オランダ建国の父・オラニエ公ウィレム1世を知る17トピック

オランダ

この記事を読むのに必要な時間は約 18 分です。

オランダと言えば、チューリップや風車、アイススケートなどがあげられるでしょう。ヨーロッパの中でも大きくはないけれど、独特な輝きを放つオランダ。意外と知られていないオランダ建国の道のり。

ここでは、そのオランダで最も尊敬されている「建国の父」オラニエ公ウィレム1世を徹底分析します。

スポンサーリンク

オラニエ公ウィレム1世とは

オラニエ公ウィレム1世は、「建国の父」としてオランダで最も尊敬されている人物の一人です。

高校の世界史で、オレンジ公(英語読み)やオラニエ公(オランダ語読み)やらで出てきた記憶がある方もいらっしゃるかと思います。

2004年にオランダのテレビで放送された「もっとも偉大なオランダ人」の視聴者アンケートの結果、「アンネの日記」のアンネ・フランクや「フライング・ダッチマン」のニックネームで愛されたサッカー選手ヨハン・クライフ、悲劇の画家ゴッホなどを抑えて一位を獲得しました。

Antonio Moro - Willem I van Nassau.jpg
オラニエ公35歳頃の肖像, パブリック・ドメイン, Link

ウィレムは、1533年4月24日にドイツのナッサウ家ヴェルヘルムの長男として生まれます。しかし、11歳の頃、ナッサウ家の当主が戦死したため、長男であるウィレムが遺産相続人に認められ、オラニエ公ウィレム1世となります。

その後、神聖ローマ帝国の皇帝であり、スペイン国王、低地諸州の統治者であるカール5世の寵愛を受け育っていきます。その時、カール5世の息子であるフェリペ2世とも良好な関係を築いていました。しかし、フェリペ2世がスペイン国王になってからだんだんと軋轢が生じ、八十年戦争へと突入していきます。

そして、オランダをスペイン支配から独立へ導くため、フェリペ2世に対する「国王廃位布告」を出した3年後の1584年7月10日、狂信的カトリック教徒男性の凶弾に倒れ、51年の生涯に幕を閉じています。

オラニエ公が独立に導く前のオランダは「周辺」の存在だった

現在のオランダにあたる地域はどのような歴史を辿ってきたのでしょうか。まずは、歴史の流れを簡単に触れていきたいと思います。

ローマ帝国以前(大まかに紀元前)は、バタヴィ族やフリース族などが共存していました。ローマ帝国時代には、ライン川がローマ帝国領の最北端の国境線として現在のユトレヒトなどが重要な町として砦などが造られました。その後、4世紀以降の民族大移動を経て、フランク王国の領土となっていきます。


現在のオランダ 首都アムステルダム

9世紀頃になるとヴァイキングの侵攻により、大部分が占領され統治されます。神聖ローマ帝国が台頭してからは、その支配下に置かれます。なお、1100年頃までは、現在のロッテルダムやアムステルダム、ハーグ地方は未開の地であり12世紀頃になってからようやく「ホラント」と呼ばれるようになりました。

15世紀にはブルゴーニュ領ネーデルラントとなりますが、ハプスブルク家との婚姻関係を結び、その支配下に置かれます。そして、16世紀にはカール5世、フェリペ2世が統治をすることになります。

これからのことからわかることは、現在のオランダにあたる地域はヨーロッパの中で中心的存在ではなく、「周辺」であったということです。

オラニエ公の生きた、激動の16世紀ヨーロッパ世界

では、オラニエ公の生きた16世紀のヨーロッパは、どんな時代だったのでしょうか。

ルネッサンスと宗教改革の強烈な影響力によって中世的な世界観が変わり、新たに近代的な世界観が形成されはじめた時代といえるでしょう。また、対外的にはオスマン帝国の全盛期であり、新大陸への征服が本格的にはじまった時代でもあります。

宗教改革は、マルティン・ルターによる95カ条の論題(1517年)が出されたことで宗教改革が一気にはじまります。アウグスブルクの和議(1555年)によってルター派の信仰が認められるまで約40年を要します。その後も宗教的な争いは絶えず、フランスではサン・バルテルミの虐殺(1572年)でプロテスタントがカトリックにより大量虐殺される事件が起こっています。

