白河天皇→上皇→法皇が分かる12トピック。100年続く院政時代を築く!

日本

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白河天皇は後に上皇となり「院政」を始め、鎌倉時代の武家政権(鎌倉幕府)が始まるまでの約100年間、日本の一時代を築きました。

この100年間も続く時代の基礎を築いた白河天皇は、なぜ院政を始めたのでしょうか。

今上天皇の譲位によって注目される「上皇」というキーワードを含めて解説します。

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白河天皇とは

白河天皇(1053年~1129年)は平安時代末期に活躍した72代目の天皇です。
即位前の名前は貞仁(さだひと)親王です。

貞仁親王(白河天皇)は、1053年に71代目の天皇である後三条天皇の第一皇子として生まれました。母は藤原氏閑院流(摂関家の支流)藤原公成の娘で、藤原能信(藤原道長の4男)の養子である藤原茂子です。
※藤原能信は摂関家の出身ですが、御堂流であり摂政にはなっていません。

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白河法皇像(成菩提院御影)
国立国会図書館蔵 パブリックドメイン Link

俳優・伊東四朗が演じる白河法皇
平清盛』©NHK

貞仁親王が生まれた時は、父の後三条天皇が摂関政治から脱却するために政治をしていました。

1072年に、貞仁親王は後三条天皇から譲位され、白河天皇として72代目の天皇に即位します。

1年後の1073年に後三条天皇が亡くなると、白河天皇は父と同様に親政(天皇自ら政治を行う体制)を敷きました。

そして、白河天皇は1086年に上皇(1096年には法皇)となり、その後100年も続く院政を始めました。

※院政自体は明治時代まで続きましたが、院政が力を持ったのは100年あまりです。

白河上皇が始めた「院政」とは?上皇・法皇とは?

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日本史上最初の上皇となった持統天皇
(飛鳥時代)
パブリック・ドメイン,Link

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来年5月から上皇になる予定の今上天皇
(平成30年5月現在)

パブリック・ドメイン, Link

院政とは、天皇が皇位を後継者に譲位して上皇(太上天皇、上皇が出家すると法皇)となり、さらに天皇の代わりに政治を行う政治体制のことです。

「天皇」という地位を離れることで、貴族の中でも一番権力を持っていた外戚の摂関家からの影響をなくせること、また、天皇の目上という立場から政治を行えることを目的としていました。

上皇の住んでいる住居が「院」と呼ばれていたため「院政」と呼ばれ、院政を行っている上皇のことを「治天の君」といいます。

摂関政治が衰え始めた平安時代末期から鎌倉時代の武家政治が始まるまで続きます。

「院政」という言葉が知られるようになったのは明治時代になってからであり、明治政府から命じられた歴史家の重野安繹らが編纂した『國史眼』という書物に出てきます。

『国史眼』
国会図書館所蔵
Shigeno Yasutsugu.jpg重野安繹
Public Domain, Link

白河上皇以前にも退位した天皇がいましたが(約20人)、院政を行っていません。

また、白河上皇以後も多くの天皇が退位していますが、院政をしたのは数えられる程度しかいませんでした。

なぜ、白河上皇の時には院政ができたのでしょうか。

白河上皇が院政を始める前の「摂関政治」とは

摂関政治とは、平安時代初期に藤原北家の良房流の一族が、代々皇室の外戚として摂政や関白の要職に就き、政治の実権を独占した政治体制のことです。

※藤原北家とは、藤原不比等(父は藤原鎌足)の次男・藤原房前を祖とする家系のこと

摂関家の全盛期といわれているのが、藤原道長と藤原頼通親子の代です。

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藤原道長(菊池容斎『前賢故実』より)
パブリックドメイン, Link

藤原道長は娘を天皇家に嫁がせ、後一条天皇(68代天皇)・後朱雀天皇(69代天皇)
・後冷泉天皇(70代天皇)と、3人の天皇の外戚となり、その後、摂政に就き権力を持ちました。

藤原頼通は父の死後、朝廷の第一人者として後朱雀天皇と後冷泉天皇の治世には、50年のあいだ関白を務めました。

また、頼通が造営した平等院鳳凰堂は、摂関家の全盛期の象徴といえます。

Phoenix Hall, Byodo-in, November 2016 -01.jpg

平等院鳳凰堂
By Martin Falbisoner, CC 表示-継承 4.0, Link

しかし、頼通が天皇家に嫁がせた娘には男子が生まれませんでした。

そのため、頼通から疎遠の後三条天皇が即位すると摂関家の発言力は弱まり、次第に摂関政治は没落していきます。

白河天皇が「院政」を行えたのは、父・後三条天皇の「親政」のおかげ?

