるのは、まずは戦が強かったこと、そして織田信長・徳川家康に恐れられた人物であったからでしょう。

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