Francois Dubois 001.jpg
ユグノー戦争「サン・バルテルミの虐殺」
Byフランソワ・デュボア , Musée cantonal des Beaux-Arts Lausanne パブリック・ドメイン, Link

科学的な分野では、コペルニクスによって地動説が発表(1543年)されます。また、ローマ教皇グレゴリウス13世によってグレゴリオ暦(現在の太陽暦)が制定されます。

また、対外的には、スペインのコンキスタドールによって、新大陸のインカ文明(1533年)やアステカ文明(1521年)は滅亡しており、マヤ文明も大きく衰退していることから、大航海時代が冒険から征服の時代へと移行したことがわかります。さらに、ヨーロッパの東側では、オスマン帝国の全盛期を誇ったスレイマン1世(在位:1520年~1566年)が即位しています。ウィーン包囲やプレヴェザの海戦による地中海の覇権争いが頻発し、対外的にもかなり激しい時代だったと言えるのではないでしょうか。

オラニエ公は日本の織田信長と同世代だった

オラニエ公が生きた16世紀は、日本でいうと戦国時代です。

日本の戦国時代のはじまりとおわりの時期については、様々なとらえ方がありますが、1467年の応仁の乱をはじまりとし、徳川家康が江戸幕府を開く1603年ころまでの約140年間を指すことが多いようです。

応仁の乱後、室町幕府の支配力はもはや全国の有力大名を従えるものではなくなりました。そんな中、下克上によって北条早雲や斎藤道三などを皮切りに戦国大名が力を持つようになってきます。

Odanobunaga.jpg
織田信長 By 狩野宗秀, Public Domain, Link

1560年には、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、天下統一のためにどんどんと勢力範囲を広げていきます。1582年に本能寺の変で織田信長が自害し、その後豊臣秀吉が天下統一を果たすのが1590年。そして、1600年の天下分け目の大戦といわれる関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、征夷大将軍に任命され江戸幕府を開くのが1603年のこと。1615年の大阪夏の陣で豊臣家が滅亡し、完全に戦国時代に終止符がうたれることになります。

オラニエ公は、戦国三英傑の筆頭である織田信長より1年早く生まれ、織田信長より2年長く生きています。ふたりとも最後は暗殺と自害の違いはありますが、天寿を全うすることなく命を落としているのも非常に似ています。

オラニエ公ウィレム1世は名門貴族のサラブレッド?

オラニエ公ウィレムの家柄は、もともとドイツの西部のライン川に繁栄した貴族の家系であるナッサウ家からきています。12世紀の終わりころに起源を持つナッサウ家は、ヴァルラム系とオットー系に分かれる。オットー系の子孫は、低地諸州(現在のオランダ、ベルギー地方)に領地を増やしていきます。

Arms Nassau.png
ナッサウ家の紋章
By Original image : Ralf Hartemink, cropped by OwenBlacker – Cropped from Image:Arms Nassau.gif, taken from http://www.ngw.nl/rykswap.htm, CC BY 3.0, Link

16世紀はじめには、低地諸州随一の名門貴族になり、当時の神聖ローマ帝国皇帝カール5世から、ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州の総督を任せられています。

オラニエ公ウィレムの従兄であるルネ・ド・シャロンが、南フランスのオランジュ公領も相続していたが、25歳で不慮の戦死を遂げたため、当時11歳だったウィレムにに相続されオラニエ公ウィレムとなりました。
※「オラニエ」は「オランジュ」のオランダ語読みです。

ウィレムがオラニエ公ウィレムと名乗るようになってから、この家系はオラニエ=ナッサウ家と呼ばれるようになります。オラニエ公ウィレムは、オランダ地方では名門貴族のサラブレッドというところでしょうか。

オラニエ公は新教徒弾圧計画を耳にし、反抗の意思を固めた

フェリペ2世はカール5世から低地諸州(現在のオランダ、ベルギー地方)とスペイン王位を託されます。そのため、低地諸州はスペイン王国領となり、当時「太陽の沈まぬ国」と言われたスペインの統治下におかれます。

当初は良好な関係を築いていたオラニエ公とフェリペ2世ですが、イタリア戦争のカトー・カンブレジ条約後もフェリペ2世がスペイン軍を低地諸州に留まらせようとしました。スペイン軍が異端者の取り締まりのために活用されることを恐れた低地諸州の議会は、これに反対。そして、オラニエ公も低地諸州議会側の味方についたのです。ここでふたりの間に溝が生まれます。