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後三条天皇
By Published by 三英舎 (San’ei-sha) – “御歴代百廿一天皇御尊影”, パブリック・ドメイン, Link

白河上皇が「院政」を始められるきっかけを作ったのは、父の後三条天皇の「親政」があったからです。

後三条天皇と摂関家の関係

後三条天皇は、1034年に後朱雀天皇(69代天皇)の第二皇子として生まれました。また、母は禎子(ていし)内親王であり、宇多天皇(59代天皇)以来170年ぶりの外戚に藤原氏をもたない天皇になります。

外戚に藤原氏をもたないことで、後三条天皇は摂関政治からの脱却を図ります。

反摂関家勢力を登用する

1068年に即位した後三条天皇は、まず反摂関家勢力の藤原能長(権大納言)や源師房(右大臣)を登用し、摂関家による政権独占を抑えようとしました。

また、中級貴族である大江匡房(蔵人)や藤原実政(正四位下)らを登用し積極的に親政を行いました。

延久の善政

1069年、後三条天皇は荘園を整理するために「延久の荘園整理令」を発布しました。

摂関家が力を持てた理由としては、皇室の外戚になったことが一番ですが、この「荘園」を広大に持っていたことも、力を持てた理由として挙げられます。

「延久の荘園整理令」は、今までの整理令にはなかった緻密さと公正さがあり、荘園領主や農民に安定をもたらせました。

この整理令によって、基準外の広大な荘園を持っていた摂関家は経済的打撃を受けるとともに、皇室との外戚関係がなかったため弱っていきます。

 

1072年、後三条天皇は即位後わずか4年で貞仁親王(白河天皇)に譲位して、院政を行おうとしました。

しかし、翌年1073年に40歳で崩御したため院政を行うことはできませでした。

※後三条天皇が退位したのは院政をするためではなく、病によるものという説もありますが、結果的には、摂関政治から院政への移行の要因をつくりました。

日本の政治体制(一部)概要天皇の例
摂関政治藤原家(良房流)が政治的権力を独占後朱雀天皇
親政天皇自ら政治を行う後三条天皇白河天皇
院政上皇が政治を行う白河上皇/法皇
民主政治国民の代表者が政治を行う今上天皇

白河天皇が即位後、皇位継承権問題が起こった

1072年、貞仁親王は20歳で後三条天皇から譲位され、白河天皇として即位しました。

白河天皇は即位とともに、後三条上皇の意向もあり異母弟の実仁(さねひと)親王を皇太弟(弟が次期天皇)としていました。

また、後三条上皇の遺言で、もう1人の異母弟・輔仁(すけひと)親王を実仁親王の次の天皇にするように言われていました。

なぜ、後三条上皇が白河天皇の異母弟を次期天皇にすると言ったのかというと、白河天皇の妻は藤原賢子という人だからでした。

賢子は摂関家でない源顕房の実子でしたが、摂関家の藤原師実(もろざね)の養女となって白河天皇に嫁いでいました。

後三条天皇・白河天皇家系図(筆者作成)

