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幕末の土佐藩において、強烈な尊王攘夷志士の集まりだった土佐勤王党。
この盟主となったのが武市半平太(たけいち はんぺいた)という武士でした。
彼は一体どんな人物だったのでしょうか。今回は、武市半平太の人物像と、その逸話についてご紹介します。
- 武市半平太とは
- 武市半平太は白札格の土佐藩士だった
- 武市半平太率いる土佐勤王党は尊王攘夷の結社だった
- 武市半平太は最も武士らしい思想の持ち主だった
- 武市半平太は剣術の達人だった
- 武市半平太は頭もいい高身長イケメンだった
- 絵も上手いが、音痴だった武市半平太
- 武市半平太と坂本龍馬とは親戚関係で仲良しだった
- 武市半平太は妻の富子を深く愛していた
- 武市半平太が土佐藩の参政・吉田東洋を暗殺させた
- 武市半平太の土佐勤王党は「天誅」と称して暗殺を連続していた
- 武市半平太は牢番役人にも大人気だった
- 武市半平太は愛弟子を毒殺しようとしていた
- 武市半平太は三回も腹を切り裂いた
- 武市半平太の死後、その死罪を後悔する藩主たち
- 武市半平太ゆかりの地 4選
武市半平太とは
武市 半平太(本名:竹市瑞山、たけいちずいざん)は、
幕末期の土佐藩で藩論を尊王攘夷に導いた、土佐勤王党の盟主です。
当時の日本は、アメリカからペリーが来航し開国を迫ってきたことで、尊王攘夷派と佐幕開国派に意見が分かれ、日本中が大きく揺れ動いていました。
そんな中、煮え切らない土佐藩の藩論を尊王攘夷に導き、薩摩藩・長州藩と並んで「薩長土尊王三藩」の名声を高めたのが武市半平太です。
 武市半平太を描いた掛け軸 高知県立坂本龍馬記念館蔵
最終的には佐幕開国派の吉田東洋を暗殺した罪で捕らえられ、37歳で切腹させられてしまいます。
しかし早々に土佐藩に対して見切りをつけ脱藩していった坂本龍馬などとは異なり、半平太は「最初に土佐藩を変えようとした人」であったとして、現代の高知県民からも愛され続けているのです。
武市半平太は白札格の土佐藩士だった
半平太は1829年9月27日、土佐国長岡郡仁井田郷吹井村で生まれます。
当時の土佐国長岡郡仁井田郷吹井村
当時の土佐藩の武士は、身分が「上士」と「下士」にはっきりと分けられており、長年の間、下士は上士に虐げられていました。
武市半平太生家 – Wikipedia
半平太は、下士の中では身分が高く、当主のみ上士と同格の扱いを受ける「白札」格の武市家に生まれました。
実は、この武市家はそれまで普通の下士で、半平太の祖父の功績が藩に認められ、そのときに「白札」に上がったのです。
そういった理由もあってか、半平太は土佐藩主の山内家に対して、非常に熱い忠誠心を抱いていました。
武市半平太率いる土佐勤王党は尊王攘夷の結社だった
日本側にとって非常に不利な内容であった日米修好通商条約を締結してしまった幕府に対して不満を抱き、
「外国人を排除せよ」「もう幕府には任せていられない。天皇を政治の中心にするべきである」
と主張していた尊王攘夷派の志士たちは、幕府の大老・井伊直弼によって弾圧されていました(安政の大獄)。
しかし井伊が桜田門外の変で尊王攘夷派志士たちに殺害されたことを知った半平太は、江戸で長州藩や薩摩藩の尊王攘夷派の志士たちと交わり、薩長土三藩連合で尊王攘夷運動を行うことを約束します。
当時の土佐藩は「皇室と幕府が協力し合って政治を行おう」という公武合体派だったので、この藩論を「尊王攘夷」に統一するため、土佐勤王党の結成を決意したのです。
土佐勤王党のメンバーには、坂本龍馬や中岡慎太郎などがおり、総勢192名にも達しました。
もともと下級武士は政治に参加できませんでしたが、土佐勤王党の加盟者のほとんどが龍馬のような下士階級の者でした。
長年上士に虐げられてきた下士ですが、土佐勤王党は、藩主への強い忠誠心を持つ人たちで結成されました。
武市半平太は最も武士らしい思想の持ち主だった
半平太は尊王攘夷派でした。しかし一言で尊王と言っても、それぞれ考え方が大きく異なります。

武市半平太獄中書簡 – 高知県立坂本龍馬記念館蔵
彼自身が書いた手紙によると、半平太の考える尊王とは、