Cateau-Cambresis.jpg
カトー・カンブレジ条約を結ぶフランス王アンリ2世とフェリペ2世  Public Domain, Link

イタリア戦争後の和平を確かなものにするために、フランス側とハプスブルク家側の外交使節団とで狩猟が行われた際に、たまたまオラニエ公とフランス国王アンリ2世がふたりきりになる時間がありました。そこで、オラニエ公は、低地諸州を含めた全ヨーロッパの新教徒(プロテスタント)弾圧計画を耳にし、スペイン王権に対する反抗の意志を固めたと言われています。

スペインによる弾圧が始まり、オラニエ公は武力闘争を決意する

オスマン帝国との戦争に一区切りがついたフェリペ2世は、異端とされる新教徒に対してに対して強い態度を示してきました。それに対して、低地諸州ではあちこちで新教徒によるカトリック聖像破壊がはじまったものの、一旦は政府の手によって収まります。このとき、身の危険を感じたオラニエ公ウィレムは、生まれ故郷ドイツへ帰っています。

Escudo del Ducado de Alba de Tormes.svg
アルバ公の紋章

Fernando Álvarez de Toledo, III Duque de Alba, por Antonio Moro.jpg
第3代アルバ公爵

By Xavigivax (Taller de Heráldica y Vexilología in the Spanish Wikipedia )
このベクターイメージはInkscapeで作成されました。CC 表示-継承 4.0, Link
パブリック・ドメイン, Link

その後、フェリペ2世はいよいよ異教取り締まりを本格的に行動に移しはじめることになります。「剛直公」の異名を持つ、アルバ公を低地諸州に送り、聖像破壊騒動の関係者を次々に処刑しはじめます。そしてオラニエ公も全領土を没収されます。ここへきて、オラニエ公は、武力による闘争を決心します。1568年春のことでした。

オラニエ公は海賊・海乞食党を起用して有利に戦った

しかし、オラニエ公ウィレムによる挙兵は大半が失敗に終わります。そこで目を付けたのが、アルバ公の弾圧によって国外逃亡した亡命者の中に海に逃げ海上生活をしている者たちでした。彼らはまるで海賊のようなことをして生計を立てていました。その名も「海乞食党」です。オランダ語で「ワーテルヘーゼン」。

Confiance Kent fight.jpg
私掠船の襲撃
アンブロワーズ・ルイ・ガルネレー, パブリック・ドメイン, Link

オラニエ公ウィレムは、彼らに信任状を交付し「私掠船」(君主や国王から敵船を襲撃し積み荷などを奪う特権を与えられた船)として、大義名分を与えます。

1572年、海乞食党がホラント州のデン・ブリルを占領することに成功します。それから順次、スペイン王権反対派が勢力を伸ばしていきます。さらにアルバ公が解任され、スペイン軍は統制を失っていくことになります。そして、1576年にヘントの和平が結ばれ、スペイン軍が低地諸州から撤退することになります。

オラニエ公はオランダをスペイン支配から脱却させた

フェリペ2世は、問題の根本的解決を図るために、1580年にオラニエ公ウィレムに対しての事実上の暗殺指令を出します。フェリペ2世は、低地諸州の反乱の首謀者はオラニエ公ウィレムであると断定していたのです。

オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父
『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』
C.ヴェロニカ ウェッジウッド (著), C.Veronica Wedgwood (原著), 瀬原 義生 (翻訳)

これに対して、オラニエ公ウィレムは『弁明』という文書を出版します。これは、自分の功績を列挙する一方で、フェリペ2世の根拠のないうわさやゴシックを引き合いにして徹底的に叩きます。さらに、外国君主を低地諸州の国王にする行動に出ます。そうなると当然、現在の国王であるフェリペ2世に廃位を求めることになります。そして、1581年7月26日に「国王廃位布告」が議決されました。

スペイン支配からの脱却がついに成し遂げられます。しかし、国として自立するのはもう少し先の話。

オラニエ公は51歳で凶弾に倒れた

フェリペ2世の「王位廃位宣言」後、新君主の力の無さが原因となり、この政策は失敗に終わります。そして、オラニエ公ウィレムに君主後任の白羽の矢が立つことになります。オラニエ公ウィレムは渋り続けていましたが、ようやく重い腰を上げようとしていた1584年夏、悲劇が起きます。