家系図を見てもわかる通り、白河天皇の息子である善仁(たるひと)親王(堀河天皇)が次期天皇となった場合、摂関家が外戚となり摂関政治が復活してしまいます。

そのため、外戚が摂関家ではないもう一人の妻である基子の子、実仁親王と輔仁親王を次期天皇にすることを考えたのです。

白河天皇は後三条上皇の考えに反対をしていましたが、後三条上皇や反摂関勢力の影響、さらに妻が摂関家であったことから、後三条上皇の考えに従うしかありませんでした。

白河天皇は上皇となり「院政」を始める

1073年に後三条上皇が崩御すると、父同様に荘園整理などに力を入れ積極的に親政を行い、摂関家を弱らせることに努めます。

また、1085年に皇太弟であった実仁親王が薨去(皇太子や親王が亡くなること)すると、翌年に白河天皇は、輔仁親王ではなく実子で8歳の善仁親王に譲位しました。

白河天皇は上皇となり、まだ8歳の堀河天皇(73代天皇)の後見として政治を行い「院政」を始めました。

白河上皇は最初から強い権力を持っているわけではありませんでした。
なぜなら、堀河天皇の祖父は摂関家の藤原師実であったからです。

しかし、藤原師実は白河上皇と協力する態度を示し、白河上皇も信頼していたため院庁(上皇直属の政務機関)の人事などの政務をまかせていました。
そのため、上皇と摂関家との間で大きな争いは起きませんでした。

院政初期の政治は、摂関政治とは対して変わりませんでした。

国立国会図書館デジタルコレクション

山県悌三郎『帝国小史 : 刪定. 乙号 巻1』(明治時代の小学校の教本)

※コマ番号51と59に院庁と院政のことが書かれています。

白河上皇は出家し、一時的に摂関政治が復活する

白河上皇には子の堀河天皇がいました。

堀河天皇は成人すると自ら親政を行いたかったため、上皇の政治介入に反対する関白・藤原師通(もろみち、藤原師実の子で関白を継ぐ)と協力するようになります。

白河上皇はこの状況に反対するのではなく許容していました。
理由としては、堀河天皇が成人したため後見としての役目が終わったこと。また、堀河天皇の准母(生母ではない女性が母に擬される)の媞子(ていし)内親王が薨去したため出家して政務への意欲がなくなったことがあげられます。

1096年、白河上皇は出家し白河法皇となります。また、この出家で寺院と関わりを持つようになると、寺や仏像を多くつくり寺院を保護するようになります。

例えば法勝寺などです(現在は寺はなく庭が残っている)。

白河院庭園.JPG

法勝寺跡の一部の敷地に存在する京都白河院の庭園。池泉回遊式の山水庭園で京都市指定名勝
By Kamigata0 ,CC 表示-継承 4.0, Link

このような白河法皇の堀河天皇や藤原師通への対応は一時的に摂関政治を復活させました。
白河法皇は出家はしましたが、政治から完全に引退したわけではありません。

堀河天皇の死によって、白河法皇が再び表舞台に立つ

1099年に摂関家の藤原師通が死去すると状況変わっていきます。

師通の後を継いだ子の藤原忠実(ただざね)は22歳とまだ若く、堀河天皇を補佐する力はありませんでした。
そのため、堀河天皇と忠実は政治のことについて白河法皇に相談しなければならない状況になってしまいました。

さらに、1107年に堀河天皇が崩御し、堀河天皇の子である5歳の宗仁(むねひと)親王が鳥羽天皇(74代天皇)として即位すると、白河法皇は鳥羽天皇の代わりに政治を執るようになりました。

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鳥羽法皇像(安楽寿院所蔵)
安楽寿院, パブリック・ドメイン, Link

白河法皇は摂関家内での問題や堀河天皇の死、さらには幼帝(鳥羽天皇)の出現によって、再び表舞台に立つようになりました。

白河法皇の「院政」が本格化する

政治的権力を手にした白河法皇は専制的な政治を敷き、亡くなるまで院政を行いました。

人事権の掌握

白河法皇は叙位・除目に介入し、人事を思うがままに変えていきました。
近習(部下)の多くを実入り(年貢や献上品)が多い国の受領(現地に赴任した行政責任者)にしました。

この法皇の態度に対して藤原宗忠(右大臣)は次のように言いました。

上皇(白河法皇)の権威が、すでに君主である天皇に等しい、或はそれ以上の専制君主の域に達している。

(今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也。)

『中右記』 天仁元年十月二十八日条 より

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藤原宗忠 (『天子摂関御影』)
By 藤原豪信 – http://www.rekihaku.ac.jp/e-rekihaku/112/, パブリック・ドメイン, Link