「日本には天皇がいて、その下に将軍がいて、その下に大名がいて、その下に家老・武士がいる。
将軍は天皇に、大名は将軍に、家老・武士は大名に、それぞれ忠義を尽くすわけであるから、私たち土佐藩士は土佐藩主に忠義を尽くせば、それが将軍や天皇への忠義となるのだ」
というもので、半平太の中には幕藩体制への批判はなく、土佐藩に対する強い忠誠心が伝わってきます。
武市半平太は剣術の達人だった
半平太は自ら道場を構えるほど剣術に長けていました。半平太を慕う人は非常に多かったため、武市の道場には120人もの門弟が集まったといいます。
この道場では同じく幕末に活躍した土佐藩士である中岡慎太郎や岡田以蔵も修行しており、のちに結成される土佐勤王党のメンバーは、この武市道場の門下生が多くを占めています。

武市半平太邸跡 – 高知県にて撮影。ここに武市道場があった
安政3年には土佐藩から江戸での剣術修行の許可が下り、半平太は桃井春蔵の道場で鏡心明智流を学びます。
しばらくすると剣の腕や指導者としての人物を師匠に見込まれた半平太は、免許皆伝を受けて塾頭に任命され、門下生をきっちり纏め上げたといいます。
ちなみに当時の江戸三大道場といえば、桃井道場、斎藤道場、千葉道場の三つを指しますが、それぞれの塾頭が武市半平太、桂小五郎、坂本龍馬でした。
武市半平太は頭もいい高身長イケメンだった
武道に優れていた半平太ですが、一方で学問にも長けた頭脳明晰で、自分にも他人にも厳しく、指導者としての資質も持ち合わせていたといいます。
それゆえに他の下級武士たちからはいつも尊敬の眼差しを向けられ、「先生」と呼ばれていました。
それに加えて半平太の容姿は、色白で鼻が高く眼光が鋭い美男子だったと伝えられ、身長は約180センチメートルもありました。
当時の日本人男性の平均身長は約155センチメートル程であったといいますから、半平太はかなりの高身長であったといえます。

武市半平太 – 高知県立坂本龍馬記念館蔵
また滅多に喜怒哀楽を顔に出さず、性格は謹厳実直で、その威厳は相当なものであったと言い伝えられています。
絵も上手いが、音痴だった武市半平太
文武両道で体格も良い半平太ですが、実は芸術にも関心があったといいます。中でも絵が上手だったことは有名です。
37歳で亡くなっているため作品数はそこまで多く残っているわけではありませんが、獄中での自画像や、美人画や植物の絵を残しています。
ちなみに獄中での自画像は、盥に水を張って鏡代わりに見ながら描いたそうですが、少々二枚目に描き過ぎてしまったようで、奥さんへの手紙に「一人で苦笑いをしてしまった」という内容を記しています。
武市半平太が獄中において書いた自画像。
By 武市瑞山 – 京都大学付属図書館所蔵品, パブリック・ドメイン, Link
また、絵の他には浄瑠璃も好んでいたといいます。しかし絵とは違ってこちらは才能があまりなかったようで、ひどく音痴であったといわれています。
半平太が蔵の中で唸りだすと、家族にクスクスと笑われていたというエピソードが残されています。
武市半平太と坂本龍馬とは親戚関係で仲良しだった
幕末の土佐藩といえば有名なのは坂本龍馬ですが、半平太と龍馬は遠い親戚関係にありました。
他の勤王志士仲間が年齢や身分の上下を越えて、互いを「オンシ(あなた)」「オラ(私)」と呼び合っていたのに対し、
半平太だけは周りの同志から「先生」と呼ばれていたといわれていますが、龍馬だけは半平太を「アギ」とあだ名で呼んでいたといいます。
「アギ」とは顎のことで、顎の長い半平太をからかってそう呼んでいました。龍馬より7歳上の半平太は滅多に笑わない性格でしたが、
龍馬に「アギが、アギが」と言われると、半平太は笑って「アザが、アザが」と言い返していたといいます。
「アザ」とは黒子のことで、龍馬の顔に黒子が多いことをからかってそう呼んでいました。
龍馬がのちに土佐勤王党を辞め、脱藩した際にも、他の勤王党メンバーが龍馬を「裏切り者」として避難するなか、半平太だけは「あいつは土佐に収まりきらない男だから仕方がない」と擁護したといいます。

武市半平太は妻の富子を深く愛していた