当時、ホラント州のデルフトで暮らしていたオラニエ公ウィレムの近侍の一人に、狂信的カトリックの男性が紛れていました。そして、昼食を終えて部屋に戻ろうとしたオラニエ公ウィレムは至近距離から狙撃され、2発の銃弾が体を貫通し、すぐに息を引きとったといいます。

KogelgatenPrinsenhof.jpg
オランダ・ホラント州のオラニエ公の居館プリンセンホフには、
オラニエ公狙撃の弾痕が今も残されている。
By Juvarra, CC BY 3.0, Link

歴史上初めて、銃によって国家指導者が暗殺された瞬間でした。享保51歳。

これから、自分たちの力で低地諸州を国家としてまとめていこうという最中でした。

オランダはこの後、グリニッジ条約(1596年)・ウェストファリア条約(1648年)を経て、ようやく独立国として認められることになります。

オラニエ公ウィレムは沈黙の人だった?

「沈黙公」と呼ばれるオラニエ公ウィレムは、沈黙を好む人物だったのでしょうか?あるいは、物静かで冷静沈着な人物だったのでしょうか?

silent

実は、オラニエ公ウィレムは、社交的な人間で話も上手な人だったようです。

ただし、政敵には

  • 何を考えているのかわからない人物
  • 本心を表に出さない油断できない人物

として、あまり良くない意味で使われはじめたのが発端だったようです。

オラニエ公とフェリペ2世、もともと仲が良かった?

フェリペ2世の父親であるカール5世の寝室に入れたのは、実の息子であるフェリペ2世とオラニエ公ウィレムのみであったといいます。フェリペ2世はスペインで育ち、オラニエ公ウィレムは低地諸州で育った違いはあれど、ふたりはとても近しい関係だったようです。

その証拠に、オラニエ公ウィレムの長男はフィリップス・ウィレムと名付けられている。「フィリップス」はスペイン語では「フェリペ」です。

Karl V.-Carlos I. 1548 (Tiziano Vecellio?) 066.jpg
神聖ローマ皇帝カール5世
パブリックドメイン, Link
King PhilipII of Spain.jpg
フィリペ2世
パブリック・ドメイン, Link

しかし、低地諸国が反乱を起こしてからは敵対する関係となり、オラニエ公ウィレムに事実上の暗殺指令を出していることからも冷え込んでいることが分かります。

異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい

と述べているほど、統一国家を目指し、熱心なカトリックであったフェリペ2世と宗教に寛大な姿勢を示し続けたオラニエ公ウィレムが、この時代に解り合うことはできなかったのかもしれません。

オラニエ公ウィレム1世の血を継ぐもの

Flag of the Netherlands

オランダ国旗

 オランダのイメージカラーと言えば🍊オレンジです。でも、国旗の色は「赤」「白」「青」です。ではどうしてオレンジなのでしょうか。

実は、これにはオラニエ公ウィレムが関係しています。というのも、オラニエは英語で「ORANGE」と表記します。オレンジ色の、あるいは果物の「ORANGE」です。オラニエ公はもともと、ドイツのナッサウ家出身の貴族ですが、16世紀に男系が途絶えてしまったオランジェ(ORANGE)公国を継いでオラニエ公と呼ばれるようになったのは上述の通り。

Amsterdam canal

オレンジ祭り

 

Koningsdag Graft-De Rijp 20140426.jpg
オランダ国王
By Erikt, CC 表示-継承 3.0, Link

ORANGE-blason.jpg
オランジュ市章
By Jeanlouiszimmermann, CC BY 3.0, Link
オレンジ自由国の国旗
オレンジ自由国国旗
パブリック・ドメイン, Link

オラニエ公国(現在のオランジュ市)は南フランスのプロヴァンス地方の公国で、オレンジの売買が盛んだった土地柄であったそうです。いまでもこの市のフラッグには3つの「オレンジ」があしらわれています。

ちなみに、19世紀にオランダ系ボーア人が南アフリカに建国したオレンジ自由国も、このオラニエにちなんでのことです。また、オランダの現国王の名前は、ウィレム=アレクサンダー・クラウス・ヘオルフ・フェルデェナント・ファン・オラニエ=ナッサウです。「オラニエ」も「ウィレム」もばっちり入っていますね。