北面武士の設置

院の警護のために設置され、主に寺社の強訴を防ぐために動員されました。

また、北面武士を次々と検非違使(京の治安維持のための機関)に抜粋したため、次第に検非違使に対しても法皇が命令できるようになりました。

皇位継承権の剥奪

法皇は、過去にあった実仁親王立太子を巡る問題の教訓から、堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の異母弟に対して、親王宣下や臣籍降下などを認めず強制的に出家させ、皇位継承の対象から外しました。

 

これらの政策は「院」の力を強め、本格的な院政時代入りました。

そして、法皇は曾孫の崇徳天皇(75代天皇)の代まで政治をし、3代の天皇(堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇)のもとで43年間院政を行いました。

1129年、白河天皇は77歳で崩御しました。

その後の主な上皇

鳥羽上皇

1123年に第1皇子の崇徳天皇に譲位し上皇となります。しかし、政治の実権は父の白河法皇が握っていました。

1129年に白河法皇が崩御すると、父と同様に院政を敷きました。

1141年に23歳の崇徳天皇に譲位を迫り、3歳の近衛天皇(76代天皇、崇徳天皇の異母弟であったが養子になる)を即位させます。

1155年に近衛天皇が早世すると、第4皇子の後白河天皇(崇徳天皇の同母弟)を即位させました。

子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷きました。

後白河上皇

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後白河法皇
宮内庁書陵部, パブリック・ドメイン, Link

1127年に白河上皇の第4皇子として生まれました。

1155年に近衛天皇の早世によって29歳で即位(77代天皇)します。

1156年に起こった保元の乱では、兄の崇徳上皇と戦い勝ちました。
この戦いで崇徳上皇を流罪にしました。また、平清盛などの武士が活躍し、後にこの武士の存在が院政を行う上での大きな障害になります。

1158年に息子の二条天皇(78代天皇)に譲位し上皇となり院政を開始します。

1185年に平氏が滅び、源頼朝による政治が確立していくと、院政の力は弱くなっていきました。

白河上皇ゆかりの地

 法勝寺(京都市)

白河天皇が建立した六勝寺(法勝寺以外に5つの寺がある)の1つで、1番最初に作られた最大の寺です。
戦乱や天災で焼失しては再建されてきました。現在は寺はありませんが庭が残されています。

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京都市勧業館にあった法勝寺の模型(現在は京都市平安京創生館に移設
By Jnn, CC BY 2.1 jp, Link

白河院庭園.JPG
法勝寺跡の一部の敷地に存在する京都白河院の庭園。池泉回遊式の山水庭園で京都市指定名勝
By Kamigata0 , CC 表示-継承 4.0, Link

法勝寺があった白河院

成菩提院陵(京都市)

白河上皇が眠る墓です。

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白河天皇 成菩提院陵
By L26 , CC 表示 3.0, Link

白河天皇 成菩提院陵

白河天皇や院政に関連する書籍

白河法皇―中世をひらいた帝王 (NHKブックス、美川圭 著)

院政を始めた白河法皇について、様々な視点から書かれています。
院政が始まる前の時代、摂関政治や後三条天皇のことが書かれているため、院政始まるまでのことが理解しやすい本です。

祇園女御(上)(下) (講談社文庫、瀬戸内 晴美  著 )

白河法皇の東宮妃とし入内した祇園女御でしたが、藤原賢子の出現によって白河法皇から見放されるようになります。
摂関政治から院政へ移行した時代を、祇園女御と藤原賢子からの視点で書かれた歴史小説です。

平清盛と後白河院 (角川選書、元木 泰雄 著)

院政時代から武士の時代へ移行した時代を生きた平清盛と後白河天皇を中心に書かれた本です。
白河法皇の代から始まった院政が、どのような形で進んできたのかがわかる本です。

まとめ

ここまで白河上皇についてご紹介してきましたがいかがでしたか。

白河上皇は初めから院政を行おうとしたのではなく、後三条天皇が行った政策など、様々な影響によって行えたのではないでしょうか。なかでも、息子の堀河天皇の死による鳥羽天皇の即位は、白河法皇の院政を本格化させた1番の要因でした。

しかし、院政は上皇による独裁を誕生させ、さらには保元の乱に見えるように上皇と天皇との間で戦争を起こすなど、院政自らが体制を崩壊させる状況にし、新勢力である武士を勢いづかせる形になってしまいました。

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