半平太は愛妻家としても知られています。半平太の奥さんの名前は富子といって、19歳で半平太と結婚しています。二人は大変仲睦まじい夫婦でしたが、半平太と富子の間には子供がいませんでした。
当時の武士の風習では、妻に子供ができない武士は、離縁したり妾をとったりすることが当たり前でしたが、半平太は一切それを拒んだといいます。そのときの有名なエピソードが残っています。

晩年の武市富子 – 高知新聞2010.6.14月曜ワイド
吉村寅太郎という人がいました。彼は天誅組で有名な人物ですが、ある日、武市夫婦に子ができないことを心配し、富子に
「しばらくの間、病気を療養すると嘘を言って、家を空けましょう。その間に可愛い女の子を武市先生の元へ送り込みますから」
と提案します。富子はその提案に乗って、しばらく実家へと帰りました。富子を心配しながら一人で家に残った半平太の元に、虎太郎は次々と若くて美しい女性を送り込みました。
しかし半平太は指一本触れることなく過ごし、虎太郎の策略に気づくと、「子供ができないのは運命なのだから、余計なことをするな」と、厳しく叱ったといいます。
武市半平太が土佐藩の参政・吉田東洋を暗殺させた
半平太が土佐勤王党を結成した当時、土佐藩の政治を動かしていたのは吉田東洋という人物でした。東洋が土佐藩の意見としてまとめたのは「尊王攘夷」であり、藩主の山内容堂も尊王思想を抱いていました。
しかし、幕府が開国を決め、公武合体を目指し始めると、土佐藩もそれに合わせて開国・公武合体派へと藩論を変えました。
東洋はもともと優れた政治家であり、上士と下士を同じ学校で学ばせたり、半平太のような白札格の者を政治に参加できるよう上士に引き上げようとする人物でしたが、尊王攘夷思想を掲げる土佐勤王党とは対立するようになりました。
結局最後まで半平太側と東洋は理解し合うことなく、1862年4月、土佐勤王党が東洋を暗殺します。
このとき、半平太は薩長の同志と「藩主が兵を率いて京都に入り、尊王攘夷を決行する」ことを目指す約束をしていました。その期日が迫っていたことで、尊王攘夷に反対する東洋の存在が邪魔になったのです。
武市半平太の土佐勤王党は「天誅」と称して暗殺を連続していた
吉田東洋を暗殺すると、半平太は土佐藩の政治に深く関わるようになります。
参勤交代で江戸に向かう途中の藩主が兵を率いて京都に入ったのが、東洋が暗殺されてから4ヶ月後の8月のことです。
そこで10月に幕府に対して攘夷決行を迫る勅使を派遣することが決まり、半平太を含む土佐の志士は、その護衛として江戸へ向かいました。
この頃から土佐勤王党は、尊王攘夷派の邪魔をする者を次々と暗殺するようになります。半平太が指示した暗殺もありましたが、半平太の知らないところで行われていた暗殺もありました。
土佐勤王党メンバーに殺害された、本間精一郎遭難之地、京都府で撮影
彼ら尊王攘夷派の志士は、このような暗殺行為を「天誅」と呼んでいました。尊王攘夷こそ日本を外国から守る正義であり、それに反対する者には天誅(=天が下す罰)を加えることが未来の日本のためであると、心から信じていたのです。
しかしこれらの行為を罪状に、半平太ら勤王党メンバーは牢屋に入れられてしまいます。
武市半平太は牢番役人にも大人気だった
多くの志士に慕われていた半平太ですが、彼が獄中生活を送る中で関わりを持った牢番たちも、その半平太の人柄に心服したといいます。
粗末な獄舎での生活が続き、妻の富子に「せめて夢の中で会いたい」と手紙に書いた半平太ですが、そんな彼を見かねてか、牢番役人の一人が冨子を密かに牢屋に引き入れて、半平太と対面させてあげようとしました。
結局冨子がその申し出を断ったために実現しませんでしたが、番人たちはいつも半平太に花や食べ物を差し入れてくれたり、猫を連れてきてくれたりしました。
武市瑞山先生殉節之地、高知県にて撮影。この近くに牢屋があった
ある日、半平太の苦手なものだと知らずに、のぼりこ(鰻の幼魚)を差し入れてくれた番人がいました。
相手の親切を断ってはいけないと思い、嫌いだと言えない半平太はそれを食べ、「旨いでしょう」と言われて「旨い」と答えると、その番人が喜び、「また持ってきます」と言って帰りました。