オラニエでもOrangeでもなく、「オランダ」になった理由

連邦共和国を形成するなかで、最も経済的・軍事的に力のあったホラント州(Holland)は、ポルトガル語では「Holanda」と書きます。また、ポルトガル語では頭文字の「H」は発音しません。日本に初めてきた西洋人であるポルトガル人が「オランダ」と発音したことから、日本ではオランダで定着したのは間違えないでしょう。


阿蘭陀(オランダ)船入津之図 国会図書館蔵

 

「オランダ」の国際的な正式名称は、ネーデルラント共和国連邦・ネーデルラント王国(オランダ語:Nederland、英語:Netherlands)となります。

オラニエ公ウィレム1世の名言・格言

WilliamOfOrange1580.jpg
オラニエ公ウィレム1世 パブリック・ドメイン, Link

オラニエ公ウィレム1世の名言・格言①

問題は言葉の違いだけである。核心では皆一致しているのだ。

カトリック指導者の批判に対して、カルヴァン派、ルター派の礼拝場所を市内に保証したときに言った言葉。

※エラスムスの影響がうかがわれる名言です。
(エラスムス…ローマ・カトリックの悪習や愚行を批判。それでも教会統一を重要視し、相違点ではなく一致点に目を向けて、暴力を排し、融合と調和に務めることの大切さを説いた人物)

オラニエ公ウィレム1世の名言・格言②

神よ、私に憐れみを、神よ、この不憫な民に憐れみを。

最後に残した言葉を言われていますが、即死説が有力な現在では、言葉を残す時間はなかったのではないかという見方が大半を占めています。

オラニエ公ウィレム1世の名言・格言③

私自身がいかにカトリック信仰に忠実であろうとも、君主が臣民の良心を支配することや、臣民から信仰と礼拝の自由を奪うことには同意しかねるのであります。

スペイン王権の異端取り締まりの強い姿勢に対して、演説で胸の内を明かした言葉。

オラニエ公ウィレム1世ゆかりの地

ナッサウ家はじまりの地「ドイツ中西部のナッサウ」

オラニエ公ウィレムの家柄がはじまった場所です。バート・ピルモント(オラニエ家の保養地)や世界遺産のデッサウなどがある観光地です。

Lahneck and Nieder-Lahnstein Castle, Hesse-Nassau, Germany-LCCN2002713901

暗殺された地「デルフト」

国際法の父、グロティウスや「真珠の耳飾りの少女」で有名なフェルメールの生まれ故郷としても有名。

New Church and market square in Delft

オレニエ公の城「ディレンブルグ」

ディレンブルグ城は、現在オラニエ・ナッサウ博物館。

Wilhelmsturm Dillenburg vom Weinberg aus gesehen

オラニエ公ウィレム1世のブックガイド

オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父

日本語で読める著書の中で、「オラニエ公ウィレム」にスポットを当てて、詳細にその人物像を語ってくれます。オランダが寛容な国と言われる現在、その礎となった歴史的人物「オラニエ公ウィレム」に会うことができる良書。

物語 オランダの歴史 – 大航海時代から「寛容」国家の現代まで (中公新書)

オランダの独立、黄金期を迎える17世紀、その後の衰退、日本との関係、現代のオランダと約450年間のオランダの歴史を追うことができる一冊。物語調で書かれているためあっという間に読み終わってしまいます。

ビジュアル 世界史1000人

小学校の図書館でも見かけるこちらの本は、その題名の通りイラストや図をふんだんに使い、「ビジュアル的」にとらえることのできる一冊です。歴史を縦軸(地域)と横軸(時間)でとらえることもできるので、歴史初心者にはおすすめです。

 

現在、移民問題に揺れるオランダ。移民を受け入れるべきではないという主張があるもの事実。しかし、2013年に退位したベアトリクス女王がクリスマスメッセ―ジにこんな言葉を残している。

開放性と寛容の中に信頼の重要な基礎があります。(中略)寛容は私たちの国を強くしました。各人の尊厳と対等を認めることは、平和で公正な社会の本質的要素です。

ここで、強調されている「寛容」というキーワード。その起源は、オラニエ公ウィレムなのかもしれません。そして、国連の調査で幸福度ランキング上位常連のオランダの根源も。

コメント