本当にまた持ってきたらどうしようかと、内心困っているという内容の手紙を、冨子に宛てて書いています。
武市半平太は愛弟子を毒殺しようとしていた
半平太には可愛がっている弟子がいました。「人斬り以蔵」の呼び名で有名な岡田以蔵です。
以蔵は「足軽」という非常に低い身分の生まれでしたが、剣術の腕を半平太に見込まれ、土佐勤王党のメンバーとして活動していました。
身分の低い自分を可愛がってくれる半平太に心酔していた以蔵が主に行っていたのは、勤王党と対立する人物の暗殺でした。
岡田以蔵の拳銃、高知県立坂本龍馬記念館にて撮影
やがて藩主が土佐勤王党の弾圧を開始し、以蔵への拷問が始まると、以蔵は苦しみに耐えかね、次々と自白をしてしまいます。
その姿に呆れ返った半平太は、これ以上以蔵に自白されては、他の仲間にまで被害が及ぶと考え、以蔵の毒殺を計画しましたが、その計画が実行される前に、以蔵は斬首・晒し首の刑に処されたのでした。
武市半平太は三回も腹を切り裂いた
獄中生活を1年8ヶ月耐え続けた半平太は、「主君に対する不敬行為」の罪状で切腹を命じられます。誰よりも主君への忠誠を誓い活動をしてきた半平太にとって、これほどまでの無念はなかったことでしょう。
半平太は長く過酷な獄中生活で、既に体が衰弱しきっていましたが、最後まで武士の威厳を保つために、それまで成し遂げた人がいないという「三文字割腹」の作法に従いました。
通常の切腹は、腹の左側に懐剣を突き刺し、それをそのまま右に向かって一文字に切り開く方法ですが、半平太の行った「三文字割腹」は、その字の通り三度も腹を切る切腹だったのです。

武市瑞山割腹図〈複写〉、龍馬歴史館蔵
腹を切り、介錯をしてもらうために上半身を支えようと、手を前についた半平太でしたが、そのまま突っ伏したため介錯人は首を切り落とすことができず、横腹を6回ばかり突き刺さして、やっと絶命しました。
武市半平太の死後、その死罪を後悔する藩主たち
半平太の死後、彼と関わりがあった志士たちは口を揃えて半平太のことを「薩摩西郷隆盛に匹敵するか、その上をいく人物だった」と評しています。
半平太切腹の二年後に大政奉還(幕府が政権を天皇に返すこと)が行われ、明治維新となりました。
このとき、もし半平太が生きていれば、明治政府での土佐の立場はもっと上であったと言われており、後藤象二郎と板垣退助は半平太の処刑を「我々の誤りであった」と富子に謝罪しました。
また、藩主だった山内容堂も半平太の死罪を悔やみ、酒に酔っては「半平太許せ、半平太許せ」と呟いていたといいます。
武市半平太ゆかりの地 4選
武市半平太旧宅及び墓(高知県高知市)
住所:〒781-0112 高知市仁井田3021
半平太の旧宅及び墓は、1936年に国の史跡に指定されました。現在は個人宅につき立ち入りはできませんが、お墓に手を合わせることはできます。半平太の墓の隣には妻・富子の墓が並んでおり、静かに眠っています。
またそのすぐ近くには、半平太の業績を伝える「瑞山記念館」や、半平太を祀る「瑞山神社」があります。
武市半平太邸跡及び道場跡(高知県高知市)
住所:〒780-0823 高知市菜園場町1-15
この記事でもご紹介した武市道場跡です。横堀公園の中にあります。
武市瑞山先生殉節之地(高知県高知市)
住所:〒780-0841高知市帯屋町2丁目5-18
ここも記事でご紹介しました。石碑は高知銀行帯屋町支店前に建てられていますが、実際に半平太が切腹した南会所は、この石碑より約50メートル東南に進んだ場所にありました。
武市瑞山先生寓居之跡(京都府京都市)
住所:〒604-8001 京都府京都市中京区上大阪町528-3
京都市木屋町通沿いに、「箔」という料亭があり、その入り口に石碑があります。この箔は幕末当時、「丹虎」という料亭で、そこに半平太の住まいがありました。
以上、土佐勤王党盟主・武市半平太についてご紹介しました。いかがでしたか?
主君に尽くし、妻を一途に愛し、見事な切腹を遂げた、まさに「武士の鑑」である武市半平太。もしも彼が明治維新まで生きていたら、持ち前のカリスマ性を発揮して、活躍していたかもしれませんね。
参考資料:
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